終わりなき日常が…2011/04/02 16:09

 マンションの庭の桜も日々花の数を増やしている。明日はマンションのささやかな花見だが、なんとか五分咲きくらいにはなって欲しい。ただ、気温が下がるということで、肌寒い花見になりそうだ。

 短歌時評の原稿を何とか間に合わせて送る。この時期だけに、時評を書くのはつらい。とりあえず、大震災と歌のことばというテーマで書いた。材料としては、読売夕刊(3月30日)の福島泰樹と島田牙城の短歌と俳句について少し触れた。福島泰樹の歌は、挽歌そのものでわかりやすい。が島田牙城の句は難しい。「目を開けてゐるのに見えてゐる桜」という句がある。目を開けているなら見えているはずだが、そうではない。見えていないのでもない。意味通りとれば、意味が通らない。が、なんとなくわかる気はする。

 あまり詮索するような解釈は避け、私は天智挽歌の「青旗の木幡の上をかよふとは目には見れども直に逢はぬかも」を重ねてみた。重ねるとわかるのではないか、という位の解釈にとどめた。あまり、解釈しすぎるとつまらなくなる気がするので。

 二週間新学期が延びたが、少しも暇では無い。五月に開く学会の大会の準備があって、ポスターを注文し、雑誌や大会案内の発送もしなくてはならない。非常勤で某大学の大学院の授業をやることになったが、大学院は、通常通りの授業開始だという。つまり、こっちはもうすぐ授業が始まるというわけだ。

 知り合いと雑談で、彼がふとこれで日本は時代の節目になるのだろうかと語ったが、たぶんそうなるだろう。以後、大震災以前と以後という時代区分が、様々な分野で語られはじめるだろう。朝日の論壇時評(3月31日)で東浩紀が「終わりなき日常」は突然断ち切られた、と書いている。「終わりなき日常」とは、ポストモダン以降の、おたく文化を生み出した時代状況の括り方である。

 終わらない日常を前提として、人々は、妄想や虚構の物語に浸った。それが、日本のサブカルチャー文化を支えた。が、その終わらない筈の日常が突然非日常に暗転してしまった。今の現実の方が悪夢なのである。東浩紀の言う「ゲーム的リアリズム」のリアリズムは、現実のリアリズムの前で完全に色あせたのである。これから、日本のサブカルチャーはどうなるのだろう。授業で、アニメ論を展開しようと勉強していた私としても、ちょっと、授業をやりづらくなった。

 文学という、虚構を糧とする文化は、堅固な日常があってこそ栄えるのだ、ということがよくわかる。文学研究を飯のタネとする私にとって、今は厳しい時である。が、そんなことは言っていられない。被災者が早く復興して日常を取り戻せるよう、私なりに努力していくしかない。

                こんな時にでも笑う子がいる春

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