短大はどうなる…2009/06/05 01:44

 今週もいろいろと忙しい。授業のことより、来年の学会の企画などを考える時間が無くて気ばかりあせっている。会議は相変わらず多い。来年の御柱に合わせてアジア民族文化学会では諏訪でシンポジウムを開くことになった。これについての企画をどうも私が考えなくてはならないようで、いろいろと思案中だ。それから、アジアの歌の音数律のシンポジウムを単行本にする企画案もそろそろ出さなくてはいけない。今年の秋の古事記をめぐるシンポジウムの案内も出さないと、ととにかく考えることばかり多い。

 今日は課外講座で学外者である市民向けの万葉集の講義があった。毎年10名前後なのにどういうわけか26名も受講者がいる。これだけ来てくれると資料などの準備にも力が入る。来週は一回だけだが、カルチャーセンターでの中国の神話についての講座がある。その準備もしなくてはならない。

 今日夜久しぶりに昔の仲間との飲み会に顔を出す。二人の知りあいと35年ぶりに会った。お互い歳を取ったなあと挨拶。一人は、大きな某病院の副院長で精神科医。私が彼と最初に会ったとき、確か、高校生だった。高校生で学生運動していた。田舎から出てきたばかりの私は東京の高校生はすげえなあと驚いた覚えがある。

 もう一人は私と話しながら頭はだいぶ薄くなったがそれ以外は変わらないなあと言う。それはないだろうと言ったが、そう見えるというのはどういうものか、まだ若く見えるということか、それとも成長していないということか。若く見えるという方をとりたい。

 今日自己評価報告書の件で偉い人と話す機会があり、短大はどうなるかという話になった。話が弾まなくて困った。偉い人は短大の教員は四大に改組したいと思っているのでしょう、とおっしゃったが、私は、短大に属してそこで仕事をしている以上、短大の生き残る可能性を追求するのがわれわれの役割、と答えた。

 教員であり研究者である以上、やはりレベルの高い学生に教えたいというのは当然だろう。ほとんどの教員は、短大での就職口しかなくて入ったという経緯だろう。その意味では、四大に改組したいと思ってはいるだろうが、現実は厳しい。

 が、短大が沈みゆく船なのだとしたら、ここで頑張っても将来は暗い。要は、短大が社会から必要とされているかどうかだが、私は必要とされていると思っている。短大に入ってくる真剣なまなざしの子たちを見ると、何とかしてやりたいと思わずにはいられない。専門学校であろうと、短大であろうと、そこで自分の将来を託そうと思って入ってくる人たちがいる限りは、わたしたちの存在理由は充分にあるのである。

 本当はここは自分が勤めたい場所でないと思ってしまったら、たぶん、仕事はつまらなくなるし、つまらない日常生活になるだろう。たとえ沈み逝く船でも、どうしたら沈まないように出来るか、楽しく工夫しながら働くというのが一番いい。たとえ沈んでも、次につながる。まあうちの短大はそう簡単には沈まないが。
 
                         紫陽花に降る雨のように物憂く