江原啓之にはなれない ― 2007/05/10 00:18
うちの学科の学生が今日体調が悪くて保健室で休んでいたがひどくなったので、保護者に来てもらうということがあった。時々こういうことが起こる。いろいろなことがある。
今週のニューズウィーク日本版は、日本のスピリチュアルブームを取り上げている。江原啓之のインタビューも載っていた。外国人の記者は、キリスト教的信仰の土壌で生きてきた自分たちには、このようなブームがよく分からないと書いている。
ただ、こういう日本のスピリチュアリズムがイギリスのスピリチュアリズムを模範としていることに面白がっている。江原啓之もやはイギリスのスピリチュアリズムを学んでいるらしい。日本のは自然宗教的な要素が強いのだろうが、英国をまねるのは、英国ではスピリチュアリズムが科学に近い扱いを受けているからだと言う。むろん認めない人の方が多数らしいが。
今日テレビで、上海の投資が過熱気味であるという番組をやっていたが、上海の投資家が投資のタイミングについて、グラフを見ていると直感でわかるの、と答えていた。科学と直感は背反するものではない。人間の心においてはである。
江原啓之のコンサートらしき催しにに参加するのはほとんどが女性であるらしい。ほとんうは男性だって行きたいのだろうが、なかなか行きにくいということだろうか。自分が今幸福でない理由を科学的にだれも説明できない。とすればその解決も同じことだ。
が、人をだましたり、不真面目に生きれば、幸福にはなれないことは誰もがわかる。そういうごく一般的な分かりやすい解決法を、理屈や説教でなく、直感(霊感)で語ってくれたら、そのほうがリアリティのある解決になるだろう。もともと、自分が幸福で無い理由そのものが不思議なのだ。こちら側でないところから来た不幸は、こちら側でないところからもたらされる言葉によってこそ祓われるのだ。そういう心理を、人間はどんなに合理性や科学を発達させようと失わない。
重要なのは語る中身ではなく、その語り方なのだ、ということである。江原啓之の語るのは誰にも適用できる人生論である。が、その語り方は簡単には誰にもできない。守護霊や前世が見えていることを巧みに交えながら語る語り口は、現代の資本主義社会におけるシャーマニズムの一つの典型だろう。
イタコの語る人生論が、東北の生活と風土の暗さを負ったものだったとすれば、現代の資本主義社会における多くの悩みは、競争社会にうまく適応できない悩みか、適応しすぎたために起こるストレスの悩みである。そこいら辺を掴んでしまえば、私にだってたぶん人生相談は出来る。後は語り口の芸があるかどうかである。
自分の話す話は自分が話しているのではなく、神もしくはある普遍的な立場からそう話すように促されているからだ、という雰囲気を作れば、江原啓之になれる。カリスマの語り口とはそういうものだ。授業の語りの下手な私は時々、そういう語り口を学びたいと思う。学生たちを信者に出来たら、授業のアンケートだってトップになれるだろうと思うが、そうはいかない。そういう語り口は、根拠があろうとなかろうと断固とした自信で語らなければならない。私にはそれがない。世の中断定的に語れないことばかりだ、と言う語り口が私の信条だ。やはり、私は江原啓之にはなれない。
魂がめまいする立夏かな
今週のニューズウィーク日本版は、日本のスピリチュアルブームを取り上げている。江原啓之のインタビューも載っていた。外国人の記者は、キリスト教的信仰の土壌で生きてきた自分たちには、このようなブームがよく分からないと書いている。
ただ、こういう日本のスピリチュアリズムがイギリスのスピリチュアリズムを模範としていることに面白がっている。江原啓之もやはイギリスのスピリチュアリズムを学んでいるらしい。日本のは自然宗教的な要素が強いのだろうが、英国をまねるのは、英国ではスピリチュアリズムが科学に近い扱いを受けているからだと言う。むろん認めない人の方が多数らしいが。
今日テレビで、上海の投資が過熱気味であるという番組をやっていたが、上海の投資家が投資のタイミングについて、グラフを見ていると直感でわかるの、と答えていた。科学と直感は背反するものではない。人間の心においてはである。
江原啓之のコンサートらしき催しにに参加するのはほとんどが女性であるらしい。ほとんうは男性だって行きたいのだろうが、なかなか行きにくいということだろうか。自分が今幸福でない理由を科学的にだれも説明できない。とすればその解決も同じことだ。
が、人をだましたり、不真面目に生きれば、幸福にはなれないことは誰もがわかる。そういうごく一般的な分かりやすい解決法を、理屈や説教でなく、直感(霊感)で語ってくれたら、そのほうがリアリティのある解決になるだろう。もともと、自分が幸福で無い理由そのものが不思議なのだ。こちら側でないところから来た不幸は、こちら側でないところからもたらされる言葉によってこそ祓われるのだ。そういう心理を、人間はどんなに合理性や科学を発達させようと失わない。
重要なのは語る中身ではなく、その語り方なのだ、ということである。江原啓之の語るのは誰にも適用できる人生論である。が、その語り方は簡単には誰にもできない。守護霊や前世が見えていることを巧みに交えながら語る語り口は、現代の資本主義社会におけるシャーマニズムの一つの典型だろう。
イタコの語る人生論が、東北の生活と風土の暗さを負ったものだったとすれば、現代の資本主義社会における多くの悩みは、競争社会にうまく適応できない悩みか、適応しすぎたために起こるストレスの悩みである。そこいら辺を掴んでしまえば、私にだってたぶん人生相談は出来る。後は語り口の芸があるかどうかである。
自分の話す話は自分が話しているのではなく、神もしくはある普遍的な立場からそう話すように促されているからだ、という雰囲気を作れば、江原啓之になれる。カリスマの語り口とはそういうものだ。授業の語りの下手な私は時々、そういう語り口を学びたいと思う。学生たちを信者に出来たら、授業のアンケートだってトップになれるだろうと思うが、そうはいかない。そういう語り口は、根拠があろうとなかろうと断固とした自信で語らなければならない。私にはそれがない。世の中断定的に語れないことばかりだ、と言う語り口が私の信条だ。やはり、私は江原啓之にはなれない。
魂がめまいする立夏かな
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