撮る側だが撮られる側に立つ2006/03/10 20:44

先週一週間中国雲南省の弥勒県イ族の火祭りを見てきた。祭りは、3月1日・2日。昆明から半日で行ける所である。紅万村という村の祭祀で、火の神を祭る祭祀である。1日は、密枝山という近くの聖なる山で、神樹を祭る儀礼が行われた。豚を神樹に供える儀礼だが、よく太った豚が選ばれ、神樹のもとに運ばれると、ビモのお経の後、精霊に扮した若者、というよりは先祖の姿を擬しているといってもいいのだろうが、裸の身体にペインティングをした若者が五・六人現れ、豚を責め立てて殺す。

その豚を今度は丁寧に解体し、頭と足を尾を切り離しそれを神樹の前に供える。また肩胛骨を松の枝とともに神樹に結びつける。解体された豚は、大きな鍋に煮込まれ、会場に集まった村人らの会食に出される。次の日は、火祭りの行事で、われわれは県都のホテルから朝早く食事もせずに村に向かった。混雑が予想されたからである。

確かに、バスが何台も入ってきていて、と゜うもこの祭りはかなり観光化されているなあと嫌な予感がしたが、その予感は的中した。実際、カメラやテレビの撮影やで、村は溢れんばかりになった。この祭りは先祖が初めて火を起こして、村に文明をもたらしたという神話を再現するものだが、それとは別に、火を神として、旧年の旧火を新年の新しい火に変えるという祭りでもある。つまり、これは正月儀礼だと考えてもいいようだ。

この祭りが有名なのは、村の若者がほとんど裸同然で身体にペインティングをしたり、葉っぱで身体を覆ったりと、森の精霊のような扮装をして、火の神の人形を先頭に気勢をあげながら行進する、そのカーニバル的な祭りだからだろう。それと、村の道路に松の葉を敷いて、村人や村を訪れる客に食事を振る舞う「長宴」もまた有名らしい。

確かになかなか楽しい祭りだった。1日・2日の昼頃までこの時期には珍しい寒波のせいでとにかく寒かった。だが、2日の午後には太陽が顔を出し、気温も上がり祭りらしくなってきた。とにかく人が多くて、まともな取材が出来なかった。ほとんどの人が仮装大会みたいなパレードに殺到し、人にもまれてただただ疲れた。ただ、ビモへのインタビューが出来たのは収穫だったし、何よりも、鶏を殺してその首や足を縄に結ぶ結界の儀礼を取材できたのが、最大の収穫だった。これを取材できたのはわれわれだけで、他の連中はカーニバルに夢中になっていて、村のはずれでひっそりと大事な儀礼が行われていることに気づかなかった。

それにしても、中国ではついに、このような祭りに対して、一般の人たちまでが関心を持ち始めたのだ、と改めて中国の変化を感じ取った。この祭りに来ていた多くの人々は、研究者というよりは、自分たちの国の辺境で昔から続いている不思議な祭りを見てみようと言う好奇心によってやってきた中国の普通の人たちである。みんなカメラを持っていたが、驚くことに、かなりの人がデジカメの一眼レフを持っていた。私だって買いたいと思っているがまだ高いのでためらっているカメラだ。要するに、中国の富裕層がこの祭りを見に来ているということだ。

中国は、かつて西欧がアジアアフリカの中にエキゾチズムを発見したように、自分たちの国の少数民族の中にエキゾチズムを発見したのだ。私は、仕事柄日本であっちこっちの祭りを見て歩いているが、いつもすごいカメラマンの数に驚きながら、なんでこんなに暇な奴が日本には多いんだ(私もその暇な部類に入るのだとしても)、と半ばあきれていたものだが、同じ状況が中国にも起こっているのだ。カメラマンたちは、赤ん坊を背負った老婆や、農家の庭先でいかにも古そうな道具を使って仕事をしている村人を熱心に撮っている。かつては貧しさの象徴として見向きもしなかった対象を熱心に撮影している。これもいつか見た光景だ。

これらは、失われつつある、懐かしい絵なのである。10年前は、中国ではこういう農村の光景を被写体として価値があるなんて思っていなかったろう。だが、今は違う。映画もそうだが、現在の中国の大きなテーマは、失われつつあるものへの懐古であり、同時に、内なる辺境の発見なのである。だからこのような祭りに中国人が殺到する。祭りを行う側も、その価値に気づき観光資源として売り出し、役所も支援する。他の村でひっそりと行われていたような祭りは、担い手を失い、すぐに消えてしまう。上手く観光化出来たところだけが、祭りを維持できる。これも、どこかで見た光景である。

私は毎年中国に行くが行くたびに中国の変化を肌で感じる。その変化はすでに取材対象であった少数民族の祭りにまで及んでいた。それは、中国人の精神の変化を物語る。かつて撮られる対象だった彼等は、撮る側にもまわりはじめた。われわれと同じようにだ。それは、彼等が民俗学や文化人類学を必要とし始めたということでもある。

祭りの会場には、祭りの出店が沢山出ていてにぎやかだったが、参ったのは、犬の肉をあっちこっちでたくさん売っていたことである。村には犬がたくさん放し飼いになっている。どの犬も大事にされていてむやみに吠えたりしない。でも、屋台には犬の顔のついた肉が所狭しと並んでいる。慣れているとは言え、見たくない光景ではあった。私は、二日間の取材で疲れ昆明に帰って熱を出した。寒さと疲労が原因だ。だが、帰国の日には治った。よかった。熱を出したまま帰ると、検疫で鳥インフルエンザに間違えられる。かなりのハードな旅だったが、何とか日本に戻ってきた。途中広州のターミナルで乗り換えたが、広州のターミナルのばかでかさに驚いた。

帰ってから、雲南省の怒江に巨大なダム計画があり、環境問題等で反対運動があり計画がなかなか進まないという朝日新聞の記事を読んだ。怒江は二度も行った地域である。そうかあの怒江までダムが出来るのか。でも、この地域の貧しさを考えたらダムもやむを得ないのかなとも思う。ここは中国でももっとも貧しい地域である。貧しさを克服する開発の動きは止められない。環境との調和、文化の継承をどのようにするのかそれが問われるが、それを担うのは学問でもある。

今中国の変化は、この学問にこそ起きていなくてはならない。が、中国では経済や理系のような金になる学問に人気が集中しているそうだ。これも日本と同じだ。中国の若者も日本の若者も、経済の勉強も、開発対象の地元の住民が豊かになる経済学ならいいが、大都市の住民ばかりが豊になる経済学を学ぶのである。ダムに沈む人々を豊にする経済学や文化学や環境学が必要なのだ。撮る側でなく撮られる側に立ってものを考える学問が必要だと言うことだ。残念ながらそういう学問は少数派だ。私はどちらなのだろう。たぶん、撮る側にいるが、志は撮られる側に位置しているつもりだ。願望だけかも知れないが。