声が出ない…2010/07/04 18:44

 夏風邪を引いてから最悪の日々が続いている。まず、金曜日に声が出なくなった。熱はないが、身体はだるい。声は土曜日にも出なかった。普段から家では声を出してないから、家に居る限りは不便はないが、それでも、奥さんとの日常の会話が出来ないというのは、楽な面もあるが、ほんとに声が出ないの?と、疑われるのが辛い。ほんとに出ないのだ。まあ、たまには声がでないことをいいことに返事しないこともあるが。

 土曜日は、某大学での中国文化センターの会合があったのだが、とにかく声が出ないのと体調が思わしくないので欠席。私はそこで客員研究員をやっているのだが、学会の例会を休んで行こうとしていたのに、残念だった。

 風邪の原因の一つがクーラーなので、とにかくクーラーはつけないで家でじっとしている。原稿の仕事はあるから、仕事はしているが、やはり医者からもらった薬の影響なのか、すぐに眠くなる。仕事がはかどらない。

 日曜になってやっと声がでるようになった。体調はまだ回復していない。明日からの授業は何とかやれそうだと思うが、どうなることやら。昔ならすぐ休講なのだが、最近、休講すると補講を必ずしなくてはいけないので、休講がしづらい。

 「七五調のアジア」の私の原稿を推敲しているのだが、むずかしいところをどうかみ砕いて優しくするのかで手間取っている。難しいところは単純で、要するに、抽象的な概念をいきなり用いて説明しようとしているところだ。学生に私は、何か新しい言い方をしたら、どうしてそう言えるのか、その理由をかならず後に書きなさい、と教えているのだが、結局、同じことが自分にも当てはまるというわけである。

 難しいところは、たぶん、書いていて、こうも言えるああも言えると、色んな想念が飛び交って、とにかくみんな書いてしまおうとしたところである。論理の一貫性よりも、論の飛躍の自在さを楽しんでいるところだ。こういうのはひとりよがりになってしまうので、気をつけなければならない。推敲を重ね、思いつきのほとんどを削除した。ようやく、論理はシンプルになったが、それでもまだこなれていない。自分の論理力の不足を痛感するばかりである。

 次の原稿40枚ほどをあと半月ほどで書き上げ無ければならない。ここで体調壊したと言うこともあり、まず無理であるが、何とか書けるところまで書かないと。

 マンションの庭の紫陽花が今とてもきれいだ。

                        紫陽花の庭幸福な日陰あり

切羽詰まらないと…2010/07/14 01:23

 ブログもしばらくぶりである。とにかく書く暇がなかった。一つは風邪を引いたこと。この10日間は辛かった。今は何とか持ち直したが。それから、とにかく原稿を書かなきゃということで、毎日原稿を書いていること。授業の準備があり、しかも、先週には、大学の第三者評価の研修会というのが二日間あってそれに参加。土日は風邪も治らずに山小屋へ。

 夏の雲南シンポジウムの準備も大変である。さらに「七五調のアジア」の原稿を集めて出版社に持っていくことも。色んなことがこの七月に集中して、さすがに、自分のことが心配になってきた。まあなんとかなるとは思うが。学科長という仕事をしていたら持たなかったろう。辞められてほんとによかった。学校の方もいろいろ大変なのだ。

 日曜は山小屋から帰ってきたが、選挙の当日なので帰りがけに投票。予想通り民主党の大敗。政権交代でまだやりたいことはやっていないだろうに、これで民主党は何も出来なくなってしまったというわけだ。自業自得の面もないわけではないが、管首相はある意味で政治家のセンスに欠ける。管1人で負けた選挙になってしまった。

 民主党の敗北は、日本国民の敗北なのかもしれない。望んだわけじゃないだろうが、日本人は混乱を選択した。政治の不安定は経済にもマイナスだろうし、先行き見通しは暗い。去年の選挙は、福祉切り捨てや格差社会を許さないという民意が機能した。今度は、増税は嫌だという民意が働いた。この二つは矛盾している。共産党のように矛盾無くこの二つをやれるという政党もいるのに、民意はそれを支持しない。要するに日本人は混乱しているのである。

 みんなの党のように官僚改革で財源を作るというのはたぶん無理である。巨大化した官僚システムを短期間で縮小するのは、暴力革命以外に無理である。役人はみんな税金泥棒というのは昔の幻想であって、役人の大半は国民へのサービス業であるから、革命は、そのサービスを徹底して破壊する。とすれば一番悲惨なのは低所得者になる。暴力革命でない官僚改革というのはだから時間がかかる。漢方で身体を治すようなものだ。官僚システムを改革して無駄をなくしてから増税、というのは、借金返済にかなり時間をかけてもいいというのでないと無理である。たぶん、今の日本にその余裕はないだろう。

 その意味で管首相の消費税発言は間違っているわけではないだろうが、ただあそこで言うべきではなかったということだろう。それを冷静に受け止めるほど日本人は成熟していているわけではないということだ。その点、小沢一郎は日本人の未熟さをよくわかっているから、選挙に決して都合の悪いことは言わない。管が負けなかったら日本人はまだたいしたものだと思うが、結果は反対だった。

 最悪の予測は、日本人は自分を外圧以外でのやり方では変えられない、という宿命みたいなものがまた繰り返されるということである。あと何年か後に借金が日本人の預貯金額を上回り国債の信用を落としたとき、日本は外圧によって緊縮財政になり福祉はかなり削られる。その時ひどい目にあうのもまた低所得者である。このままではそうなる可能性がかなり高い。

 私は大きな政府を作ろうとしている民主党の政策はあまり支持しない。新しい公共のあり方を探っている民主党の若手に期待している。官によるサービスは徐々に民の自助的な相互扶助に切り替えられるべきであり、政府はその補助をするべきというのが私の考えだ。そのように切り替えて行けば、漢方薬が効くように、官僚システムは縮小していく。手術でいきなり官僚システムを切り取っても、削り取った政治家の作った官僚システムが台頭してくるだけの話なのだ。

 民主党が地方で大敗したのは、地方が自民党や民主党の徹底した補助金制度で自立することが出来なくなり、増税という負担を受け入れる力がないからである。この改革も時間がかかる。政府に頼らない経済的自立を、政府が推進するということをできるかどうか。

 でも、考えようによっては、日本人は選挙で混乱を選択したという自覚は持ったろうから、良いことだったのかもしれない。選択の結果は自分に返ってくる。今私たちが出来ることは、政府に頼らない生き方をどう身につけていくかだ。年金なしで生きろということではない。でも、それでも生きられるような相互扶助的な仕組みを作るべきだろう。地震で壊滅した被災地の人たちは、そのように生きたではないか。出来ないことはないのだ。むろん、切羽詰まらないと出来ないかもしれないが、そのうちそういう事態がやってくるだろう。

                         夏空は切羽詰まって雲ばかり

久しぶりに柄谷を読む2010/07/17 00:00

 今日は大腸検査の日。前日から食事を控えめに、朝西国立の病院に行く。検査自体は麻酔なのであっという間なのだが、腸を洗浄するのに時間がかかる。今日も午前中ずっと洗浄剤とやらを飲み続け、なかなか便意を催さないので、大分時間がかかってしまった。

 一応小さなポリープはあったとのこと。毎年受けてるが必ずある。そういうものなのだろうが、大きくなると悪化してガン化する可能性もあるというので、毎年この検査を受けざるを得ないのである。今年はこれで検査の一つが終わったということになる。

 午前中、やることないので病院で柄谷行人の『日本精神分析』を読んでいた。柄谷は久しぶりだがなかなか面白かった。特に、菊池寛の「入れ札」という短編を題材にして、民主主義の危うさを論じていくところは圧巻である。

 歴史的に普通選挙が成立したときに、ヒットラーのような独裁者が現れる。それは、普通選挙が、真の代表を選ぶ選挙だという錯覚を与えるシステムだからだという。つまり、どんな選挙であれ、選挙前から代表者は、権力の操作やマスコミによって決まっていて、選挙とはそれを民主的な手続きで選ばれたというお墨付きを与える制度に過ぎないというのだ。何故、そのような錯覚が生まれるのかというと、匿名による投票という巧妙なシステムにあるという。投票は無記名だから、選ばれたものは、自分は特定の誰かに選ばれたのではないという幻想を抱ける。が、実際は、匿名などと言うのも錯覚で、ある程度誰がいれたかなどはだいたいわかるもので、例えば、地方の選挙では、票数あらかじめが読めてしまうが、これは匿名というシステムが最初から錯覚であることを物語っている。

 つまり、こういうことだ。匿名を信じ、自分たちの真の代表を選んだと思う有権者は、選んでから失望する。というのは、選ばれた者は、最初から特定の層の利害を代表するものにすぎないからだ。従って、特定の層の代表にすぎないものが、匿名選挙というからくりによって真の代表者のような顔をして政治にのぞむ。当然有権者は失望し、真の代表を渇望し始める。そこで登場するのが、大衆の真の代表者だと訴えて選挙制度そのものを形骸化する独裁者なのである。

 柄谷がいいたいことはこういうことだ。選挙で真の代表を選ぶことが出来るというのは幻想に過ぎないということだ。そういう期待が独裁を生むということである。有権者の意志というのも余りあてになるものではない。例えばネットで国民投票をすると仮定しよう。ネットでの発信は熟慮するという余裕を与えない。ネットでのやりとりの多くが誹謗中傷に流れてきわめて感情的になりがちであることがそのいい例である。今度の選挙でも、有権者の意見は、ほとんどがマスコミの誘導によって作られる。つまり、有権者の意見というものは常に流動するものであり、それらの意見を集めることが、有権者にとって正しい選択につながるとは言えないということである。去年と今年の選挙の民意というものを見れば確かにその通りである。

 むろん、柄谷は選挙そのものが良くないといっているわけではない。例えばアテネでは、僭主の独裁を防ぐために様々な工夫が為された。その一つがくじ引きであるという。柄谷は、選挙である程度の代表者を選び、権力を握るものはその中からくじ引きで選べばいいという。それなら、選ばれたものは、自分が真の代表であると主張することは出来ないし、人々も過剰な期待を抱くこともないし幻滅もしない。

 今の日本の選挙は、社会を良くする真の代表を選びたいという幻想によって投票し、選んでみると、期待通りではないと幻滅する、そして自分の信念を曲げない政治家をと、真の代表者をとまた期待する、という悪い循環に陥っている気がする。今の日本の状況をみれば、相当の詐欺師でないかぎり、国民の期待に応えることを演じることはできないはずだ。つまり、選挙に選ばれれば必ず期待を裏切る、ということが今の日本の民主主義のありようである。

 これに早く気づくべきだろう。マジックのように日本を変えるなんてことは誰も出来ない。期待と失望の繰り返しの民主主義は、匿名選挙のシステムそのものに由来するのだ。選挙をなくす訳にいかないのだから、とにかく選んだ政治家に簡単に失望せずに、まずは仕事をさせてやろうと言うくらいの度量が必要なのではないか。

                       梅雨あけてわがむらぎもをしらべけり

文学の危機2010/07/22 23:21

 暑い!さすがにまいった。毎朝バス停まで行くが、此の時が一番暑い。かつはこの時期もう夏休みに入っていたというのに、7月末まで働かなくてはならない。体調勝負といったところだが、体調良いわけがない。

 救いなのは、何とか書くべき原稿を書き終えたということくらいだ。でも、9月末までに今度は学校の紀要の原稿を書かなきゃならない。書くって言わなきゃよかったのだが、こんなに忙しくなるとは思わなかった。

 『東北学』の最新号は遠野物語100年特集で、今日はこれを読了。日曜に京都まで行ってこれの合評会をやる。といっても、私は書いていないが、一応コメンテーターになっている。中には面白い論もあった。特に私の担当する論は良かった。

 遠野における自然と里との関係は、里・里山・奥山と三つに分類されるが、それぞれ異人と人間の出会い方が違うという指摘である。里山での出会いは、どちらも緊張しながら互いの間合いを計って、通り過ぎるだけである。が、里や奥山だとそういう訳にはいかない。里では異人が人間にひどい目に遭わされる。奥山では人間が異人にひどい目に遭う。考えようによっては、当たり前だが、境界線上ではあまり物語性の強い出来事は起こらない。物語を考える上でヒントになった指摘である。

 某学会の運営委員会の終了後飲み会になって、近代の若い研究者が、今頼りになるのは柄谷行人だとふと語ったので、私や私と同じ世代のものは驚いた。おいおいまだ柄谷なのか。確かにわからないではない。資本主義以降について、信念らしきものをのべているのは確かに柄谷ぐらいだから。カルスタもポスコロ(飲み会ではこういうように略している)も、結局、資本主義批判が出来ない。理由は、どちらも国民国家の自明性を疑っていないからで、今のグローバリズムと金融資本主義で国家が翻弄されている現状を見れば、地域通貨で資本主義を縮小するべきだという柄谷の方が、まともに見える。

 が、柄谷の言う地域通貨やくじ引き民主制の理念には共感するが、そこに至るまでのぐじゃぐじゃした世界を丁寧に語る言説が必要ではないか、と私がちょっと反論したら、そういう言い方は反動にならないですか、と言われた。反動というのは懐かしい言葉だ。そうか、まだこういう言葉で論駁する伝統は消えていないのだ。たぶん、反動という言葉が力を発揮するのは、権力や国家が自明で誰にも見えていたからだ。というより、見えるようにあって欲しいからだ。

 自明性の喪失という言い方が流行ったが、これは国家や共同体に信をおけなくなった個人の輪郭の喪失のことであるが、今は、国家や共同体の自明性が喪失し始めた時代だ。近代が用意した国家対自己という自明性が曖昧になり、自己は自分を位置づける敵というよりどころを失った。反動という言葉も一緒に失ったのだ。でも、反動という言葉は消えた訳ではないのだ。理不尽な権力は消えた訳でもないので、あってもいいと思うが、この言葉、研究者があまり使うべき言葉ではないと思うが。

 ついでに、国語教育の人たちと話をしたのだが、今、文学教育が大学から消えようとしていると危機的に語っていた。私は中国の大学ではほとんど中国文学の講座はなく人気もないと語った。就職につながらないからである。少数民族の人たちが自分たちの民族の文学(口承の)を学んでいる。民族文化の保存のためである。実は、英語中心のグローバリズムのなかで、非英語圏の途上国では英語教育が盛んである。アジアで、英語教育が一番遅れているのは日本であるという統計がある。こういうグローバリズムのなかでは、自民族語による文学教育というのは、中国の少数民族と同じように民族教育になっていくしかない。つまり、日本語による文学教育は日本民族の文化を守る教育ということになる。

 日本が幸運なのは、英語能力が他の国々に比べて落ちる、ということと、日本語による文学が、それなりの世界的普遍性を持つ、ということへの自信を持っていることだ。例えば、源氏物語を持っていることが、どれだけ日本の文学教育を助けていることか。源氏物語教育は、民族文化教育ではない、という了解を少なくとも日本人以外にも発信できる研究の伝統を、日本の近代は作ってきた。だが、その普遍性への自信を失ったら、たちまち、文学教育は民族文化教育になってしまうだろう。そう考えると、文学の普遍性をどう語るか、というところで国語教育の人に頑張って欲しい、と私は語ったのだが、むろん、私にも責任はあるのだが。

                        文学の危機に非ずや夏の夜

逆言2010/07/24 22:56

 今日は一日家で仕事。あまり暑いのでほとんどクーラーをかけて過ごす。奥さんは山小屋に行っているので、私独りである。明日は京都であさって午前に東京に戻って午後から授業。テレビをみたり、ワープロに文章を打ち込んだり、考え事をしたり、あっというまに一日がすぎていった。

 本当なら山小屋に行きたいところだ。電話をかけたら向こうは涼しくて夜は寒いくらいだという。チビは密生した毛で覆われているから、暑さが苦手で、さすがに向こうでは元気がいいらしい。

 親しくしていた研究者の中村生雄さんが白血病で亡くなった。四日に亡くなったということだが、知らせが昨日届いた。2ヶ月ほど前に頼まれた論文を送って返事をいただいたばかりだったが、はかないものである。一時は大分良くなったということだったが、やはり病に勝てなかったのか。そんなことで、今日はお通夜のような一日であった。歳のせいか知人の死の知らせが届くと、他人事ではない死というものを考える。

 万葉集では死の知らせを「逆言(およづれごと)」と呼んでいる。逆言はたわごととも言う。狂言、妖言も同じような意味だ。人のこころを惑わすことばを意味する。確かに死の知らせほど人のこころを惑わすことばはないだろう。

 難病で余命幾ばくもない主人公の奇跡のような生き方を描く物語が最近多い。こういうドラマはなるべく見ないようにしている。たぶん見れば涙涙だろうが、何でそんなに辛い思いをしなくてはならないのか。生きているもののカタルシスのために、不幸な命を描くことは物語の宿命みたいなものだが、どうもこういう物語は好きではない。

 余命一ヶ月と言われたのに一〇年以上も生きている、というような物語の方が好きである。そういうものではないか。現実はなかなそうはいかないものだとしても、物語ではそうあって欲しい。

                        花火の夜逆言に声もなき

遠野物語2010/07/30 00:00

 やっと前期の授業を終えた。ただ、今度の土日はオープンキャンパスで、模擬授業がある。相変わらず「千と千尋の神隠し」論である。もう飽きたというところもあるが、ジブリの人気は衰えない。「隣のトトロ」などテレビで何度放映されても高い視聴率をとる。私の模擬授業も客はよく入る。

 学生に卒業レポートのテーマを決めろと言ってあるのだが、ジブリのアニメについて書きたいというのが毎年何人かいる。トトロやもののけ姫や千と千尋などに出てくる妖怪や神様について調べたいという学生がいた。あれは作り物だから調べようがないよ、ただ、モデルはあるかもしれないけどね、と答えると、えーっ、あれは実体じゃないんですか、と驚いていた。その反応にこっちも驚いたのだが、とりあえず、もののけ姫に出てくる神たちは、モデルがわかりやすいので、調べたらとアドバイスした。

 ジブリのアニメについてレポートを書きたいというのはいいのだが、なんせ資料がない。ジブリのアニメ論や宮崎駿論ならあるが、キャラクターの文化論などというものはない。だが、ないからこそ面白いという考え方もある。調べようがない対象をどのように知恵を絞って調べるのか、そこにやりがいというのがある。やりがいを感じて欲しいのだが、先生、資料がないのでテーマ変えていいですか、と言ってきやしないか心配である。

 好きなテーマについて書くのは悪いことではない。ただ、難しいテーマを避けているのではないか、と時々思うことがある。テーマというのは、解き明かさなければならない何かだ。何故、そのテーマを選んだのという問いに対して、好きだからではだめである。それを解き明かすことにどんな意義かあるのか、答えられなくてはならない。が、最初からそんなことを言って脅すと、だれもテーマを選べなくなる。とりあえず好きなテーマを何となく選び、どうやったらレポートになるのか、そこから悩み始めるのも悪いことではない。挫折しないように、どんなテーマだって問いの作り方次第で立派なレポートになると指導しながら、とにかく、何とかレポートを完成させる。根気がいる仕事である。

 9月末に提出する紀要論文は、「遠野物語」に決めた。「遠野物語」研究会に出ているのだが、まだ何も論になるようなアイデアは浮かんでこない。が、このままだらだらとつきあっているのも消耗だから、論らしきものを書こうと決意した次第である。

 いまだに「遠野物語」をどう読んだらいいのか、よくわからない。もう何年も学生と読んでいるが、謎の多い書物である。物語と銘打っているが、その叙述はとても短い。が、その書かれざるものを伝える力はかなりのものである。余韻の方が勝っている叙述である。 物語的構造や文法というものはない。プレ物語でもないし、物語以後でもない。ただ、物語だなと思うのは、異質な他者と出会うということにおいて一貫しているからだ。私の物語の定義は、異質な他者と関わることで生じる日常の亀裂を修復するプロセス、というものである。その意味では、異質な他者との出会いがやたらと多い。ただ、その修復のプロセスはかなり短い。ない場合もある。だから物語的でないのだが、物語の根幹は通っている、というより根幹しかない、と言った方がいい。とにかく論じにくい物語である。

他者とであう夏の夜の物語