先生はえらい ― 2011/04/20 01:27
ここのところ毎日新入生のガイダンスである。間をぬって、学会の大会案内を準備。今週中に機関誌が出来てくるので発送の作業をしなくてはならない。忙しかったせいか昨日五時からの会議をすっぽかした。完全に忘れていた。今年から月曜五限は会議時間帯となったのだが、まだ頭が切り替わっていなかったらしい。
授業の準備をしなくてはならないのだが、なかなかはかどらない。読むべき本は読んでるのだが、もともと講義ノートを丁寧に作っておくタイプではないので、授業の前日にいそいで明日の内容を考える、という自転車操業方式でこなしてきている。そろそろきちんと講義ノートを作ろうとはおもうのだが、なかなかエンジンがかからない。
つい本を読んでしまう。内田樹の街場本ではなく、哲学系の『他者と死者』を半分ほど読み進んだ。ラカンの精神分析とレヴィナスの「他者論」を使いながら、コミュニケーションがどのように成立するかを考察している。ここで内田は、真実と思われるものを伝えるためには、二人の人間がそれを繰り返すことが必要だと言う。例えば、神の言葉があるとする。その言葉を師が弟子に伝えるとき、弟子はただ師が言ったことを繰り返す、その行為によって神の言葉は継承されると言う。が、その理由はこうだ。師が語るのは謎でしかない。神の言葉は語れないし伝えられないものだからだ。が、師は神の言葉を欲望することで、それを謎として弟子に語る。弟子はそれを繰り返すが、それは謎を解釈するのでも意味として捉え返すのでもなく、ただ、謎を語る師の欲望を欲望する、ということ。つまり、ある真理のようなものが伝えられていくのは、その真理を欲望する存在の仕方そのものが、師から弟子へと次々と再生産されていく、ということである、とするのである。
何を言っているかわからないでしょう。私はわかっているつもりだが自信はない。内田樹に「先生はえらい」という高校生向けの新書がある。この本で、生徒が先生と出会ってその先生に、よくわかんないけどなにかがある、と思ったときに「先生はえらい」のだと言っている。その何かがある、とは誰もが思うわけではない。たまたまその生徒が思っただけかも知れない。また、その先生が客観的にとても優れた先生かどうかは問題ではない。
これも難しいが、ある先生はあまり優秀とはいえないし人気もない、だが、一人の学生がその先生に、ふと、よくわからないけど何かがある、と感じてしまった。とすれば、その学生にとってこの先生は「えらい」存在なのである。こういうことってあるのではないか。私だって、そんなに優秀じゃないけど、たまたま私に何かがあると感じてもらって、「えらい」先生ということになっていることもあるかも知れない。その場合、私がきっと何かわからないけど何かがある、ということを感じる(欲望する)存在の仕方をしていて、学生は、そのことを感じとって、なにかわからないものを欲望した、ということである。
問題はレヴィナスの他者論がどういうように関わるかだが、師と弟子は二人で対話をする。この場合、二人は会話をしているのではなく、同じことばを繰り返すだけである。これを交話と呼んでいる。ほら、公共広告のあの金子みすゞの詩です。内田は「同じ一つのことを言うためには二人の人間が必要だ」(本の帯のキャッチコピー)と述べている。この同じ一つのことを二人の人間が繰り返すとき、そこには第三者としての「他者」があらわれるのだという。つまり、師の欲望を弟子が欲望することであらわれる欲望の対象、それが「他者」であり、二人の対話はその「他者」を召還する行為であるという。この場合、「他者」は神ということになる。
同じことばを二人の人間が繰り返すとき、その行為は第三者を呼び寄せてしまう。なんか、ホラーみたいな話しである。相手が言ったことばを同じように繰り返したら、そのことばの意味が決定的に変換される、というのはわかる気がする。呪いのことばが繰り返しなのは、案外そういうところに理由があるのかも知れない。友達と同じことを偶然一緒にしゃべったら「ハッピーアイスクリーム」と呪文を唱える、ということが一時流行ったらしいが、それも同じようなことであろう。
さてさて、この本、私の研究テーマにに大きなヒントをくれた。本棚に眠っていた本をたまたま読んだのだが、得るところがあった。
授業の準備をしなくてはならないのだが、なかなかはかどらない。読むべき本は読んでるのだが、もともと講義ノートを丁寧に作っておくタイプではないので、授業の前日にいそいで明日の内容を考える、という自転車操業方式でこなしてきている。そろそろきちんと講義ノートを作ろうとはおもうのだが、なかなかエンジンがかからない。
つい本を読んでしまう。内田樹の街場本ではなく、哲学系の『他者と死者』を半分ほど読み進んだ。ラカンの精神分析とレヴィナスの「他者論」を使いながら、コミュニケーションがどのように成立するかを考察している。ここで内田は、真実と思われるものを伝えるためには、二人の人間がそれを繰り返すことが必要だと言う。例えば、神の言葉があるとする。その言葉を師が弟子に伝えるとき、弟子はただ師が言ったことを繰り返す、その行為によって神の言葉は継承されると言う。が、その理由はこうだ。師が語るのは謎でしかない。神の言葉は語れないし伝えられないものだからだ。が、師は神の言葉を欲望することで、それを謎として弟子に語る。弟子はそれを繰り返すが、それは謎を解釈するのでも意味として捉え返すのでもなく、ただ、謎を語る師の欲望を欲望する、ということ。つまり、ある真理のようなものが伝えられていくのは、その真理を欲望する存在の仕方そのものが、師から弟子へと次々と再生産されていく、ということである、とするのである。
何を言っているかわからないでしょう。私はわかっているつもりだが自信はない。内田樹に「先生はえらい」という高校生向けの新書がある。この本で、生徒が先生と出会ってその先生に、よくわかんないけどなにかがある、と思ったときに「先生はえらい」のだと言っている。その何かがある、とは誰もが思うわけではない。たまたまその生徒が思っただけかも知れない。また、その先生が客観的にとても優れた先生かどうかは問題ではない。
これも難しいが、ある先生はあまり優秀とはいえないし人気もない、だが、一人の学生がその先生に、ふと、よくわからないけど何かがある、と感じてしまった。とすれば、その学生にとってこの先生は「えらい」存在なのである。こういうことってあるのではないか。私だって、そんなに優秀じゃないけど、たまたま私に何かがあると感じてもらって、「えらい」先生ということになっていることもあるかも知れない。その場合、私がきっと何かわからないけど何かがある、ということを感じる(欲望する)存在の仕方をしていて、学生は、そのことを感じとって、なにかわからないものを欲望した、ということである。
問題はレヴィナスの他者論がどういうように関わるかだが、師と弟子は二人で対話をする。この場合、二人は会話をしているのではなく、同じことばを繰り返すだけである。これを交話と呼んでいる。ほら、公共広告のあの金子みすゞの詩です。内田は「同じ一つのことを言うためには二人の人間が必要だ」(本の帯のキャッチコピー)と述べている。この同じ一つのことを二人の人間が繰り返すとき、そこには第三者としての「他者」があらわれるのだという。つまり、師の欲望を弟子が欲望することであらわれる欲望の対象、それが「他者」であり、二人の対話はその「他者」を召還する行為であるという。この場合、「他者」は神ということになる。
同じことばを二人の人間が繰り返すとき、その行為は第三者を呼び寄せてしまう。なんか、ホラーみたいな話しである。相手が言ったことばを同じように繰り返したら、そのことばの意味が決定的に変換される、というのはわかる気がする。呪いのことばが繰り返しなのは、案外そういうところに理由があるのかも知れない。友達と同じことを偶然一緒にしゃべったら「ハッピーアイスクリーム」と呪文を唱える、ということが一時流行ったらしいが、それも同じようなことであろう。
さてさて、この本、私の研究テーマにに大きなヒントをくれた。本棚に眠っていた本をたまたま読んだのだが、得るところがあった。
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