哲学書を読む…2007/06/06 00:53

 本屋で学生向けの読みやすい哲学関係の本を探したが、なかなか見つからない。たまたま手に取ったのが筑摩プリマー新書『はじめの哲学』(三好由紀彦)という本で、読みやすそうなので、帰りの電車の中で読んだ。

 要するに、存在の根っことしての始まりを人間は掴むことが出来るかという哲学のテーマをわかりやすく解説した本で、結論は、「出来ない」である。「生きていること」が存在の根本だという結論は、実存主義というよりは現象学的なまとめた方である。

 ただ、著者は「死後の世界」の側でなく、「生きていること」としての世界の側にシフトするべきだと最後に語る。例えば従来の哲学も、科学や宗教も、「死後の世界」(つまり、存在の根っことしての始まりは死後の世界があるという前提に立つ)、をあるかないかわからないのに「ある」とみなすことで成立している。宗教のみならず、科学も、人間を物質とみなすという点で「死後の世界」は前提になっているという。人間が生きていなくても物質的な世界は存在するという前提で科学は、人間を扱う。その結果、人間が生きている、ということの大事さを見失い、科学は、人間が生きられないような環境を作り出してしまった、というのだ。人間が生きているということを大事にする世界であるためには、「死後の世界」ではなく、「生きていること」の側に立つべきだというのだ。一見もっともだが、そうだろうか。

 人間の生きていることを、自然(死後の世界にも生き残るもの)より優先させる、もしくは絶対化する、そういう思考が、環境を破壊したのではないか。そうも言えるはずだ。問題は「生きている」というあり方そのものが、たえず矛盾をはらむということだ。何故なら、「生きている」という存在もしくは意識自体は、単独のものではなく、相互的な関係の中で(誰も一人では生きられない)成立したものでありながら、その相互的な関係を把握できないからだ。

 従って、「生きている」こと自体は、その上手くいかない関係に悩むはずであり、その解決として、関係の外部としての「死後の世界」が必然化される。「死後の世界」は、上手くいかない「生きている」ことの内在的な矛盾を、なだめたり、癒したり、あるいは、その矛盾の解決なのである。

 逆に「死後の世界」を排除し、「生きていること」を絶対化すれば、たぶんファシズムになる。つまり、この世の論理だけで「生きている」ことが孕む矛盾を解決しようとすれば、人為的な権力を絶対化させ、自己中心的になるしかない。むろん、民主主義もこの世の側の論理だが、ここで言いたいことは、謙虚さのことであり、「生きていること」を絶対視することは、謙虚さを失うということだ。「生きていること」の限界を「生きていること」の内部だけでは思い知ることはできない。だからこそ、「死後の世界」の側が意味を持つ。

 その意味でこの本の結論は安易だという印象を持ったが、短いというのと平易な結論を要求されたということもあるのだろう。推薦図書にしようかどうか迷うところだ。少しは哲学的な思考になじんでほしいし、存在とは何かとか死とは何かとか、考える機会を持って欲しい。結論はともかくそういう機会を得るための本としては悪くはない。

     六月存在の向こう側は空

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