友人を見舞う2007/06/17 23:46

 歌における枕詞の面白さとは何だろう。いろいろ言われているが、ある言葉を別のある言葉を引き出す言葉としてパターン化したとき、その言葉は誰にでも使える歌の言葉として普及した、ということにあるのではないか。これは歌の言葉としては大きかったように思う。

 近藤信義は『枕詞論』の中で、地名起源譚の徹底分析を行って、枕詞が、地名の起源を語る際の古語として、生成される様子を分析している。地名起源を必要とするのは、律令国家だが、地名の起源を作り出すことが、その地そのものの所有につながるからである。律文として伝承されていた地名にかかわる神話が、その地名の律令国家によるインデックスとして、バラバラにされて編集し直されたとき、地名にかかわる枕詞が成立した。

 その時大事なのは、意味的にはほとんど脈絡のない喩として枕詞は機能するが、その修飾の保証は国家というものの普遍性にあるということではないか。つまり、ある特定の地名にまつわるその特定の神話的機能を解体して、その地域以外でも理解可能な、ある地名を修飾する何か神話的な雰囲気を持った言葉として普遍化されたということだ。

 枕詞が和歌の歌の言葉として広がっていくのは、この普遍性にあることは間違いないだろう。別の言い方をすれば、地方の特殊性と、国家の普遍性(流通性)、これを両方兼ね備えたように見える言葉が枕詞である。近藤氏の枕詞論を読みながら、とりあえずそのように考えてみた。

 この問題はたぶん序詞などの和歌の修飾語にもつながってくる問題である。しばらく、このことを考えてみようと思う。

 梅雨に入ったのにとても天気が良い、下界は30度近くまで気温が上がったようだ。山の上は、とても涼しい、夜はまだストーブをつけている。15度くらいまでさがるので、まだ暖房は必要である。

 今日は、下界(東京)に戻り、癌で療養中の友人を見舞う。一週間前に、手術をして退院したばかりだというのだが、元気そうだった。ノルウェー製の30万もするリクライニングの椅子があった。買ったばかりであるという。長野から帰る途中山梨で葡萄の御菓子の「月の雫」とかいうのを買って来てくれと頼まれたが、季節限定らしく出ていなかった。代わりに、果物を入れ込んだ高級そうな蒟蒻ゼリーの和菓子を買っていったが、何度も喉につまらせるなと注意した。

     青虫もいろんな虫も青葉にて

     生きておれば在るも在らぬも六月