鈍感なのだか…2007/06/29 01:15

 今週は帰りが遅い。昨日(水)は、後援会との懇親会で、夜遅くなった。いつもなら泊まってしまうのだが、家に帰った。今日奥さんは山へ行っていない。私が帰ったのは8時半、コンビニで弁当とおかずを買い、ビールで夕食。電話をしたら、出来たばかりの圏央道を使って中央高速で行ったという。川越から諏訪南まで5050円かかったそうだ。八王子から南諏訪まで3400円だから、1650円高いということになる。が、時間は2時間10分で着いたということだ。ほとんど高速で、諏訪南で降りて25分ほど山の家に着く。

 いつもは、川越から、関越を使って佐久インターで降りて、そこから一時間ほど一般道路を走るのだが、佐久まで料金は3400円、時間は通常2時間40分はかかる。さすがに早くなった。が、金もかかるようになった。だいたいやってることが矛盾しているのだ。自然の中で生活したいので山小屋に行くのに、行く手段には便宜性や効率性を求めてしまう。ゆっくり楽しみながら行くなんて余裕はないのである。

 T君のブログを読むと論文や仕事で大変そうだ。仕事の量では私も負けてはいないが(こんなことで張り合ってもしょうがないが)、最近流行りの鈍感力では私の方が勝っているようだ。忙しい奴の性格はだいたいわかっている。たいていは自分で何処か意識的に忙しくしている。それは時に自虐的と言えるほどだ。一種の中毒症状とも言える。

 その理由は、何処かで自分というものがよくわからないと思っていて、他者への依存或いは被依存、他者との緊張や親和的関係といったものによって、自分を支えているからだ。要するに、自己中心的でなく、わがままでないのであって、共同体依存型とも言うべき心性を抱えている。真面目だということである。こういうタイプは忙しくないと空っぽの自分に向き合う気がして恐いのである。ほぼ私のことであるが。

 こういうタイプは鬱になりやすい。私も多少鬱気味のところがある。人もそう思っているだろう。が、それでも、何とかやっているのは、鈍感であるからだろう。人に気を遣う割には人を傷つけたりするらしいのだがそのことに鈍感であったり、人から傷つけられたりすることに鈍感であったり、いつもだめだなあと反省はするが、すぐに忘れたりと、歳のせいというよりは性格の問題として鈍感なところがある。

 こういう鈍感さによって失敗することもあるが時に救われることもある。そんなものである。鈍感でない人間に共通するのは、失敗や他者からの非難を恐れるように自分を構えさせておくことだ。失敗したからといって、自分が思うほどには他人は気にかけないのに、それを認めたら自分は自分で無いとでもいうように振る舞う。

 生きることとは、日々の具体性の持続であって、その渦中に入り込むことである。そこから出て生きることと向き合ったら、それは生きていることではなくて、生きることを自分の中で反芻する過剰さである。言わば生きることという意味の消費であって、見方を変えれば病であるには違いない。

 現代を生きることは多かれ少なかれ意識の過剰さを強いられる。言わば自分が生きているということ自身を消費することを強いられる。そうしないで生きられることは極めて特権的であるか、この世を普通には生きないもしくは生きられないということである。とすれば、生きることの意味に対して神経を研ぎすましながら同時にそのことに極めて鈍感であるような、矛盾した、あるいは都合のいいような振る舞いが求められる。

 その危ういバランスをとるには、今は鈍感さを強調した方がいい。とはいうものの、岩波の古代文学の座談会がせまっていて、私は何をしゃべっていいかわからない。せっぱつまってきた。なかなかアイデアをわき出してくれない私の鈍感さがうらめしい。

    ぼんやりとただ蚊遣火を見つめたり