久しぶりのブログ2018/01/18 11:01

 半年ぶりのブログである。去年もいつものように忙しかったのだが、どういうわけか、他者に文章を書いて読んでもらおうという気があまり起こらなかった。特に理由らしきものはないのだが、日常の決まったワークのなかで、ブログを書く優先順位が下がってきたのは確かである。その理由に思い当たることがあるとすれば、そういえば人様に読んでもらうようなことは俺には何もないよなあ、と思うことが多くなったというようなことか。

 個人的な事情を書けば、ここ数年、母が逝き、弟も逝き、そして愛犬も逝くという出来事が続き、こういうときはなるべく静かに暮らそうと(いつも静かにくらしてはいるが)たんたんと時間をやり過ごし、あまり余計なことは考えずじっとしていた。本はエンタメ系ばかりを読んでいた。とくにファンタジー系の小説はたくさん読んだ。これらの本のいいところは、空想に生きることの楽しさを想い起こさせてくれることだ。一方、読んだ後内容をすぐに忘れてしまうので、自分の記憶の劣化に暗澹とする。田中芳樹の『アルスラーン戦記』がやっと完結した。さっそく読んだが、これまでの筋の細かな所を覚えていないことに愕然とした。出て来る名前が誰だったか思い出せない。以前買った本は、すべて古本市に供出していたので、一冊も残っていない。この年になると長いシリーズものを読むのは記憶との闘いになる。

 老人性なんとかというにはまだなってないとは思うが、老化と関係が無いとは言い切れない。思想というようなものを読んだり自分のなかで組み立てたりすることをしなくなったが、思想の行き詰まった現代の問題たとばかりは言えない。そういうことに取り組むことが面倒になってきたのは、長いこと生きてきた過去の記憶が、なんでこんなに自慢できないものばかりなんだろうと、気づくことが多くなってきたせいである。そのように過去にとらわれると、思想どころではなくなる。逆に考えれば、思想を語れる連中は、過去をそのようには振り返らないものたちなのだ。私もそういう時期はあったと思う。が、老化というのは、容赦なく、いやな過去を思い起こさせる。これは老化ではないと言われるかも知れない。老化とは、自分の楽しい過去だけが蘇って辛いことは忘れるのだと。そうなのかも知れないが、それは、私の場合は、老化ではなくて認知症の症候である。

 最近カズオ・イシグロの小説を何冊か読んだ。『日の名残り』『忘れられた巨人』『遠い山なみの光り』『わたしたちが孤児だったころ』『浮世の画家』。残りの小説も読み続けている。カズオ・イシグロのテーマは記憶だと言われているが、確かにそうだ。読んで見て、その記憶とはほとんどいやな記憶であることがわかる。いやな記憶は消えずにというより、ときに増殖して今を覆うものなのだ。晩年を生きるとは、この記憶との闘いなのかも知れぬと、カズオ・イシグロを読んでわかったような気がした。

 『日の名残り』も『浮世の画家』も、戦争中の自分の身の処し方が、いやな記憶として思い返される。が、そのいやな感覚は、たぶんに戦後の時代における過去の清算の仕方にかかわっており、それがほんとうに否定すべきいやなものだったかどうかについて、主人公たちはよくわからない。当時は懸命に生きただけで、戦後の今も懸命に生きているだけだが、ただいやな記憶として過去が今の自分を責めている。だからどうしようもない。といった憂鬱な気分が描かれている。私は読み始めてやはり憂鬱になったが、さすがに引きこまれて最後まで読んでしまった。

 『忘れられた巨人』はある地域の人々が認知症になり始め、元騎士の老人と妻が、集団認知症に立ち向かうべく冒険の旅にでるという設定。何とも不思議なファンタジー小説である。ファンタジー好きの私としては、この小説が一番面白かった。認知症は龍の為業なのだが、そこで、龍を退治することが結末になる。が、最後に、記憶を取り戻すことが、幸福なのか不幸なことなのかという問いに行き着く。認知症になればいやな記憶に向き合わなくてもすむ。認知症は、神が人間に与えた贈り物なのかも知れない、と考えることもも出来る。人の苦しみはいやな記憶にさいなまれることにあるからだ。歳をとればいやな記憶が嵩み同時に、記憶を忘れるように脳細胞が劣化する、うまくできているのだ。

 カズオ・イシグロの小説は個人の生理現象としての記憶ではなく、集団の記憶の問題としても読めるから、ノーベル賞をもらった。そのことは、戦争の記憶から世界はまだ自由になっていないということを示していよう。

 実は私のいやな記憶はほとんど学生運動の時のものである。あの頃、私は無我夢中だった。理念ではなく、身に染みついた本能のような身体が先に動いた時もあった。輝かしい時期でもあったが、悔恨にさいなまれる記憶を多く生んだ時期でもある。私が認知症になるかどうかはわからないが、たぶん、これからもいやな記憶は消えないことだろう。私の理想としては『忘れられた巨人』の老騎士のように、記憶に立ち向かう旅に出ることで、そうできたら本望である。

寒厳し老いた樹が俺を見ている
そうだな亡者も生者も寒の内
母逝きて弟も逝き元旦や

中国と台湾に行く2017/09/17 12:21

 この夏は中国と台湾に行ってきた。中国は調査と学会参加。訪れたのは雲南省の麗江と昆明である。麗江は毎年訪れており、定点観測みたいになっている。毎年来て思うことは、夏の麗江は年を追うごとに喧噪になってきているということだ。理由は中国人の観光客が増えてきていることである。世界遺産の伝統的な街並みがいつの間にか数倍に拡大した。観光客を当て込んで、伝統的な家屋風の建物の土産物屋を増殖させているからである。

 何でも中国でヒットした恋愛映画の舞台が麗江だったそうで、その影響もあって、麗江は中国の若者の出会いの聖地になっているそうだ。やたらに若者の多い理由がそれでわかったが、20年前の静かな美しい街を知っている者としては複雑な思いである。観光産業として発展していることは歓迎すべきだが、負の側面もあることを忘れてほしくない。

 世界遺産の街並みや、ナシ族の伝統文化は商品ではない。が、今、観光の目玉として消費対象にされている。問題は、金儲けの対象になってしまうことで、守るべき文化が破壊されたり消えてしまうことだ。宗教儀礼の担い手でありトンパ文字の継承者であるトンパは、いつのまにか観光客相手にトンパ文字を書いて日銭を稼ぐようになっている。儲からなければ、かれらもまた姿を消す。

 恋愛の聖地に訪れる若者にとって、ナシ族文化は、エキゾチズム以外のなにものでもない。こういうときこそ、地域の知識人や為政者の手腕が試されるのだろう。観光化と守るべき文化との区別をしながら、バランスのとれた発展をどう展開出来るかだ。この賑わいはいずれ終わる。中国もいずれバブルが弾け、高齢化社会がやってくる。かつて日本の多くの観光地が衰退していったように、麗江も閑古鳥の鳴く日がくるだろう。私たちが毎年訪れて調査しているナシ族文化が本当の意味で脚光を浴びるのはそういうときだ。

 昆明では、雲南大学で、中国、韓国、日本の民俗文化研究者による東アジア民族文化国際シンポジウムが開かれ、わたしも日本の研究者の一員として参加した。

 韓国は延世大学の研究者で、ほとんど中国語が出来る。従って発表は全員中国語。日本の研究者は発表のときに中国語への通訳がついた。わたしも発表は中国語に訳してもらったが、聞いているときは通訳はつかない。それが困った。中国語のレジュメがあるので、なんとなく概要はわかるのだが、細かなところはわからない。私はこのような国際シンポジウムには出られないと今更ながら痛感した。

 昆明で四泊したが、宿泊費は雲南大学が負担。国から援助が出ているらしい。中国も豊かになってきた。来年は韓国でやる計画らしい。再来年は日本で、ということになったらどうすると我々は心配した。交通費は自腹だとしても、宿泊費を負担するほどのお金は私たちの学会にはない。そんな心配を抱えながら、日本に戻ってきた。

 奥さんの姪が北九州で夫婦でガラス工房をやっていて、ガラスの器やオブジェを創作している。時々個展をやるのだが、今度、台湾の台北で個展を開くというので、私ども夫婦と、姪夫婦の親たちとその個展を見に、観光をかねて台湾に行くことになった。中国から帰って一週間後三泊四日の台湾旅行である。わたしには初めての台湾で面白かった。台北は一見中国の街と変わらないが、中国よりは穏やかな感じがする。日本人も多く、日本語も通じたりするので、中国より親しみやすい。

 東山彰良の小説『流』を読んでいたので、台湾は行ってみたいと思っていた。ちなみに『流』は抜群に面白い。中国と日本に翻弄されてきた台湾の人たちの悲喜劇が、エンターテインメントとして実によく描かれている。

 個展を開いている所は、美術出版を手がけている出版社が経営しているギャラリーで、台北の繁華街にある。そのギャラリーの若き社長は日本に留学たことがあって日本語が話せる。その社長の父親は画家で、水墨画風のタッチで、台湾の自然や漁村の生活を描いている。その個展を国立歴史博物館で開いていた。たまたまギャラリーで画集を見て気に入り、その個展を見に行った。

 台湾で感じたことは、いろんな意味で広くないということだ。大陸のあの荒涼とした広大さがない。人のつながりも、文化の種類や、その歴史も、空間に規定される精神性も、コンパクトで親しみやすい気がした。短い期間あちこち訪れ、何人かの人と会っただけだが、そんなふうに感じた。観光客向けの雑貨店の中には、フェアートレードを掲示する店もある。反原発のポスターを貼ってある店もあった。中国にはまずない。その点だけでも、中国の社会より成熟している印象を受けた。  

 台湾から帰ってきて、相変わらず雑務や後期の授業の準備で忙しい。

明日から中国2017/08/15 18:11

 明日から中国です。今回は麗江と昆明。麗江は歌謡の調査。昆明には学会で。雲南省へは毎年行っているのですが、いつも麗江や大理ばかりで昆明は久しぶりです。今中国は国内旅行ブームとかで、夏休みということもあり、麗江はすごい人だと思います。

 私の方は、8月6日までは校務で、やっと仕事から解放され、山小屋に行ったところ、疲れが出て風邪を引き寝込んでしまいました。これも例年のことで、仕事でたまった疲れがどっと出るようで、正月と、五月の連休と、夏休みに入ったときに大体風邪気味になって寝込みます。これも歳をとって体力が落ちてきているからで、大病にならないように身体が調節しているのかも知れません。

 回復して東京に戻り、中国行きの準備で忙しくしてます。荷物の準備はたいしたことはないのですが、学会での発表の準備があまり出来ていなくて、やや不安です。一応国際学会ですので、それなりのレベルの発表をしないと、せっかく参加する意味もないので、失敗しないように準備しているところです。問題は発表時間の短さで、間に通訳をいれてせいぜい30分でしょう。とすると、私の話す時間は15分程度で、どんなに短くしても、15分では無理です。かといって、中国語で発表できる力もないので、15分程度にどうやってまとめるか、それに苦心しているところです。

 内容は、ナシ族の署神を祀る儀礼と風土記の「夜刀の神」や「樹木伐採抵抗伝承」を比較しながら、人間と自然との関係について論じるというもので、環境問題にかかわらせたテーマです。今の中国にとってもっとも現在的なテーマだと思い、このテーマを選びました。はたしてどんな反応が返ってくるか楽しみですが、それ以前に、発表がうまくできるかどうかが問題なのですが。

 エンタメ系を中心に乱読は相も変わらずです。本屋で平積みになっている本から、村上春樹『騎士団長殺し』、恩田陸『蜜蜂と遠雷』、東山彰良『流』、宮部みゆき『荒神』、池井戸潤『アキラとあきら』『空飛ぶタイヤ』など。『騎士団長殺し』は村上ワールドを堪能させてくれて、さすがに飽きさせない物語に感心しました。ただ、いつもの作品にある時代を感じさせる暗喩がなかったのは、まだ完結していないからでしょうか。意外に面白かったのは『流』。台湾を舞台にした物語ですが、台湾の抱えた歴史の悲しみがよく伝わってきます。『荒神』はさすがでした。宮部みゆきはプロのストーリーテーラーだということがよくわかります。

 エンタメ系の追加、松岡圭祐『万能鑑定士Qの事件簿』Ⅰ~Ⅴ、ハヤカワミステリー『特捜部Q』シリーズ( ユッシ・エーズラ・オールスン)を三冊。高田大介『図書館の魔女 烏の伝言』一、二巻。
 『図書館の魔女』はファン待望の続編。さすがに読みでがありました。ファンタジー系では今一番のおすすめの本です。

 それから、呉座勇一『応仁の乱』、佐野真一『唐牛伝』、小山田浩子『穴』、本谷有希子『異類婚姻譚』、スラヴォイ・ジジェク『イデオロギーの崇高な対象』、等々。ジジェクはやっぱり難しい。というよりラカンが難しいのですが、この難しさに付き合わないと、現代は語れないのだということだけはわかります。『穴』も『異類婚姻譚』も心理学の分析対象として格好の芥川賞の小説ですが、ラカンを援用して語る力がありません。『唐牛伝』は私の一世代上の全学連委員長の伝記物語。歴史の表舞台に立ってしまった人間が、その後どのような人生を送るのか、学生運動にかかわった身として我が身や、友人たちのことを重ねながら読みました。

久しぶりのブログ2017/07/14 22:17

 三ヶ月ぶりのブログである。こんなに空いたのは初めてではないか。とくに理由があるわけではないが、あいかわらず忙しいのだが、忙しいのは常のことなのでとくに理由というわけではない。あえて探せば、ブログを書く手間の優先順位が自分の中で低くなってきたということだが、それとて、なぜと聞かれるとうまく答えられない。

 たぶんに、文章を書いて他者に発信するその力が衰えてきたということか。ただ、文章を書くのは仕事だから、今年になって、何本かの論文やエッセイを書いている。ただそれらは、私ごとを書くまでもないので、思考や調べたことをそのまま記述すればいい。が、ブログは、近況報告もはいるので、この俺に報告することなんかあるか?などと考えてしまって、めんどくさいと、つい、優先順位が下がってしまったということだ。家に帰ると、奥さんととりあえず韓流のドラマ(忙しいとながら見)、授業の準備、原稿の仕事があればその仕事、それから読書、疲れやすいのでしっかり睡眠を取らなくてはと夜更かしを避ける。最近、仕事に差し支えるのと健康上の理由とで、家で酒を飲むのを止めた。そんなこんなでブログを書く暇はない。他人に報告する暇はないということだ。

 これは、自分が内向きになっていることの兆候と言えないこともない。ただ60代後半という年齢を考えれば、この内向きはある程度自然なことなのかとも思える。仕事でそれなりに人と付き合っているし、仕事以外の付き合いも、以前に比べれば減ってきてはいるが、ないわけではない。ただ、そういった付き合いや、文章を書いて発信することに、以前ほど集中出来なくなってきているのは、年齢から来る衰えと呼応するように、世の中(広い意味での他者)がどうなろうと、もういいのでは(しったこっちゃないということ)、という心になって来ているからかなとも思える。

 老人性なんとかと言えるのかも知れないが、いろいろと体験し、本を読み、世の中に翻弄されてきた我が身として、今、発信され続けている世の中を憂える言説に響いてくるものがほとんどないし、またない理由もわかっている気がするので、なるようにしかならないのかとつい思ってしまうのだ。世の中への関心がないわけではない。自分の思想が世界を変える、などととんがって夢見る自分しか見てない若者的位置から限りなく遠く離れてしまうのが老人なのだとすれば、まあ、こんなものだろうとは思うし、それが老人であることの特権ということでもあろう。まだ老人と思っているわけではないが、その特権だけは享受している気がする。

 定年までまだ2年半あるので、とりあえずは頑張らねば。出版助成の申請をしたので、それが通れば、来年には歌垣の本を出す予定。歌垣からどれだけの世界が語れるか、単なる調査記録にはしたくないので、こうご期待といったところだ。

 この夏には、雲南大学で、国際学術シンポジウムがありそれに参加の予定。最近昆明に行ってないので楽しみではある。問題は発表のネタをどうするかだが、ナシ族の「祭署」儀礼と、日本の夜刀神の話などを比較して、環境を巡る自然と人間の関係について話をすることにした。今の中国で環境問題は大きなテーマだから、関心は持たれるだろう。

 毎日酷暑で私もバテ気味だ。というよりバテた。こいうときは、スカッとするエンタメ系の本を読んで、よく寝るのが一番だ。忙しいときほど、エンタメ系の本をよく読む。そのうち紹介したい。

対話型と内話型2017/04/26 00:50

 久しぶりですが、忘れられるのも何なので、ブログを書きます。
 新学期も始まり、連休近くになり、ようやく一息というところでしょうか。
相変わらず忙しいのですが、ここ二年ほど煩っている前立腺の調子が悪く、憂鬱な日々を送っているところです。肥大ではあるのですが、前立腺炎が慢性化したらしく、尿意のような違和感がとれないでいます。なかなか治りにくいらしく、あちこちの医者を渡り歩くので、典型的なドクターショッピングの病と言われているそうです。私の場合そこまではひどくないのですが。

 この歳になると、どこか悪いところが出てくるのは当たり前で、仕方ないと思ってますが、歳を取るということは、非健常者になることだということが実感としてよくわかります。せめて頭だけはしっかりさせないと、仕事に差し障りがでるので、何とかしなきゃと思うのですが、生来、仕事以外であまり人としゃべらない性質なので、まずいなと思っています。

 亡くなった弟が植物状態になったとき、意識があるかどうかではなくて、人と意思を交わせないから植物状態という、と医者の説明を聞いた時、そうか、病気でなくても植物状態はいつでもなり得るのとわかりました。半植物状態で生活している人はけっこういます。たまに私もなります。頭のなかではたくさん言葉が飛び交っているのに、その言葉が他者に発信されないままのときってけっこうあります。そういうときの、自分はこんなに言葉を発しているから大丈夫だという自信がどうやら一番危ないようです。

 私の最近の仕事は歌の掛け合いの研究ですが、歌の掛け合いは基本的に頭に浮かんだことは間髪をいれず声として相手(他者)に向かって発信されます。が、相手が神の場合、というより、超越的な他者、自分でも可、の場合、この対話は内話になるはずです。つまり掛け合いにはなりません。神との対話は声による掛け合いにはならない、というのが、私の掛け合い論のスタンスなのですが、それはそれとして、言葉の発信には、掛け合いのような対話型と、神との対話のような内話型とあると考えます。

 さて、人間が植物状態になったとき、それは対話型のコミニュケーションを失ったということになります。が、内話型は失っているかどうかわからないのです。頭のなかでだれかとしゃべっていても、外部にそれが気づかれなければ、その人は植物状態と変わらないとみえてしまうのです。怖い話です。生きているとはどういうことなのでしょう。

 掛け合いの研究をしながら、私は、生きているという実感をより強く享受しているのは、やっぱり対話型だろうと思いました。しかし、内話型もまた生きていることにとって意味のないはずはありません。両方必要ということでしょう。が、言えることは、対話型の人は、植物状態にはならないだろうなあ、ということと、内話型はなりやすいし、もう、少しばかりなってるかもしれない、ということです。これは、私のことを例にして言ってます。ちなみに、対話型はうちの奥さんです。よくしゃべります。私よりぜったい長生きすると思います。

ドラマに癒やされる2017/02/18 00:50

 二月は少しも暇ではない。ただ授業期間と違って毎日授業の準備に追いまくられないのが救いだ。授業の始まる学期が近づくと決まって見る夢がある。授業が始まる時間なのにどうしても教室にたどり着けないという夢である。私にとっていまだに授業がストレスなのである。授業は仕事としてやりがいがあるが、それだけに逆に失敗が出来ないということである。二月はそのストレスがない分助かる。

 歌集の「栞」の原稿をなんとか書き終えたら、今度は別の歌集の解説を書いてくれという依頼がきた。解説となると枚数も少なくはない。締め切りは二月末。なんてこった。結局二月は短歌の原稿を三本も書くことになった。夢を見そうである。

 韓流ドラマ『ジャイアント』見終わる。韓国ドラマの最高傑作と言われているだけあって見応えがあった。でも疲れた。今我が家では韓流ドラマを見ることがルーチンワークになっている。何故なのか、たぶん感情を揺さぶるその物語性に、快感を見いだしているからだと思う。現代の日本人はみんな結構クールに生きている。その分抑圧もじつはかなりあるはずだ。その抑圧を韓流ドラマが解放してくれるというわけだ。

 映画では岩井俊二監督の「リップヴァンウインクルの花嫁」を観る。前々からみなきゃと思ってたのだが、三時間という長さに気後れして観るのを先延ばしにしていた。やっと観ることができた。評判通り良い映画だった。黒木華も良かったが、なんと言ってもCoccoが素晴らしい。絶望している者を慰めるには、もっと絶望している者を見せることだ、と言ったのはショウペンハウエルだったと思うが、この映画は、その言葉通りの映画だ。うまく生きられなくて絶望している黒木華を癒やすのがCoccoで、Coccoはもっと深く絶望している。映画は絶望をこれでもかというように見せる。黒木華は映画を必要とするわたしたちだ。わたしたちは、Coccoという絶望を観ることで癒やされるというわけである。

 映画のなかで黒木華のハンドルネームが「クランボン」であり「カンパネルラ」であるが、本当は、カンパネルラはCoccoであって、黒木華はジョバンニであろう。それにしても、「クランボン」はぴったりだ。外界を知らない蟹の子供やその子供に語られる泡(?)と外界を泳げない黒木華演じる女の子はまさに重なる。この映画おすすめである。

私たちは幸せなのか2017/02/06 23:28

 2017年になって、初めてのブログである。チビが亡くなって、なんとなく一つ何かが足りないような感覚がぬけないのは、やはり喪失感というものなのだろう。ここ数年喪失感ばかり味わってきたので少しは慣れたかと思っていたが、なかなかなれるものでもないらしい。

 学校のほうは授業も終わって一段落といったところだが、入試やもろもろの会議で忙しい。特に採点が大変で、まずはこれに集中しなくては。1月に短歌の五七調は日本固有のものかというテーマの原稿を書き上げたが、2月には現代短歌の原稿2本を書かなきゃいけない。その一つが、ある歌人の歌集の栞の文章で、じつは歌集の栞を書くのは初めてで、けっこう緊張している。

 本業のほうも、今年何とか歌垣の本を出したいと思っているのだが、思っているだけで何もすすんでいない。歌垣の論はかなり書いているのだが、やはり一冊の本にするとなると、全体を通して一本芯を通さなくてはいけない。その芯がなかなか確かな論理として構築できていないのだ。まずは論理の熟成である。

 社会への関心としては、何といってもトランプ劇場だろう。予想されたこととはいえ、お騒がせへの期待は裏切っていない。選挙のときには実現出来そうにもないのに威勢のいいことを言い、当選したらなにも言わなくなってしまうのが政治家の常だが、トランプは大統領になっても威勢がいい。が、何処まで続くかだ。やはり世界は自分の思い通りにはいかないだろう。そういう時どうするのか。そこが見ものであるが、こんなのんきなことを言ってられるのも、難民や移民の問題にわれ関せずを決め込んでいる日本に住んでいるからだ。

 テレビで入国が許可され抱き合って喜ぶ中東の人たちを見て、アメリカに入国することがこんなにも嬉しいことなのか、改めて思い知らされた。今日本の学生はかつてほど留学したがらないという。就活に不利というのもあるが、あえて日本という共同体から離れて外国で勉強するメリットはないということだろう。1%が99%を支配する国になってしまったアメリカに日本の若者が夢を抱かないのは当然だ。がそれでもアメリカをめざす人たちは、それだけ自分の国で生きることが困難だからだ。貧困や戦争で生き残るのに必死な人々にとってアメリカはまだ希望の国なのだ。そこはやはりアメリカはたいしたものだと思う。

 その意味では、「YOUはなにしに日本へ」なんて外国人にインタビューしていられる日本はつくづく幸せなのだと思う。

 韓国ドラマ鑑賞は相変わらずだが、今観ているのが、傑作と評判の高い「ジャイアント」である。韓国の高度成長期である1970~80年代を背景にしたドラマだが、評判通り見応えがある。高度成長に合わせて成り上がる者たちの愛憎・裏切り・復讐といった韓流ドラマ定番の要素がてんこ盛りなのであるが、やはり魅入られるのは、人間と人間との欲望や情愛がむき出しのままぶつかり合うところだろう。そのぶつかりを緩和する文化的気質を韓国人は日本人のように持っていない。悲しいときに微笑んだりして感情を押し殺す文化とは無縁なのだ。

 しかも富と権力を握れば法を容易に越えられる前近代の社会性はまだ健在だ。従って、財閥と政治家はいつもドラマの中心になる。それがドラマの虚構の世界でないことは、今度の大統領のスキャンダルで明らかになった。

 「ジャイアント」は権力欲に取り憑かれたモンスターのような男と彼に両親を殺され復讐を誓う家族の物語だが、なんといっても悪役のチョン・ボソクの演技が圧倒的で、このドラマは彼の存在感に拠って支えられているといってもいい。彼の、目をむきだしいまにも血管が切れそうな激高の顔は他のだれも真似ができないだろう。そこには、日本的な中間表情などというものはない。感情が常に剥き出しなのだ。まさに韓国を代表する俳優である。

 大陸的な感情と感情とがぶつかり合うドラマを、感情をあまり表にださない日本人がハラハラしながら観ている。わたしたちはドラマの中での主人公達の激しい感情の発露が、韓国の厳しい現実を背景にリアリティがあることを知っている。彼らのような人間を描けないわたしたちはつくづく幸せなのだと思う。

チビ逝く2016/12/30 00:18

 悲しいお知らせです。今朝(29日)チビが亡くなりました。昨日急に具合が悪くなりそのまま回復せずに逝ってしまいました。ここのところ病気がちで心配だったのですが、容体が急変した原因はわかっていません。昨日獣医に診てもらったのですが、重篤ではないだろうとの判断でした。12歳くらいでしたから寿命だったのかもしれません。
 今日近くのペットの霊園で葬式をあげてきました。突然のことでまだ信じられない気持ちです。いのちのあっけなさをまた味わうことになるとは。10年前、ボランティアから引き取った保護犬でしたが、その保護犬にわたしたちが癒やされました。わたしたちにとって贈り物のような犬でした。
 長年、わたくしのチビの自慢話を聞いていただき、チビを可愛いと言ってくださった方に、ほんとうに感謝いたします。しばらくはチビロス状態ですが、来年きっと良い年になるだろうと期待し、チビを愛して下さった皆様のご多幸をお祈りしたいと思います。

     わが犬は霊魂となりぬ年の暮れ

来年はどんな年に…2016/12/25 18:30

四ヶ月ぶりのブログです。こんなに休んだのは初めてで、いろいろご心配をかけました。特に理由はないのですが、相変わらず忙しいのと、体調の問題、他人に向かって発信する気力の衰えといったものもあって、しばらく遠ざかってました。

 今年は、私にとって、試練の年だったようです。弟の死にはさすがに参りました。病気なのでどうしようもないと言えばそれまでですが、弟の入っていた施設がよくなかったのではないか、もっと良い施設に入れてやれば良かったのに、といった悔恨の念がどうしてもつきまといます。

 弟の入っていた施設はサ高住で、住居の部屋は二階、昼間はデイサービスで一階に集められてそこで過ごします。問題は、自由がきかないことで、部屋を出れば夕方まで戻れません。無論、自由のきかない体なので仕方のない面もありますが、老人や障害者を抱える施設は人手不足から、必要以上に自由な行動を制限する傾向にあるようです。弟も、会う度にここは刑務所と同じだと不満をもらしていました。

 入所してから、3ヶ月で体重が二〇キロ減りました。これは、施設の食事が老人用なので、もともと体の大きい弟にはカロリーが少なすぎたことによるものだったようです。むろん、施設の人もよくやってくれてはいたのですが、やはり給料が安く、しかも人手不足が恒常化しているこういった福祉施設の構造的な問題だと思います。

 お金があればもっと良い施設に入れることが出来たのですが、将来のことを考えると、費用の高い施設にはなかなか入れません。弟の入った施設でも月15万は越えていました。当初は、あと、何年生きるとして、年金と今の貯えで、月額いくらの施設に入ることが可能か、などという計算ばかりしていました。

 弟の入院のきっかけは転倒による骨折ですが、パーキンソン病なので仕方のない面もありますが、家族としては、今までこんなことはなかったのにどうして、という思いはやはり残ります。もっと良い施設に入れても結局同じかも知れないとは思いますが、生き残った者は、最善を尽くせなかったことに悔いを残します。

 人はみな、生き残る者に悔いを与えて逝き、そして、生き残る者は悔いをいただいて生きるのだということを、強く感じました。

 そんなこんなで今年一年も終わりです。今年は、学科長の役職から解放されその分職務も楽でしたが、それでも会議は多く、またいろんなイベント、研究会と、気がつけば週五日から六日学校に行っており、奥さんから、授業は週三日じゃないの、とあきれられています。

 おかげで歌垣関係の論を3本ほど書くことが出来、何とか、歌垣の本を出すことができそうなところまで来たというところです。今年、私の『神話と自然宗教』という本が、中国語に訳され中国で出版されました。仕事の面ではそれなりに充実した一年だったと思います。

 本は相変わらず読んでます。古本市バザー出品用にと読み始めたエンタメ系の読書は、癖になり、相変わらずけっこう読んでます。そちら系で面白かったのは高田大介『図書館の魔女』でした。魔女とありますが魔女は出て来ません。声を失った博覧強記な天才少女が活躍する全四巻のファンタジー系小説です。本と言語に関するうんちくがとても多く、知的レベルの高さを要求していて、学生には難しい本かも知れません。作者は言語学の学者だそうで、さもありなんでした。

 中国関係でおすすめは楊海英『逆転の大中国史』でしょうか。中国はユーラシアから見ればローカルな一地方に過ぎず、ユーラシアの遊牧系民族に被害者意識をもっている。それを覆い隠すようにして、今の中国は、漢民族中心の中華民族を標榜しているに過ぎない、と断じています。東アジアはもっとダイナミックに流動化していたという視点は斬新でした。ユーラシア大陸の方にもっと目を向ける必要があることを思い知らされた本でした。

 政治ではエマニュエル・トッドの本を何冊か読みました。トッドのイデオロギーや国家の政治図を切り取る視点がとても面白く、特に人口の変遷でその国の盛衰を見抜いていく手法は斬新でした。人口問題は、『資本主義の終焉と歴史の危機』の水野和夫経済学の根拠でもあり、けっこう重要なのだと思い知りました。理想主義と距離をとるトッドの徹底したリアリズム、例えば日本も核を持つべきといった論は戸惑いますが、おおかた納得出来るものです。

 最近は、思想や哲学関係はちょっと距離をおいて、読みやすい、文明論的な本を読んでいます。大澤真幸『内なる文明の衝突』、ダロン・アセモグル&ジェイムズ・A・ロビンソン『国家はなぜ衰退するのか』上下巻、ジャレド・ダイアモンド『文明崩壊』上下と読んできて、人間は何故国家をうまく作れないのか、イノベーションとか経済的な発展とか、何故こんなにも国や地域によって差が出来るのか、何となくわかった気がします。

 ある自然条件に従って生活するだけなら、動物と同じで、自然条件に従って生きていくだけです。だが、その条件を克服して、そして、人間の社会を何らかの理念(例えば神によって)まとめようとしたとき、人間は、皆が幸福になるはずの理想を了解しながら、時に、それに反するような自らを滅ぼす負の行動を取るものだということのようです。それが理念に内在する本質的な矛盾であることを説いたのが『内なる文明の衝突』ですが、環境に対する人間の対応の歴史として事例をあげて論じたのが『文明崩壊』、既得権益のために社会を豊かにする筈の技術革新をあえて選択くしない為政者の常を描いたのが『国家はなせ衰退するのか』、いずれも、人間は、全体の幸福のために何をしなければわかっていながら、それと反するように国家や社会を作る、という悲しい存在であることが、よくわかります。核がなくならないのも、格差や飢餓がなくならないのも、さもありなんです。そういう意味では、面白いのだけれど、あまりおすすめ出来る本ではありません。

 来年はどういう年になるのでしょうか。

もう夏も終わりですが…2016/09/13 17:35

 涼しくなってきたからというわけではないが久しぶりのブログです。
 八月十四日に中国の調査から帰国。それから一ヶ月近く、体調が優れないのと、勤め先の短大の第三者評価の実地調査への準備、論文の準備等々、慌ただしく過ぎ、何とか、一段落というところ。第三者評価の実地調査が先週で終わり、受け入れがわの責任者である私もほっとしたというところである。

 この第三者評価は七年に一度受けることになっている。七年前も私が責任者でのこの評価を受けた。大学の教育やガバナンスが適切かどうか調査を受ける、ということなのだが、調査するのは、同業の他短大の教員が主体になる。実は、私も、他の短大に実地調査にいったことがある。大学にも民間の格付け会社と同じような組織があって、その組織による評価、つまり格付けをもらわないと国から補助金がもらえない仕組みになっている。

 国から直接評価を受けるよりはいいシステムだが、評価基準はだいたい文科省や審議会が作った指針なので、ある意味では、全国の大学・短大が国の指針どおりに教育やガバナンスを行っているかどうか、格付け会社が審査する、と言えなくもない。が、こういった評価制度はないよりはあったほうがいい。とりあえずは、教育やガバナンスが第三者の目にさらされるわけで、そのことの緊張感は、大学の組織を一時的とは言え健全なものにするからだ。

 短大の場合、評価する委員の属す短大も共通して危機的なので、場合によっては、実地調査は、評価というより、どうやったら生き残れるか学び合いということにもなる。それもまた当然だろう。国の指針通りにいくら頑張って教育しても、少子化が進む現状では短大志願者は減るばかりである。これは高等教育機関の構造的な問題でもあるので、日本社会の短大の位置づけが変化していかない限り解決がつかない。そのようななかで、何とか生き残る方策を考えなくてはならない者同士が評価し評価される場では、評価する側も、何か参考になりそうなところを見つけて帰ろうとするのは自然である。私も評価委員として他校に行ったときはそうだった。

 中国の調査では、雲南省のモソ人の村に入り、葬式を三日間取材できた。限られた日程で葬儀に出合いしかも取材が許可されるのはほんとうにめったにない。同行のE君が昔から通っている調査地で、その村の宗教者と親戚づきあいのような関係を作っていたおかげである。

 亡くなったのは高齢のおばあさんなので、どちらかと言えば悲しい葬式ではない。が、それでも、遺族は死者の前では徹底して哭き歌を歌う。今回の調査で一番記憶に残ったのはこの哭き歌である。

 喪主の娘はけっこう年を取っていて、忙しく葬儀の様々な仕事をこなしている。が、村の人が弔問に訪れると、位牌の前で哭き崩れる。実は、それが哭き歌になっている。哭き歌を続けると一人では立ち上がれず、抱えられて立ち上がる。ところが、すぐにもとに戻り忙しそうにかけずり回るのである。

 村の女性たちが位牌の前に坐りやはり泣き崩れる。これも哭き歌である。死者にくどく言葉を歌いながら泣き崩れる。何人かは一人では立ち上がれなくなる。その光景を目の当たりにしながら、これはほとんど憑依であると感じた。女性たちは、位牌の前で手を合わせるとスイッチがはいったように哭き歌を歌い始め、一人では立てなくなる。これを葬儀の間何度も繰り返すのである。特に興味深いのは、最後に荼毘にふすときも、そのすぐ近くまで女性たちは付き添い哭き歌を歌うことである。イ族の葬式では、女性たちは荼毘の場所には行けないという遠藤耕太郎の報告があるが、モソ人は違うのである。私の印象では、この葬儀は、ラマ僧の読経と、女たちの哭き歌で進行していった。

 このような哭き歌を実際に見られたのは収穫であった。とにかく哭き歌に圧倒された。近く建物ではきらびやかな衣装を着けたラマ僧がお経を唱えている。18人はいる。これもすごい。そんなに裕福ではない農家の葬式に僧たちが18人も来て、儀礼を行うのである。日本で言えば、大きなお寺の僧侶が全員来て葬式をやるようなものだ。当然費用もかかかるだろう。死者を送る儀礼が長時間(三日間)厳粛にしかもお金をかけて行われる。そのことにも圧倒された。

 この「哭き歌」、歌の研究をしている私にとって衝撃だった。哭くという行為が、憑依に近いものであることがよくわかった。それにしても、この葬式でも男は泣かない。ここにもジェンダーによる役割分担がある。男たちは様々な儀礼をこなしながら粛々と死者を送る儀礼を進めて行く。女たちの「哭き歌」は時にこの儀礼の進行に逆らうようにも思われた。葬儀には必ず、死者をあの世に送る流れと、その流れを阻止する哭く感情とのせめぎ合いがある。そのせめぎ合いが実によくわかる葬儀であった。

 さて、七月から八月にかけて私は、田中芳樹の『アルスラーン戦記』全15巻。『銀河英雄伝説』全10巻、小野不由美『十二国記』全巻(十一冊)を読破した。上橋菜穂子の『精霊の守人』シリーズを読破している私としては、ファンタジー系のシリーズものを一応目を通しておこうと思って読み始めたが、とまらなくなり、全巻読破したという次第。おかげで勉強の時間がだいぶ減った。感想は述べないが、やはり、いろいろ読んで見て上橋菜穂子の描くファンタジーがすごいということだけは言える。上橋菜穂子の新作を期待している。

 韓流ドラマも相変わらず奥さんと見続けている。今見ているのは、「私はチャンボリ」で衝撃を受けた、あのミンジョンを演じたイ・ユリが出ている「きらきら光る」である。「私はチャンボリ」はこの「きらきら光る」の後に作られていて、言わば進化形である。つまり、ここでもイ・ユリは、貧しい境遇からひょんなことで金持ちの娘になるグムランという女性を演じている。彼女は、明るいヒロインに嫉妬し、自滅の道を歩む。つまりだんだんとミンジョン化していくのだ。いやあこれも面白い。はまります。