夏の通夜2010/08/04 00:40

 オープンキャンパスが終わって山小屋に避難。この暑さ、避難といいたくなる。山小屋ではS夫婦が子供三人連れて来訪。幼子達でみんな元気がいい。チビは迷惑そうだったが、子供達はチビ、チビといいながらいつものように触れたがる。時々チビはワンと吠え、まだ一歳の赤ちゃんを泣かしてしまう。子供達の元気な姿にこちらも元気になった。

 ベランダの修理を頼んでいたが、大工が来て、これは全部とっかえないとだめだと言う。腐った所を代えるだけではだめなのかと言ったが、何年かしてまたそこを代えると結局高くつく、という。かなりの額がかかる。軽自動車一台分だ。せめて、その半額と思っていたが、大工の言葉に抗しきれなかった。それで、仕方がないお願いします、でもペンキは自分たちで塗りますから、と少しでも安くあげることを条件にお願いすることにした。このベランダもう15年になる。よくもったほうだ。さすがに、傷んできて、もう限界になっていた。やはり維持費というのはかかるものだと痛感。

 今日は、高円寺に、知り合いの通夜へ。また逆言で、昔の知り合いがガンで亡くなったとの知らせが先日あり、今日、通夜だという。それで今日山小屋から東京に戻った。彼は私と同じ歳だ。今年の二月に、不慮の死をとげた友人の弔いにみんなで行ったのだが、その時には彼は元気だった。そのすぐ後にガンが悪化したのだという。以前にガンにかかっていたが、克服したのに、再発したということだ。最近、私と同じようなアラ還世代の死の知らせが相次ぐ。今日、通夜で会った連中と、誰かが死んだときにしかおまえ達と会うことがないのに、最近よく会うな、としみじみ語り合った。

 当然次は誰だという話になるが、誰も私が長生きするとは思っていないことがわかった。まあ、反論する材料は何もないので、そんなのわからないよとは言ってはみたが。

 六〇歳の死は今は早いと皆が言う。が、かつてはこのくらいでちょうどいいと思っていたのではないか。今は、平均年齢が八〇歳を越えるから、六〇だとまだまだというところなのだろう。が、ある意味で年齢の節目なのは確かだ。同世代の知り合いの死がこれだけ相次ぐと、そう簡単には全員を長生きさせないぞ、という、自然の摂理の神の差配を感じる。この歳になると、いつ死んでもいいような覚悟が、これまでとは違う形で必要なのかもしれない。凡人には覚悟などというものは恐れ多いが、せめてそんな準備などしないで、やらなければならない仕事、私の場合研究だが、それをやり続けるということが、せめてもの準備だと思うしかない。

                       万物はとどまざるなり夏の通夜

いろんな私2010/08/09 00:41

 山小屋は涼しい。夜は寒いくらいだ。仕事をしようといろいろ本や資料を持ってきてはいるが、なかなかはかどらないのはいつもと同じだ。

 今日は、午前中チビの散歩でちょっと遠出。車山スキー場まで行って、ソフトクリームを食べて帰ってきた。日曜なのでさすがに人は多かった。曇っていて涼しかったので快適に歩けたが、帰りはチビもバテてきた。すぐに動かなくなって草むらに横になってしまう。困った犬である。

 短歌の時評を中国に行く前に書かなきゃならない。何かネタはないかと考えているのだが、さすがになんにも浮かんでこない。二ヶ月に一本の割合で書いているのでネタを探すのが大変である。最近歌集もあまり送られてこないので、歌集評というわけにもいかず、短歌という定型詩についての考察を続けているのだが、とりあえずそのような内容を書くつもりだ。

 九月には「遠野物語」で紀要原稿を書くつもりだが、その資料を読んではいるが、こちらもアイデアが浮かんでこない。先日ある出版社から、共著だが異端の神々たちについての原稿依頼があった。七十枚近くの原稿である。締め切りは九月末である。いくらなんでも、それは無理だ。これから中国へ行き、帰ってきたら紀要の原稿がある。たぶん原稿料は悪くはないとは思うが、そのために紀要の原稿をすっぽかすわけにはいかない。というわけで断った。滅多に断らないのだが、さすがに今度ばかりは断らざるを得なかった。

 短歌時評は、短歌における私の問題について書こうと思っている。短歌と自由詩の違いを言うときに、短歌には私があるとよく言う。ところが、この私について説明しようとすると、なかなか難しいのだ。この私は、作者のことでもあるし、言葉の主体でもあるし、あるいは、作中の主体でもある。むろん、短歌に限らず言語による作品にはいろんな位相の主体(作者・語り手・主人公等)が存在するものなのだが、短歌はそれらの主体を「私」と一括して形容してしまう。そこが短歌の面白いところであるが、だからなかなか論じにくいというところがある。

 作者も語り手も作中の私も、曖昧につながっているという言い方をしてもよい。さらに短歌という言語行為そのものを成り立たせる何かもまた私という言い方をしてもよいかもしれない。ここまで来ると、私は、短歌という言語行為を成立させる無意識そのものである。意味としての私がいて、一方で意味づける行為そのもののシニフィアンとしての私がいる。それは本当は私なのではないかもしれないが、私という言い方をするとみんなわかった気になる、というところに短歌の特徴がある。

 それは作者であって作者でないということであり、語り手(歌い手)であって語り手でないということであり、作中の私であって私でないということである。あるいは、それらすべてであってすべてでないということである。何を言っているのかわからなくなってきたが、要するに、この短歌における私、という言い方をしたとき、その私は、いろんな解釈が可能なじつによくわからない私だということである。とりあえず、そのことだけがわかればいいのではないかと思うのだ。

                     盆のころいろんな私がさまよえる

恐竜と戦争と老人の話題2010/08/13 00:52

 テレビを見ていると夏休みということで恐竜の特集をやっていて、つい観てしまう。恐竜が滅んだことで、ネズミだったほ乳類はやがて進化して食物連鎖の頂点に立つ。この場合、環境に合わせて特殊な進化をせずに、小さくてシンプルな身体だったから、環境の激変にほ乳類は生き延びることができたらしい。

 つまり、環境に合わせてあるいは強者になろうとして進化をすすめて特殊化していくと、それが限界にたっしたとき、例えば恐竜がそうなのだが、環境の変化に対応できなくなってしまうというのである。逆に恐竜の時代ほ乳類は弱者であったが、進化の余裕をかなり持っており、隕石衝突という環境の激変に耐えることが出来、恐竜は耐えられずに滅んだということだ。

 恐竜を滅ぼした環境の激変とは隕石の衝突だが、隕石が衝突しなかったらどうなっていたかというと、まだ恐竜の時代が続いていたということだ。ということは、ほ乳類はネズミのままで、人間が生まれるということもなかった。要するに、人間の誕生という進化のプロセスは、隕石の衝突という外部的要因、もしくは偶然の要素によっているということである。

 それから食物連鎖の頂点にたつように進化を特殊化するともうその先はない、ということである。つまり、環境に適応するように進化する余裕を使い切っている、ということだ。人間がそうである。恐竜の時代は一億年以上続いたが、それは環境とのバランスが維持されていたということだ。が、人間はどうか。少なくとも近代以降、人間の文明はそのバランスを壊してしまった。地球温暖化は隕石の衝突に匹敵することなのどうか。まだわからないが、少なくとも、人間の時代が恐竜のように一億年持たないことは誰もが覚悟していることであるだろう。これは人間の文明が隕石みたいなものであるということでもある。

 それからテレビでは特にNHKで戦争のドキュメンタリーを多くやっていて、これもつい観てしまう。それにしても日本の戦争の有様はひどいものである。玉砕の真実といったドキュメントをやっていたが、作戦の失敗によって前線の兵士を孤立させ、援軍も送らずに見捨てて、全滅するとそれをひた隠しにし、隠しきれないと玉砕という呼び方で美化していく、そうやって、死ななくてもよい兵隊がたくさん死んでいった。大本営の罪はかなり深い。

 どうも明るい話題はあまりない夏である。百歳以上の老人がかなり所在不明であるというニュースも暗い。長寿とは喜ばしいものであるはずである。古代から世界中で長寿を目指して人間は努力してきた。ところが、日本では(先進国ではといった方がいいかもしれないが)、世界一の長寿国になったのに、長寿はいつからか喜ばしいものではなくなった。百歳を過ぎて孤独に生きるなんてことは誰だって想像したくないだろう。

 百歳を過ぎた老人が孤独になり所在不明になる日本という国で過ごす夏は心地よいものではないが、しかし、この国で生きなければならないのなら、孤独に生きない方法を考えておく必要がある。特に私の場合は必要かもしれない。誰にも相手にされない老人になりそうな予感がする。まあそんなに長生きしないと周りから言われているので、余計な心配なのかもしれないが。

                          夏木立老人が独り歩いている

明日から中国2010/08/16 17:23

 いやあ暑い!この夏最高の暑さだという。車で奥さんの実家のある武蔵村山まで行ってきたが、とにかく車の温度計では外は38度であった。お年寄りが熱中症で倒れるのがよくわかる。奥さんの両親はもう八〇代後半。やはり、熱中症が心配であったが、元気そうでなによりであった。

 明日、早朝中国雲南省に出発。涼しいところへ行くわけではないが、前半に行く大理は高原なので少しは涼しいのではないかと思う。ただ、後半に行くところは標高は低めなので暑さが心配。雨も多いと聞いているので、道路が心配だ。

 前半はいつもの白族の歌文化の調査。私がここ三年ほどこだわっている鶴慶という町にある歌謡の調査がある。それから、大理では、地元の研究者に「山花碑」の詩文についてレクチャーを受ける予定。

 後半は、南に下って、開遠市で、兄妹婚始祖神話についての国際シンポジウム。私の属するアジア民族文化学会が共催ということになっている。私は事務局の一人ということになっていて、発表もする予定。

 中国は去年行かなかったので二年ぶりということになる。遠くへ行って人と会う。こういうことの苦手な私にしては、なかなかよくやっていると思う。一人ではできないことなので、みんなのおかげだが、ただ、今でも、調査は冷や汗ものだ。私は人と話すのが未だに苦手で、それなのに必死で聞き取り調査をしている。外国は聞き書きには通訳が入る。一人クッションが入るので、私のようなタイプには助かる。むろん、直接話ができたらどんなにか良いだろうと思うが、逆に、私のような性格では難しくなるかもしれない。

 一応、中国行きの準備は何とか整えたが、腰痛が悪化するなどしてここんところどうも体調が良くない。これも暑さのせいだろうと思う。中国に行けばむしろ良くなるかも、と思うが。

 帰国は28日。勤め先ではオープンキャンパスがあり、29日は仕事である。というわけで、帰ってからも相変わらずだが、そんなんこんなで今年の夏も過ぎていくのかなと思う。

 短歌時評も書き上げ、「七五調のアジア」の方も何とか初校が出た。今年中の出版を目指したい。

      炎天下配達人は駆けてゆく

中国から帰国2010/08/29 00:37

 今日無事返中国から帰って来た。けっこうハードスケジュールで、疲れたが、けっこういろろいあって面白い旅であった。

 まず、昆明から大理まで初めて鉄道で行った。8時間のゆっくりとした旅であったが、これがなかなかよかった。昆明・大理はバスだと早ければ4時間、鉄道でも快速は5時間だが、鈍行しかとれなくて、8時間の旅となったが、寝台車のベッドに腰掛け、疲れたら居眠りしながら、車窓の風景を眺める、こういうのもなかなかいい。中国鉄道紀行の番組があったが、まさにあんな感じであった。

 シンポジウムは、一応国際シンポジウムで、雲南の開遠市で行われた。シンポジウムの一行が昆明からバス数台で開遠市につくと、パトカーがわれわれを先導し、道のあちこちに警官が立っていて、交通整理などをしている。まさにVIP待遇であった。さすがに、市の肝いりのシンポジウムなので、市の力の入れようも相当なものである。宴会も書記長や市長の演説がしっかりとあった。

 シンポジウムは「兄妹始祖神話の研究討論」というもので、日本からはわれわれの学会と、中国の研究者、韓国、アメリカの研究者もいた。現地では村に案内され、兄妹の「人祖廟」の見学や、歌で伝えている兄妹洪水神話を語って聞かせてもらい、興味深かった。

 12日間の、調査や指南ポジウムの旅であったが、何とか体調もこわさずに帰ってこれた。中国の話はいろいろあるがとりあえず帰国の報告である。

歌の力で生きる2010/08/29 23:28

 今日は、オープンキャンパスで出校。AO入試の面談を行う。さすがに日本は暑い。返って来て、政局の混乱しているニュースを見る。日本の政治は混とんとしているようだ。

 18日に大理にはいり、19日は麗江の近くの鶴慶という町まで行き、そこで、以前取材した盲目の歌手に取材した。かれは、幼い時に失明し、父親から歌を教えられ、歌がとてもうまくなった。若い時は、村人から儀礼の時に歌い手として呼ばれ、生計をたてていたという。今の奥さんも、ある家に歌を歌いに行って、歌を掛け合い仲良くなって結婚したという。まさに歌の力によって、生きて来た人である。
 
 鶴慶では、観光地麗江のように売り出そうとして、街並みを麗江のように民族街風に整え、取材した歌手を演出家として雇い、彼を文化財として売り出していた。3年前に取材したときは農家の隠居ふうだったが、今はサングラスをかけ、長い髪を後ろで束ね、偉くかっこよくなっていた。私は、2時間近くインタビューして、彼の半生や、漢調の歌のことなどを聞き書きした。

 大理に戻り、E君達と合流し、白族の明時代の歌碑である「山花碑」について、地元の研究者に取材した。同行した大学院生のTさんや、E君も中国語が話せる。考えてみれば、中国語が話せないのは私一人である。どうも若い時から語学が不得意なので、いまだに中国語は上達しない。上達のこつは、間違ってもいいから、とにかくしゃべってみる積極性なのだが、その積極性に欠けるところが、最大の問題である。この歳になって語学向きに性格を変えるのはかなりきつい。というより無理である。だから、まあせめて読むくらいはできるようにと勉強はしている。

 大理に三泊した。洋人街は相変わらずだが、とにかく中国人の観光客が増えた。彼らはとにかくよくしゃべり、喧噪を好む。だから、洋人街もうるさくなった。麗江も喧噪の観光地になったが、大理もまたそうである。これも、時代の流れというものであろう。

 21日にバスで大理から昆明に。5時間もかからなかった。高速もそんなに渋滞していない。これならバスでくるんだと思ったが、実は、今は、日本から一日で麗江に行ける。成田から広州へ行き、広州で乗り継いで昆明に行くのだが、その昆明行きの便が実は麗江行きでもあったのだ。つまり、昆明に一時降りて、また麗江に行くのである。それに乗れば、昆明に泊まらずに麗江に行き、そこから大理に入った方が時間も費用も節約できた。新しい便のようだが、それを知らなかったことを後悔した。

 21日に、昆明に着き、この日に中国に入る学会の連中を出迎えた。雲南大学のホテルには大きなシンポジウムの垂れ幕が掲げてある。大理も昆明もとても涼しい。標高が二〇〇〇メートル近い高原の気候なのである。スケジュールはきついが涼しいので何とかついていけるところが、ここでの良さである。

                         自閉せる残暑の国に帰りけり

ガラス張りの洗面室2010/08/31 23:50

 それにしても毎日暑い。こんなことならもっと中国で過ごしておくべきだったが、学校の仕事もあるのでそういうわけにもいかない。奥さんは、山小屋へ行ってしまって、私一人家で仕事である。

 22日に雲南大学で国際シンポジウムの開会式と、初日の研究発表があった。私の出番は26日の開遠市での大会と聞いていたので、安心していたのだが、突然予定が変わって、これから発表してくたざいということになった。それはないだろう、と抗議するわけにもいかず、急遽発表することにした。多少の準備はしていたが、まだ日があるのでもう少し内容を詰めようと考えていたので、さすがにあわてた。が、仕方がない、原稿を通訳に渡し、「古事記における兄妹婚始祖神話と天婚始祖神話との比較」というテーマで話し始めた。

 私が話し、そのあと通訳が話す。発表時間は30分だが、通訳の時間を入れると正味15分である。かなり、省略しながら話したが、それでも5分オーバーしてしまった。でも、まあまあまとめられたとは思う、内容は、大和の高天原神話が兄妹始祖神話を選択し、出雲神話が天婚始祖神話を選択したのは何故かという問いに対して、それを少数民族の神話分析を通して答えていくというものである。

 古事記のそれぞれの神話についての分析はあるが、この二つを、共通した始祖神話のテクストとして並べ、どうしてこのような配置になっているのか、という問い方はたぶんなされていないので、そこが新しいアイデアということになる。発表時間が短いので、細かなことは言えなかったが、何とか、責任は果たしたというところだ。

 23日は開遠市に向かう。市に入るとパトカーが一行を先導してくれる。ホテルについたが、市の郊外にある新しいホテルだ。ツインの部屋だったが、われわれ外国人は一人一部屋である。入って驚いたのが、洗面室が総ガラス張りで、部屋から全部見えることである。シャワー室もガラス張りだから中まで見えるし、トイレも見える。カーテンはついているが半透明なのであまり役に立たない。

 実は私は、中国の地方の色んなホテルに泊まっているから、こういうのには驚かない。確かガラス張りは二度目だが、ここまで全部見えるというのは初めてである。われわれ日本人の中で何故ガラス張りなのかということで大いに盛り上がった。二人で泊まる時には困るだろう、と皆言うが、中国ではトイレは見られても平気なので、困らないのではとか、トイレからテレビが見られるのがいいのでは、とか、死角がないので防犯上良いとか、いろいろ意見が出たが、結局よくわからなかった。奥さんの話だと、ヨーロッパではよくあるそうで、ただ、中からブラインドで見えなくなるようになっているということだ。つまり、西洋式に作ってはみたが、細かな所には神経が行き届いていないということである。中国ではよくあることである。

 ちなみに、シャワー室だけでバスタブはない。ホテルの格が三つ星以下だとこんなものだ。ちなみに、中国のホテルの排水設備はだいたいが悪い。シャワー室は、ガラスで囲われているが、シャワーの水は、うまく排水されないので、洗面室の中にあふれ出る。いままで泊まったホテルはほとんどそうであった。熱水と冷水の表示が逆になっているなんてのもよくあることで、今度もそうであった。でも、さすがに新しいということもあって、居心地はよかった。ここに四泊した。

 ここは石炭の露天掘りで有名なところで、中国でも最大級の露天掘り鉱山がある。石炭による発電所もあって、また化学肥料の工場もある。工業都市ということで、町は豊かである。電力は豊富なせいか、夜になると町の大きな建物はライトアップされ、街路樹には豆電球のイルミネーションが点灯する。昆明より標高が700メート流は低い。だから、気温が高い。植物も亜熱帯系のものが目立つ。さすがに夜はクーラーが必要だった。

                        異国にて夏の終わりを過ごしけり