恐竜と戦争と老人の話題2010/08/13 00:52

 テレビを見ていると夏休みということで恐竜の特集をやっていて、つい観てしまう。恐竜が滅んだことで、ネズミだったほ乳類はやがて進化して食物連鎖の頂点に立つ。この場合、環境に合わせて特殊な進化をせずに、小さくてシンプルな身体だったから、環境の激変にほ乳類は生き延びることができたらしい。

 つまり、環境に合わせてあるいは強者になろうとして進化をすすめて特殊化していくと、それが限界にたっしたとき、例えば恐竜がそうなのだが、環境の変化に対応できなくなってしまうというのである。逆に恐竜の時代ほ乳類は弱者であったが、進化の余裕をかなり持っており、隕石衝突という環境の激変に耐えることが出来、恐竜は耐えられずに滅んだということだ。

 恐竜を滅ぼした環境の激変とは隕石の衝突だが、隕石が衝突しなかったらどうなっていたかというと、まだ恐竜の時代が続いていたということだ。ということは、ほ乳類はネズミのままで、人間が生まれるということもなかった。要するに、人間の誕生という進化のプロセスは、隕石の衝突という外部的要因、もしくは偶然の要素によっているということである。

 それから食物連鎖の頂点にたつように進化を特殊化するともうその先はない、ということである。つまり、環境に適応するように進化する余裕を使い切っている、ということだ。人間がそうである。恐竜の時代は一億年以上続いたが、それは環境とのバランスが維持されていたということだ。が、人間はどうか。少なくとも近代以降、人間の文明はそのバランスを壊してしまった。地球温暖化は隕石の衝突に匹敵することなのどうか。まだわからないが、少なくとも、人間の時代が恐竜のように一億年持たないことは誰もが覚悟していることであるだろう。これは人間の文明が隕石みたいなものであるということでもある。

 それからテレビでは特にNHKで戦争のドキュメンタリーを多くやっていて、これもつい観てしまう。それにしても日本の戦争の有様はひどいものである。玉砕の真実といったドキュメントをやっていたが、作戦の失敗によって前線の兵士を孤立させ、援軍も送らずに見捨てて、全滅するとそれをひた隠しにし、隠しきれないと玉砕という呼び方で美化していく、そうやって、死ななくてもよい兵隊がたくさん死んでいった。大本営の罪はかなり深い。

 どうも明るい話題はあまりない夏である。百歳以上の老人がかなり所在不明であるというニュースも暗い。長寿とは喜ばしいものであるはずである。古代から世界中で長寿を目指して人間は努力してきた。ところが、日本では(先進国ではといった方がいいかもしれないが)、世界一の長寿国になったのに、長寿はいつからか喜ばしいものではなくなった。百歳を過ぎて孤独に生きるなんてことは誰だって想像したくないだろう。

 百歳を過ぎた老人が孤独になり所在不明になる日本という国で過ごす夏は心地よいものではないが、しかし、この国で生きなければならないのなら、孤独に生きない方法を考えておく必要がある。特に私の場合は必要かもしれない。誰にも相手にされない老人になりそうな予感がする。まあそんなに長生きしないと周りから言われているので、余計な心配なのかもしれないが。

                          夏木立老人が独り歩いている

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