人生色々2008/11/25 00:17

 今日は授業日なので出校。卒業セミナーの授業だけで、授業はレポートの発表だったのだが、一人は休み、発表は一人だけ。早めに授業を終える。全員8000字の卒業レポートを必修にしているのだが、みんな書けるのだろうか。だんだん心配になってきた。

 推薦入試を終えて思ったことは、経済的な理由で短大を志望する学生が増えたこと。これも、時代の影響だろうか。早く社会に出て働きたいとか、弟たちには大学に行ってもらいたいので私は短大でいいです、という子もいた。泣かせる話である。バブルの時はこういうことを言う受験生はいなかったろう。経済は良いにこしたことはないが、悪くなったからといって、みんな不幸になるわけではない。それなりにみんな真剣に生きようとする。いいこともあるのだ。

 そういう学生が入ってきてくれるのはありがたい。だからこそ、教育の質を高めなくてはいけない。おっと、つい学科長の発想になってしまう。10年前から比べると、遊ぶ学生が少なくなったのは確かだ。経済が傾いた今就職は厳しくなっている。送り出す側としては心配である。

 ただ、私の考えとしては、人生色々である。何も良い企業に就職することだけが人生の唯一の価値ではない。いろんな生き方があり、その分だけいろんな将来がある。ただ、そのいろんな将来が今は見えないだけだ。日本に見切りをつけてアジアに出て行く人がいていいし、現にけっこういる。田舎暮らしでビンボー生活を送る若者がいていい。生活の安定より人のために働きたいといってボランティアをするのもいい。

 好きなことをやれとか、やりたいことを見つけろということを言うつもりはない。ただ、人生色々だということだけは確かだということだ。経済的危機は、人生色々という考え方を身につけやすくする。嫌でも人生色々になっちゃうからだ。でも、これでいいのだ、と思えば、それでいいのだ。

 日本に出稼ぎに来て居る外国人労働者は何十万単位でいる。彼等も厳しい環境にあって働いている。彼等の就職危機は、即生きていけないか帰国を意味する。でも、ほとんどはそれなりに働き口を探して何とかやっている。仕事を選ばない、いや選べないが本当だが、何でも出来る仕事はやるからだ。

 そこまで覚悟してやれとは言わないが、どんな仕事でも気の持ちようである。どんな仕事でもそれなりに不満を持たずに働く気の持ちようというのはある。今の仕事が不満なら、取りあえず気分良く働きながら、一方で自分の好きな事の実現のために努力していけばよい。何とかなるものだ。

 経済的理由から、弟たちに大学に入って欲しいので自分は短大でいい、と言った受験生は、きっと人生色々という真理の側にいる。

       君たち人生色々冬日和

民俗学の授業2008/11/26 23:53

 共通教養教育の「民俗学」の授業は、130名の登録者がいる。実際来ているのは100名ちょっとだろうと思うが。短大と四大の学生が受講している。座席表で席を決めていて、助手さんに出欠をチェックしてもらう。私語があれば誰がうるさいか座席表でわかるので、名前を呼んで注意できる。だからこの授業は静かだし、途中で席を立つ者もいない。

 基本的に、パワーポイントと、プリントとビデオの映像で授業をしていて、かなり贅沢な授業であると思う。じっくりと話をする時間がないので多少欲求不満だが、話をすると寝る奴がいるので、これでいいかなと思っている。

 今日は、美保神社の青柴垣神事の映像と、白族の哭歌の映像と、盟神探湯(くがたち)の話、それから柳田国男の「妹の力」の話と盛りだくさんであった。「妹の力」以外の話は、神関連だがやや授業のテーマとは外れ気味の話。青柴垣神事は、当人神主が祭りの当日一応神懸かりになる。それを見せたかったのだが、もう一つ一年神主がいる。一年神主はかつて湯で煮られて失神させられ、息を吹き返したときに神の託宣を述べたということが、柳田の「巫女考」に出ている。その一年神主を映像で見せたかった。むろん、そんなことは今やっていない。

 「盟神探湯」は、沸騰した湯に手を入れて罪の有る無しを判定する神判で、これを行った記事が日本書紀に何回か出て来る。実は、今年の6月に出版された「瀾滄江怒江伝(らんそうこうどこうでん)」( 黄光成著)という本があって、その中に、二十歳の時、この神判を実際にやったという、リス族の老人の話が出ている。これが面白い。1925年の頃で、代金を支払ったのに後から受け取っていないと取引先から訴えられ、この「くがたち」をすることになったというのだ。

 まず、鉄鍋にお湯を煮えたぎらせ、中に小石を入れて、訴えられた側がそれを素手で取り出し、三日後に判定役の者がその手を見てやけどをしていなかったら、訴えられた側が勝訴、やけどしたら敗訴になるという。訴えた側と訴えられた側が、双方祈祷師を連れてきて呪文を唱える。内容は、訴えられた側は、神の力でお湯の中に雪の水を入れてくれと頼む。訴えた側は逆に鍋の中に溶けた鉄を入れろと唱える。男は、鍋の周りを何回か周り、一気に小石を取り出し、そのまま家に飛んで帰り、じっとしていた。三日後に見に来たが、やけどはしていなかった。それで勝訴し、訴えた側と和解したということである。

 実は、私も10数年前にリス族の調査に行ったときに同じような話を聞いている。「くがたち」という神判がまだ行われていることに驚いた。日本書紀の記事だが、岩波の大系本の頭注に、中国が起源かとある。おそらくそうだろう。実は、湯を使うというところがポイントで、日本の湯立て神事ともかかわる。授業で湯立て神事を紹介したので、この「くがたち」の話に展開したというわけだ。

 哭歌は実はロシアの哭歌から展開した。白族の哭歌のビデオをTさんが撮っていたということは以前書いたが、それを借りる事ができ、歌詞の翻訳もあるので、せっかくだからと授業で公開したのだ。花嫁の母親と妹が泣き崩れながら歌っている。結婚式という解説が無ければ、ほとんど葬式と誰もが思うような光景である。学生はこの映像にかなり衝撃を受けたようだ。しめしめである。

 「民俗学」は理屈の授業ではない。生活文化の中にはこれだけいろんな文化があるのだということをまず知ることから始まる。教養教育なので、そのことにこだわって授業している。要するにいかに狭い世界で自分が生きているかを知って欲しくて驚かしているのだが、ついサービス精神で、いろいろ見せてしまう。肝心の柳田国男論がなかなか進まない。いつもちょっと調子に乗りすぎだなと反省である。

                          昔から変わってないさ神迎え

京都の紅葉2008/11/30 23:43

 昨日は奈良で研究会。京都で食事をしていつものホテルで泊まり、今日すぐに帰るといういつもの予定でいたが、紅葉時にせっかく来たのだから、京都のお寺でもみてから帰ろうと思い、私は一人午後の新幹線にした。

 まず私のお気に入りは大徳寺の高桐院である。地下鉄で北小路まで行きそこから大徳寺まで歩いた。ここの玄関までのアプローチの紅葉は京都の秋のポスターになっているくらい、なかなかいい。シンプルな庭も散った紅葉で見応えがある。ここは普段はそんなに人がいないところなのだが、さすがに紅葉シーズンで人が多かった。ゆっくり庭を見て落ち着く気分になれず、そうそうに出てきた。

 大徳寺境内には色々なお寺があるが、織田信長の墓がある総見院というお寺に入ってみた。ここは確か入ったこと無かったなあ、と思いながらふと見学料600円ほど払って入ったのだが、入って後悔した。お寺は新しいし、庭もないし、すぐ出てこようとしたら、案内の女性があちこちにいて一つ一つ説明しながら客を誘導して、客に勝手な動きをさせない。勝手に帰るというのも気が引ける。しょうがない、と思い、一生懸命お寺の案内をする案内役の女性の説明を聞きながら、確かに、ここまで熱心にやらないと、この寺で見学料をとるのは詐欺になるよな、と思いながら、お寺にもいろいろあるものだと感心した。

 大徳寺からバスで清水寺に。ここも紅葉の名所だから取りあえず見ておこうと思ったのだが、すごい人であった。雑踏がすごく、紅葉見学どころではない。人の列の動きに従ってただ移動するだけという感じである。紅葉はややおそかったか、それほど鮮やかではない。まあこんなものさ、とりあえず紅葉時の清水寺は初めてなので、早めに後にした。境内に、蝦夷の阿弖利爲(アテルイ)と母禮(モレ)の顕彰碑がある。新しい顕彰碑だ。こんなものがあるのだと興味が湧いた。清水寺は坂上田村麻呂ゆかりの寺だから、田村麻呂が捉えた蝦夷たちの顕彰碑があるということか。彼等は田村麻呂の命乞いにも関わらず処刑された。この顕彰碑はその意味では鎮魂の碑ということか。平成6年に出来たとある。

 歩いて京都駅まで行くことにした。途中、河井寛次郎記念館と三十三間堂に寄る。河井寛次郎記念館は、あまり人もいないし、周囲の町並みも落ち着いていて、なかなか良かった。登り窯があったが、こんな街中でよくこれほどの登り窯を焚けたものだと驚く。一度の窯焚きに二千束の薪を使ったとある。陶芸とは設備も金もかかるものである。三十三間堂はたぶん数十年ぶりというくらい久しぶり。やはり人は多かった、清水寺ほどではないが。

 今日京都ではよく歩いた。運動不足の解消にはよかったと思う。午後3時ののぞみで東京へ。午後6時には自宅。奥さんは山へ行っている。丁度野沢菜を漬ける時期なので、ここんとこ続けて週末に行っている。

 読了した本。『瀾滄江怒江伝』(黄光成著 めこん)内田樹『こんな日本でよかったね』。両方とも面白い本である。内田樹の語っていることは、ほとんど私が語りたいようなことである。さすがに、私よりうまくしかも的確に語る。哲学をやっている人には適わないなと思う。いろいろと自分の思考を活性化させてくれる本である。

 そういえば29日の読売新聞に私の写真が出ていた。三浦しをんとの座談会の記事である。二時間も話したのにたいしたことは書かれていないが、写真だけはでかい。自分の顔はあまり好きではない。だからこういうように新聞に出ることは気分のいいものではない。

                           紅葉散る庭の写真と猫二匹