民俗学の授業2008/11/26 23:53

 共通教養教育の「民俗学」の授業は、130名の登録者がいる。実際来ているのは100名ちょっとだろうと思うが。短大と四大の学生が受講している。座席表で席を決めていて、助手さんに出欠をチェックしてもらう。私語があれば誰がうるさいか座席表でわかるので、名前を呼んで注意できる。だからこの授業は静かだし、途中で席を立つ者もいない。

 基本的に、パワーポイントと、プリントとビデオの映像で授業をしていて、かなり贅沢な授業であると思う。じっくりと話をする時間がないので多少欲求不満だが、話をすると寝る奴がいるので、これでいいかなと思っている。

 今日は、美保神社の青柴垣神事の映像と、白族の哭歌の映像と、盟神探湯(くがたち)の話、それから柳田国男の「妹の力」の話と盛りだくさんであった。「妹の力」以外の話は、神関連だがやや授業のテーマとは外れ気味の話。青柴垣神事は、当人神主が祭りの当日一応神懸かりになる。それを見せたかったのだが、もう一つ一年神主がいる。一年神主はかつて湯で煮られて失神させられ、息を吹き返したときに神の託宣を述べたということが、柳田の「巫女考」に出ている。その一年神主を映像で見せたかった。むろん、そんなことは今やっていない。

 「盟神探湯」は、沸騰した湯に手を入れて罪の有る無しを判定する神判で、これを行った記事が日本書紀に何回か出て来る。実は、今年の6月に出版された「瀾滄江怒江伝(らんそうこうどこうでん)」( 黄光成著)という本があって、その中に、二十歳の時、この神判を実際にやったという、リス族の老人の話が出ている。これが面白い。1925年の頃で、代金を支払ったのに後から受け取っていないと取引先から訴えられ、この「くがたち」をすることになったというのだ。

 まず、鉄鍋にお湯を煮えたぎらせ、中に小石を入れて、訴えられた側がそれを素手で取り出し、三日後に判定役の者がその手を見てやけどをしていなかったら、訴えられた側が勝訴、やけどしたら敗訴になるという。訴えた側と訴えられた側が、双方祈祷師を連れてきて呪文を唱える。内容は、訴えられた側は、神の力でお湯の中に雪の水を入れてくれと頼む。訴えた側は逆に鍋の中に溶けた鉄を入れろと唱える。男は、鍋の周りを何回か周り、一気に小石を取り出し、そのまま家に飛んで帰り、じっとしていた。三日後に見に来たが、やけどはしていなかった。それで勝訴し、訴えた側と和解したということである。

 実は、私も10数年前にリス族の調査に行ったときに同じような話を聞いている。「くがたち」という神判がまだ行われていることに驚いた。日本書紀の記事だが、岩波の大系本の頭注に、中国が起源かとある。おそらくそうだろう。実は、湯を使うというところがポイントで、日本の湯立て神事ともかかわる。授業で湯立て神事を紹介したので、この「くがたち」の話に展開したというわけだ。

 哭歌は実はロシアの哭歌から展開した。白族の哭歌のビデオをTさんが撮っていたということは以前書いたが、それを借りる事ができ、歌詞の翻訳もあるので、せっかくだからと授業で公開したのだ。花嫁の母親と妹が泣き崩れながら歌っている。結婚式という解説が無ければ、ほとんど葬式と誰もが思うような光景である。学生はこの映像にかなり衝撃を受けたようだ。しめしめである。

 「民俗学」は理屈の授業ではない。生活文化の中にはこれだけいろんな文化があるのだということをまず知ることから始まる。教養教育なので、そのことにこだわって授業している。要するにいかに狭い世界で自分が生きているかを知って欲しくて驚かしているのだが、ついサービス精神で、いろいろ見せてしまう。肝心の柳田国男論がなかなか進まない。いつもちょっと調子に乗りすぎだなと反省である。

                          昔から変わってないさ神迎え