あわいの文化2008/06/07 00:08

 昨日(木)はかなりハードな一日であった。民俗文化の授業は「なまはげ」のビデオを見る。このビデオいつ見てもなまはげに脅えて泣き出す5歳の女の子がとても可愛い。それにしても、人間とは不思議で、人が仮面を被っているというのがわかっていて、仮面に脅える。仮面を神として遇す。仮面を被っているものも、自分が仮面の神になったと思いこむ。

 こういう装い文化は、とても普遍的であることがわかる。例えば演技というのにウソとかホントとかいう区別はない。ウソでもありホントでもある。ウソでもないしホントでもない、でもいいだろう。歌垣の恋の歌は、演技だと考えた方がいい。だからホントの恋いではない、と言うと間違いなのである。ウソでもない。ウソでもホントでもある。

 万葉の恋の歌もまた同じだろう。恋の贈答歌にホントの恋を探すのは徒労なのである。演技は文化である。文体であるといってもいい。恋の歌はこの文体によって演じられている。それはウソでもありホントでもある。あるいはウソでもないしホントでもない。

 いわば、‘あわい’の表象なのだ。「あわい」文化と言ってもいい。このあわいが、神と人との対峙を生み出し、男女の恋愛の対峙を生み出すのである。仮面は、その意味で「あわい」の表象そのものである。

 一神教が仮面を嫌うのは、あわいそのものを嫌うからだ。神と人との間にあわいを認めないのである。

 昼から、課外講座の万葉論、巻1から読んでいるのだが、今日は歌垣のビデオを見せて、万葉の背景に歌垣文化があることを解説。

 終わってから、二つの会議。一つは、FD活動を教員同士でやろうよということの話し合い。例えばお互い授業参観するとか、授業をビデオにとって公開するとか、そうすれば、お互いいろんな知恵を出し合うことが可能になって、全体の授業のレベルがあがるのでは、という提案である。が、無理があるのでは、という意見が出て、あまりやりたいという雰囲気ではない。まだ時期尚早のようだ。でも、こういう話し合いが持てただけで一歩前進である。
 
 夜は、飲み会だが、癌で亡くなったI君の墓参りや偲ぶ会の日取りを決めるというので参加する。いつも疲れ果てて顔を出さない時が多いのだ。期日は、7月6日で、学会のシンポジウムと重なる。さてどうしたものか。私が会場の設定や準備をしなくてはならないので、こっちを優先せざるを得ない。I君は私個人で偲ぶしかない。

 今日は(金)は久しぶりに山小屋へ。新居に入りきらない荷物を山小屋へ運ぶのが目的。天気が良く、あったかい一日であったが、夜は寒い。ストーブを焚く。明日は、シンポジウムで学校へ。

五月闇亡者数える鬼の声