盲腸で入院 ― 2020/08/25 22:50
以下私の病状日記。
8月14日、癌研有明でホルモン治療を受ける。一ヶ月錠剤を服用しPSA値が5から0.1に下がった。さすがに効く。今回の治療は注射での薬剤投与である。
8月15日、長野の茅野の山荘に行く。その夜胃のあたりが急に痛くなり我慢できなくなって諏訪中央病院の夜間救急外来に駆け込む。医者によれば胃が荒れているからだろうとのことで、制酸剤と痛み止めをもらって帰る。
16日、一晩痛みは続き、だんだんと下腹の方に痛みが降りてきた。この痛みも我慢できず、日曜なので、午前中にまた諏訪中央病院の救急外来に駆け込む。今度は盲腸の疑いがあると診断された。CTを撮り、盲腸が判明。外科医がやってきてすぐ手術と言われた。あの胃の痛みは盲腸が原因だったらしい。よくあることらしい。ということで、午後に手術をし即入院。手術は開腹でなく、腹腔鏡手術。
17日。医者によれば、私の虫垂は破裂寸前で、もう少し遅かったら危なかったという。ただ、化膿があるらしく熱が下がらない。医者は、化膿の勢いと抗生物質との戦いがこれから続く。薬が勝てば19日に退院。負ければ再手術。腹に管を入れて洗浄するらしい。
18日。熱は下がらず。19日の退院は無理そう。病室の窓から、茅野の街並みが見渡せる。熱はあるが歩くことができるまでに回復。
19日。微熱が続く。明日の血液検査で退院可能かどうかの判断をすることになった。 20日。検査の結果、薬が勝利したとのこと。明日退院できることになった。
21日、退院。熱は下がり、体調もふつうに戻ったが、抗生物質の副作用で背中にじんましんが出る。かゆい。家に戻り、病院食でな食事の出来ることに感動。
この歳で盲腸で苦しむとは思わなかった。とんだ災難であった。前兆もなく突然の盲腸襲来である。いつ何が起こるか本当に分からない。この歳になると、ちょっとした病が命取りになる。コロナにかかったら、私などは生還できないだろう。病床で、ここで死んでも、それはそれでいい、まあこんなところだ私の人生も、という気持ちになれたのが、突然の入院での収穫といえるだろうか。
8月14日、癌研有明でホルモン治療を受ける。一ヶ月錠剤を服用しPSA値が5から0.1に下がった。さすがに効く。今回の治療は注射での薬剤投与である。
8月15日、長野の茅野の山荘に行く。その夜胃のあたりが急に痛くなり我慢できなくなって諏訪中央病院の夜間救急外来に駆け込む。医者によれば胃が荒れているからだろうとのことで、制酸剤と痛み止めをもらって帰る。
16日、一晩痛みは続き、だんだんと下腹の方に痛みが降りてきた。この痛みも我慢できず、日曜なので、午前中にまた諏訪中央病院の救急外来に駆け込む。今度は盲腸の疑いがあると診断された。CTを撮り、盲腸が判明。外科医がやってきてすぐ手術と言われた。あの胃の痛みは盲腸が原因だったらしい。よくあることらしい。ということで、午後に手術をし即入院。手術は開腹でなく、腹腔鏡手術。
17日。医者によれば、私の虫垂は破裂寸前で、もう少し遅かったら危なかったという。ただ、化膿があるらしく熱が下がらない。医者は、化膿の勢いと抗生物質との戦いがこれから続く。薬が勝てば19日に退院。負ければ再手術。腹に管を入れて洗浄するらしい。
18日。熱は下がらず。19日の退院は無理そう。病室の窓から、茅野の街並みが見渡せる。熱はあるが歩くことができるまでに回復。
19日。微熱が続く。明日の血液検査で退院可能かどうかの判断をすることになった。 20日。検査の結果、薬が勝利したとのこと。明日退院できることになった。
21日、退院。熱は下がり、体調もふつうに戻ったが、抗生物質の副作用で背中にじんましんが出る。かゆい。家に戻り、病院食でな食事の出来ることに感動。
この歳で盲腸で苦しむとは思わなかった。とんだ災難であった。前兆もなく突然の盲腸襲来である。いつ何が起こるか本当に分からない。この歳になると、ちょっとした病が命取りになる。コロナにかかったら、私などは生還できないだろう。病床で、ここで死んでも、それはそれでいい、まあこんなところだ私の人生も、という気持ちになれたのが、突然の入院での収穫といえるだろうか。
『瓔珞』が終わる ― 2020/08/07 22:33
『瓔珞〈エイラク〉~紫禁城に燃ゆる逆襲の王妃~ 』が終わった。全70話、毎回観ていた。面白かった。中国の後宮ものは敬遠していたが、『瓔珞』にははまった。後宮で不審の死を遂げた姉の死の原因を探るために、主人公の瓔珞は後宮に奴婢として入る。持ち前の才気と強い意志で、姉の死にかかわったものたちに容赦なく復讐していく。瓔珞は皇后を支える女官となり、やがて最後には皇后となるというサクセスストーリーなのだが、そのストーリーのほとんどは、後宮の女官や皇妃達の嫉妬や権力を巡る争いによる事件の連続である。その出来事の中心には瓔珞がいる。瓔珞の役回りは、他の女官や皇妃のいじめや陰謀によってひどい目に遭ったり、追い詰められたりするのだが、その優れた機知によって危機を脱し、用意周到な機略で、瓔珞を陥れた相手をやっつける。中国版半沢直樹と宣伝文句にあったが、とにかく、やられたらやりかえすその徹底さが爽快で、観ていて飽きなかった。
陰謀を企てる後宮の皇妃達の描き方も、単純な悪女として描くのではなく、そうせざるを得ないような境遇にあらがえない悲しい存在としてきちっと描いている。そういう人物描写の細かさが、この物語を見応えあるものにしていると言っていいだろう。また瓔珞をも、いわゆる男を惹きつけるような女らしさを持たない女性として描く。ここがこのドラマの特徴と言えるだろう。瓔珞は逆境を跳ね返すような意志のつよいきつい目の女性で、ほとんど笑わないので愛嬌はない。どちらかと言えば少年のような中性的な顔立ちとも言える。このような女性が、女性性を武器に女たちが抗争する後宮で、女性性ではなく知略によって勝ち抜き、しかも最後には皇帝の愛を勝ち得るのだから、今までの後宮の争いものとはひと味違った物語展開と言えるだろうか。
この物語、清の6代目の皇帝である乾隆帝の時代の話で、清のもっとも隆盛だった時代だと言われている。領土拡大のための戦争は何度も行ってはいるが内乱はなく、その意味では平和な時代だった。従って、後宮の皇妃達の、皇帝の寵愛を得る争いは、後継者を巡る争いでもあって、皇妃たちも実家である豪族の期待を負っているから、その争いは、熾烈を極め、ライバルの命を奪うというところまでエスカレートする。ほとんど戦争といってもいい。その意味では、瓔珞は戦場で決して負けない英雄であり、女性同士の争いの物語を敬遠しがちな私でも、面白く見ることが出来た。
中国のドラマはやはり歴史物の史劇が好きで、私が観たドラマで面白かったのは『三国志』『項羽と劉邦』『秀麗伝』である。『三国志』『項羽と劉邦』は代表的な歴史物語だが、『秀麗伝』は光武帝とその妻の物語。光武帝は後漢を建国するが、それを助ける妻が主人公。「妻を娶らば陰麗華」という言葉で知られた女性である。腐敗した王朝が瓦解し、各地で反乱が起こりそのなかから傑出した英雄が現れ新たな王朝を建てていくという壮大な史劇は、中国の大河ドラマであり、見応えがある。ちなみに、中国の歴史の中で、一番好きなのが光武帝である。この人は、建国の英雄だが残虐さがない。国を建てるとたいてい粛清が始まるが、光武帝はそういうことはしない。妻を大事にするところもいい。その光武帝を描いた『秀麗伝』はおすすめである。
私の住むマンションは庭が広く木々が繁っている。この季節蝉の声がうるさい。蝉の声を聞きながら、いろんなことを思う。
よく聞けば死んでなるかと鳴く蝉も
陰謀を企てる後宮の皇妃達の描き方も、単純な悪女として描くのではなく、そうせざるを得ないような境遇にあらがえない悲しい存在としてきちっと描いている。そういう人物描写の細かさが、この物語を見応えあるものにしていると言っていいだろう。また瓔珞をも、いわゆる男を惹きつけるような女らしさを持たない女性として描く。ここがこのドラマの特徴と言えるだろう。瓔珞は逆境を跳ね返すような意志のつよいきつい目の女性で、ほとんど笑わないので愛嬌はない。どちらかと言えば少年のような中性的な顔立ちとも言える。このような女性が、女性性を武器に女たちが抗争する後宮で、女性性ではなく知略によって勝ち抜き、しかも最後には皇帝の愛を勝ち得るのだから、今までの後宮の争いものとはひと味違った物語展開と言えるだろうか。
この物語、清の6代目の皇帝である乾隆帝の時代の話で、清のもっとも隆盛だった時代だと言われている。領土拡大のための戦争は何度も行ってはいるが内乱はなく、その意味では平和な時代だった。従って、後宮の皇妃達の、皇帝の寵愛を得る争いは、後継者を巡る争いでもあって、皇妃たちも実家である豪族の期待を負っているから、その争いは、熾烈を極め、ライバルの命を奪うというところまでエスカレートする。ほとんど戦争といってもいい。その意味では、瓔珞は戦場で決して負けない英雄であり、女性同士の争いの物語を敬遠しがちな私でも、面白く見ることが出来た。
中国のドラマはやはり歴史物の史劇が好きで、私が観たドラマで面白かったのは『三国志』『項羽と劉邦』『秀麗伝』である。『三国志』『項羽と劉邦』は代表的な歴史物語だが、『秀麗伝』は光武帝とその妻の物語。光武帝は後漢を建国するが、それを助ける妻が主人公。「妻を娶らば陰麗華」という言葉で知られた女性である。腐敗した王朝が瓦解し、各地で反乱が起こりそのなかから傑出した英雄が現れ新たな王朝を建てていくという壮大な史劇は、中国の大河ドラマであり、見応えがある。ちなみに、中国の歴史の中で、一番好きなのが光武帝である。この人は、建国の英雄だが残虐さがない。国を建てるとたいてい粛清が始まるが、光武帝はそういうことはしない。妻を大事にするところもいい。その光武帝を描いた『秀麗伝』はおすすめである。
私の住むマンションは庭が広く木々が繁っている。この季節蝉の声がうるさい。蝉の声を聞きながら、いろんなことを思う。
よく聞けば死んでなるかと鳴く蝉も
「韓国ノワール」的韓流ドラマ ― 2020/07/31 00:35
「韓国ノワール」という言葉がある。これでもかというように過剰な暴力を振るう人間を描く韓国映画を評する言葉だ。追い詰められ容赦なく殺される人たちを徹底して描く。あるいは、人間の内なる悪や暴力性を目を覆いたくなるほどのリアリズムで描く。何故、これほど悪や暴力の表現に過剰になるのか。誰しもが思う疑問だろう。
韓流ドラマは視聴率を気にするテレビドラマだからさすがに残酷な暴力な場面は映画ほどはない。が、それでも、「韓国ノワール」的ドラマはある。当然私はこの手のドラマは苦手なのであまり観ない。うちの奥さんは嫌いでないので私も付き合いで時々観るのだが、残酷な暴力の場面は観ないようにしている。例えば「ボイス1・2・3」のシリーズなどは、あまりに暴力描写や壊れた人間の描き方がエグすぎて私はついて行けなかった。特に、韓流サスペンスは、サイコパスによる犯罪を好んで描く。「ボイス」もそうである。良心の欠如した人格を持たせるには、人格障害として描くということなのだろうが、このサイコパスの設定も私は好きではない。
何故韓流ドラマは、良心の欠如した悪の過剰な暴力を描くのか。私は、韓国社会のどうにもならない絶望感が背景にあると思っている。それは韓国社会が構造的に持つ格差であり差別である。王朝の時代は、貴族(両班)と庶民のあいだに格差と差別があり、近代に入れば、日本の植民地化による日本人との格差や差別があり、戦後は財閥と庶民の間の格差と差別が厳としてある。一般の人々がどんなに頑張ってもこの格差や差別は乗り越えられない。それが社会の宿痾になっている。経済重視ではなく格差と戦おうという主張の左翼が政権を握れるのもこの構造のおかげである。韓流ドラマが両班や財閥の横暴さを好んでが描くのもこの構造があるからだ。
このどうにも動かしがたい構造に、政治ではなく、情のドラマで抗おうというのが韓流ドラマのポリシーだと言っていいだろう。復讐ものも、ドロドロの愛憎劇も、ラブコメも、財閥の御曹司(または令嬢)と庶民の男女の関係が必ず描かれる。例えばツンデレな御曹司が貧しいが素直で元気な庶民の女性と最悪の出会いをしながら、運命のような成り行きで結ばれるというラブコメお得意のシンデレラストーリーも、この格差への抵抗なのである。現実では不可能な財閥との結婚を可能にするファンタジーは、世界の物語の王道であるが、韓国では、格差を超えたい願望がそういったファンタジーを単純な娯楽作品にしていない。
韓国ノワールの容赦ない過剰な暴力性も、韓国社会に内在する格差や差別に対する、絶望感に裏打ちされた抵抗なのだと言えるだろう。人格を壊し暴力に過剰になるしか、生きることの意味を刻めない人間もいる、という叫びのような表現なのだとも言える。
韓流ドラマは、嫉妬による小さないじめからサイコパスによる残虐な殺人まで、実に様々な悪人を描く。彼らに共通しているのは、彼らは、社会の仕組みに対して情の暴走でしか立ち向かえない人なのだということだ。そういう悪の振る舞いの必然性を誰もが我がこととして理解出来る。だから、韓流ドラマは多くの人に愛されるのだ。
夏の葉叢やがて散る葉の覚悟満つ
韓流ドラマは視聴率を気にするテレビドラマだからさすがに残酷な暴力な場面は映画ほどはない。が、それでも、「韓国ノワール」的ドラマはある。当然私はこの手のドラマは苦手なのであまり観ない。うちの奥さんは嫌いでないので私も付き合いで時々観るのだが、残酷な暴力の場面は観ないようにしている。例えば「ボイス1・2・3」のシリーズなどは、あまりに暴力描写や壊れた人間の描き方がエグすぎて私はついて行けなかった。特に、韓流サスペンスは、サイコパスによる犯罪を好んで描く。「ボイス」もそうである。良心の欠如した人格を持たせるには、人格障害として描くということなのだろうが、このサイコパスの設定も私は好きではない。
何故韓流ドラマは、良心の欠如した悪の過剰な暴力を描くのか。私は、韓国社会のどうにもならない絶望感が背景にあると思っている。それは韓国社会が構造的に持つ格差であり差別である。王朝の時代は、貴族(両班)と庶民のあいだに格差と差別があり、近代に入れば、日本の植民地化による日本人との格差や差別があり、戦後は財閥と庶民の間の格差と差別が厳としてある。一般の人々がどんなに頑張ってもこの格差や差別は乗り越えられない。それが社会の宿痾になっている。経済重視ではなく格差と戦おうという主張の左翼が政権を握れるのもこの構造のおかげである。韓流ドラマが両班や財閥の横暴さを好んでが描くのもこの構造があるからだ。
このどうにも動かしがたい構造に、政治ではなく、情のドラマで抗おうというのが韓流ドラマのポリシーだと言っていいだろう。復讐ものも、ドロドロの愛憎劇も、ラブコメも、財閥の御曹司(または令嬢)と庶民の男女の関係が必ず描かれる。例えばツンデレな御曹司が貧しいが素直で元気な庶民の女性と最悪の出会いをしながら、運命のような成り行きで結ばれるというラブコメお得意のシンデレラストーリーも、この格差への抵抗なのである。現実では不可能な財閥との結婚を可能にするファンタジーは、世界の物語の王道であるが、韓国では、格差を超えたい願望がそういったファンタジーを単純な娯楽作品にしていない。
韓国ノワールの容赦ない過剰な暴力性も、韓国社会に内在する格差や差別に対する、絶望感に裏打ちされた抵抗なのだと言えるだろう。人格を壊し暴力に過剰になるしか、生きることの意味を刻めない人間もいる、という叫びのような表現なのだとも言える。
韓流ドラマは、嫉妬による小さないじめからサイコパスによる残虐な殺人まで、実に様々な悪人を描く。彼らに共通しているのは、彼らは、社会の仕組みに対して情の暴走でしか立ち向かえない人なのだということだ。そういう悪の振る舞いの必然性を誰もが我がこととして理解出来る。だから、韓流ドラマは多くの人に愛されるのだ。
夏の葉叢やがて散る葉の覚悟満つ
復讐ものの傑作「魔王」 ― 2020/07/27 17:20
前回、韓流ドラマで復讐ものはあまり好みではないと書いたが、しかし、復讐ものは韓流ドラマの王道であり、これ無くしては韓流ドラマは成立しないと言っていくらいだ。私が最初にはまった「チャングムの誓い」も考えてみれば復讐劇だった。チャングムは母親の死の真相を究明し復讐を果たすために医女になって宮廷に舞い戻り、最後に復讐を果たす。ただし、復讐を果たすまでは、悪人たちの陰謀に何度もあい、それを切り抜けていくという繰り返しである。私などは、これでもかと繰り出される陰湿な悪巧みに、ヒロインが切り抜けることを分かりつつも、そのしつこさに観ていて疲れてしまう。
このいじめとも言える陰湿な悪巧みが復讐劇の特徴で、いじめられる(たいていは不幸な境遇にある女性)人物が可哀想であればあるほど、最後に復讐を果たしたときのカタルシスは大きくなる。このカタルシスを期待して観る側は主人公への理不尽な仕打ちに耐えて観ているのだが、我慢の限界というものがあり、途中で観るのを放棄してしてしまうことがある。観る側の心性によってこの限界点も違ってくるが、私は、この限界点が低いほうなので、観るのをすぐに放棄してしまうのである。例えば復讐劇の代表作であるイ・ユリの「福寿草」などはもう最初から観るのを放棄している(ただしイ・ユリは好きな女優)。
韓流ドラマの特徴を一言で言うなら、情の過剰さを描く、ということになろう。復讐ものは、理性を捨て情に支配された人間の物語である。いじめる側の残酷さも、憎しみという情が過剰になりすぎ押さえが効かなくなっている、一方、復讐する側も時に情を爆発させ、やり過ぎる。この情と情の戦いの演出に韓流ドラマの醍醐味がある。
復讐ものの苦手な私が観た数少ないドラマの中で傑作を挙げるとすれば、「魔王」(2007)である。このドラマは日本でリメイクされている(嵐の大野智と生田斗真主演)ので日本版で観た人が多いかも知れない。「魔王」は、復讐の過剰さを描いたドラマである。復讐の原因となった事件より、復讐する側の情の過剰さを描いたドラマと言ってよい。
復讐する弁護士をチェ・ジフン(日本版では大野智)、復讐される熱血刑事役をオム・テウン(日本版では生田斗真)が演じている。このドラマは、悪者の理不尽な仕打ちがない。ただ復讐のきっかけになった事件によって不幸のどん底に落ちた主人公が、その事件の関係者に次々に復讐の刃を向けいていく。ただこのドラマの面白さは、その復讐のプロセスにある。チェ・ジフン演じる弁護士が復讐を演出するのだが、直接手を下すのではなく、復讐される当事者の悲劇は、その生き方が招いた自業自得であるというように仕組まれる。つまり決して法的に責任が問われないように復讐劇は進んでいくのである。ただし、それでは復讐とはわからないので、タロットカードを送りつけ、復讐の悲劇が起きるのを予告するという方法をとる。それによって、一連の事件が復讐劇であることを当事者が知るのである。
大変よく出来た脚本で、先の読めない展開、伏線の巧みさ等、韓流ドラマでこれほど巧みな筋書きのドラマはないのではないかと思う。特に、チェ・ジフンがまた適役だ。オム・テウンも悪くはないが、あれだけのトラウマを抱えた少年(しかも御曹司)が、熱血正義感の刑事になるという設定に違和感が残る(オム・テウンのキャラの問題があったように思う)。この人は、「善徳女王」のキム・ユシン役を演じていたが、陰のある役は苦手のようで、時代劇の方が適役の俳優だろう。やはり、このドラマはチェ・ジフンの独壇場であるといって良い。陰を抱えた無表情さのなかに、復讐への過剰な情を抱え、その情を抑制できなくなる後半の演技が光る。ヒロインにシン・ミナが出ている。恋愛の要素がほとんどないドラマだが、チェ・ジフンに恋心を抱きながら、彼の暴走を止めようとする役どころである。二人の関係も切なくて泣かせる。
このドラマはやり過ぎた復讐劇というべきドラマだが、過剰になっていく情を誰も止められないという韓流の特徴を典型的に描いていると言えるだろう。情をすぐに面に出す人、出さずに秘めてしまう人、韓流ドラマの人物は、いずれも情の圧倒的な力に右往左往しながら生きている。この激しい情のドラマを、日本人はすでにあまり演じない。が、失っているわけではない。多くの日本人は、韓流ドラマに自分たちの情のドラマを再発見している、ということではなかろうか。
落ちる間に開悟する雨滴あるや梅雨
このいじめとも言える陰湿な悪巧みが復讐劇の特徴で、いじめられる(たいていは不幸な境遇にある女性)人物が可哀想であればあるほど、最後に復讐を果たしたときのカタルシスは大きくなる。このカタルシスを期待して観る側は主人公への理不尽な仕打ちに耐えて観ているのだが、我慢の限界というものがあり、途中で観るのを放棄してしてしまうことがある。観る側の心性によってこの限界点も違ってくるが、私は、この限界点が低いほうなので、観るのをすぐに放棄してしまうのである。例えば復讐劇の代表作であるイ・ユリの「福寿草」などはもう最初から観るのを放棄している(ただしイ・ユリは好きな女優)。
韓流ドラマの特徴を一言で言うなら、情の過剰さを描く、ということになろう。復讐ものは、理性を捨て情に支配された人間の物語である。いじめる側の残酷さも、憎しみという情が過剰になりすぎ押さえが効かなくなっている、一方、復讐する側も時に情を爆発させ、やり過ぎる。この情と情の戦いの演出に韓流ドラマの醍醐味がある。
復讐ものの苦手な私が観た数少ないドラマの中で傑作を挙げるとすれば、「魔王」(2007)である。このドラマは日本でリメイクされている(嵐の大野智と生田斗真主演)ので日本版で観た人が多いかも知れない。「魔王」は、復讐の過剰さを描いたドラマである。復讐の原因となった事件より、復讐する側の情の過剰さを描いたドラマと言ってよい。
復讐する弁護士をチェ・ジフン(日本版では大野智)、復讐される熱血刑事役をオム・テウン(日本版では生田斗真)が演じている。このドラマは、悪者の理不尽な仕打ちがない。ただ復讐のきっかけになった事件によって不幸のどん底に落ちた主人公が、その事件の関係者に次々に復讐の刃を向けいていく。ただこのドラマの面白さは、その復讐のプロセスにある。チェ・ジフン演じる弁護士が復讐を演出するのだが、直接手を下すのではなく、復讐される当事者の悲劇は、その生き方が招いた自業自得であるというように仕組まれる。つまり決して法的に責任が問われないように復讐劇は進んでいくのである。ただし、それでは復讐とはわからないので、タロットカードを送りつけ、復讐の悲劇が起きるのを予告するという方法をとる。それによって、一連の事件が復讐劇であることを当事者が知るのである。
大変よく出来た脚本で、先の読めない展開、伏線の巧みさ等、韓流ドラマでこれほど巧みな筋書きのドラマはないのではないかと思う。特に、チェ・ジフンがまた適役だ。オム・テウンも悪くはないが、あれだけのトラウマを抱えた少年(しかも御曹司)が、熱血正義感の刑事になるという設定に違和感が残る(オム・テウンのキャラの問題があったように思う)。この人は、「善徳女王」のキム・ユシン役を演じていたが、陰のある役は苦手のようで、時代劇の方が適役の俳優だろう。やはり、このドラマはチェ・ジフンの独壇場であるといって良い。陰を抱えた無表情さのなかに、復讐への過剰な情を抱え、その情を抑制できなくなる後半の演技が光る。ヒロインにシン・ミナが出ている。恋愛の要素がほとんどないドラマだが、チェ・ジフンに恋心を抱きながら、彼の暴走を止めようとする役どころである。二人の関係も切なくて泣かせる。
このドラマはやり過ぎた復讐劇というべきドラマだが、過剰になっていく情を誰も止められないという韓流の特徴を典型的に描いていると言えるだろう。情をすぐに面に出す人、出さずに秘めてしまう人、韓流ドラマの人物は、いずれも情の圧倒的な力に右往左往しながら生きている。この激しい情のドラマを、日本人はすでにあまり演じない。が、失っているわけではない。多くの日本人は、韓流ドラマに自分たちの情のドラマを再発見している、ということではなかろうか。
落ちる間に開悟する雨滴あるや梅雨
韓流多重人格もの ― 2020/07/25 17:35
韓流ドラマでジャンルというところまでいってはいないが、多重人格をテーマにしたドラマがある。「ジキルとハイドを恋した私」(2015)と「キルミー・ヒールミー」(2014)で、この二作はけっこう面白い(他にもあるかも知れないが観ていない)。
「ジキルとハイドを恋した私」は、二重人格を持つ男に恋するヒロイン(サーカス団の団長)の物語で、二重人格をヒョンビン、ヒロインをハン・ジミンが演じている。そっくりな双子が一人の女性をめぐってという設定はありがちだが、これは、一人の男の二つの人格が一人の女性を取り合うという設定で、このアイデアよく考えたなと感心させられた。ヒロインは二人の男と付き合っているのだが、実は一人だと言うことに気付かない。当然、二人が一人だと気付いたときこの物語は終わる。どちらの人格が残るのか、どちらの人格が恋に勝利するのか、観客はハラハラしながら目が離せないということになる。このような奇想天外なアイデアを生み出す脚本家の想像力は、日本の漫画のバラエティに富んだ自由奔放なストーリー性にたぶん刺激を受けているとおもわれるが、たいしたものだと思う。
このドラマ、ヒョンビンの演技がとてもいい。「シークレットガーデン」では、心が恋人と入れ替わってしまう役を演じて、男から女性に移り変わる人格変異を上手く演じていたが、ここでも二つの人格を巧みに演じ分けている。ヒロインのハン・ジミンも悪くはない。地味だが意思をしっかりと持った女性という役どころが似合う女優。ハン・ヒョジュも同じタイプなので、私は時々二人の区別がつかなくなるのだ。
「キルミー・ヒールミー」は、多重人格(七つの人格を持つ)を持つ財閥の御曹司(チソン)と彼を支える精神科医のヒロイン(ファン・ジョンウム)の物語。この物語も、七つの人格を持つ御曹司の苦しみと、主治医となって御曹司を助けていくヒロインの御曹司への愛情が物語の主軸になる。これも感心するくらいアイデアが斬新。七つの人格を演じるチソンがまたいい。女子高生の人格に変わるときはおもわず笑ってしまった。チソンの代表作と言っていいだろう。チソンはたくさんの作品に出ているが、私が観たなかでは「ラストダンスは私と一緒に」(2004)「ボスを守れ」(2011)が印象に残っている。
「ラストダンスは私と一緒に」は記憶喪失もの。記憶喪失は韓流ドラマの定番だが、数ある記憶喪失もののなかでもこの作品はよく出来ている。「ボスを守れ」はわがままで成長出来ない子供じみた人格の御曹司(チソンが得意とするキャラ)を元ヤンキーののヒロインが立ち直らせるというラブコメ。ヒロインはラブコメの女王と言われているチェ・ガンヒ。けっこう面白い。ちなみにチソンのライバル役がジェジュンで、ジェジュン命のうちの奥さんが観ていたので私も観たドラマである。
ファン・ジョンウムも好きな女優の一人。「ジャイアント」の主人公の妹役を演じていてそのういういしさがとても良かった。最近はすっかりラブコメの女優になってしまった。「秘密」(2013)でチソンと共演し評判になった。ちなみに「秘密」は復讐劇のジャンルにはいるが、私はこの手のドラマが苦手である。最初に主人公が理不尽にひどい目にあう。韓流はその理不尽な仕打ちでどん底に突き落とす主人公の不幸をこれでもかと徹底して描く。私はその主人公が可哀想で観ていられなくなるのだ。「秘密」は復讐の要素がなく、ヒロインを不幸に付き落とすだけの(最後にハッピーエンドではあるが)ドラマ。名作だが、ファン・ジョンウム演じるヒロインへの仕打ちがあまりに可哀想で観ていられなかった。
どん底に突き落とされた主人公が復讐するという韓流お得意のドラマはいまだに量産されているが、そういうわけで私はあまり観ない。主人公が悪い連中にひどい目にあう場面について行けないのだ。あとで復讐すると分かっていても、罠にかかったりいじめられたりする可哀想な場面がこれでもかと繰り返されることに、こちらの心がついて行けない。だから、この手の復讐ものはあらすじを最初に確認して、主人公の無事を確認してから(主人公が死んだらドラマが終わってしまうので無事に決まっているのだがそれでも確認せずにはいられない)観ることが多い。無論、そうするとドラマの楽しみが半減するが、私の心の安定の方が優先する。それにしても、人間の弱さや残酷さや悪をこれでもかと描く韓国の脚本家の描き方は、すごいの一語に尽きる。その背後にある韓国社会の精神性に興味が湧く。
「ジキルとハイドを恋した私」は、二重人格を持つ男に恋するヒロイン(サーカス団の団長)の物語で、二重人格をヒョンビン、ヒロインをハン・ジミンが演じている。そっくりな双子が一人の女性をめぐってという設定はありがちだが、これは、一人の男の二つの人格が一人の女性を取り合うという設定で、このアイデアよく考えたなと感心させられた。ヒロインは二人の男と付き合っているのだが、実は一人だと言うことに気付かない。当然、二人が一人だと気付いたときこの物語は終わる。どちらの人格が残るのか、どちらの人格が恋に勝利するのか、観客はハラハラしながら目が離せないということになる。このような奇想天外なアイデアを生み出す脚本家の想像力は、日本の漫画のバラエティに富んだ自由奔放なストーリー性にたぶん刺激を受けているとおもわれるが、たいしたものだと思う。
このドラマ、ヒョンビンの演技がとてもいい。「シークレットガーデン」では、心が恋人と入れ替わってしまう役を演じて、男から女性に移り変わる人格変異を上手く演じていたが、ここでも二つの人格を巧みに演じ分けている。ヒロインのハン・ジミンも悪くはない。地味だが意思をしっかりと持った女性という役どころが似合う女優。ハン・ヒョジュも同じタイプなので、私は時々二人の区別がつかなくなるのだ。
「キルミー・ヒールミー」は、多重人格(七つの人格を持つ)を持つ財閥の御曹司(チソン)と彼を支える精神科医のヒロイン(ファン・ジョンウム)の物語。この物語も、七つの人格を持つ御曹司の苦しみと、主治医となって御曹司を助けていくヒロインの御曹司への愛情が物語の主軸になる。これも感心するくらいアイデアが斬新。七つの人格を演じるチソンがまたいい。女子高生の人格に変わるときはおもわず笑ってしまった。チソンの代表作と言っていいだろう。チソンはたくさんの作品に出ているが、私が観たなかでは「ラストダンスは私と一緒に」(2004)「ボスを守れ」(2011)が印象に残っている。
「ラストダンスは私と一緒に」は記憶喪失もの。記憶喪失は韓流ドラマの定番だが、数ある記憶喪失もののなかでもこの作品はよく出来ている。「ボスを守れ」はわがままで成長出来ない子供じみた人格の御曹司(チソンが得意とするキャラ)を元ヤンキーののヒロインが立ち直らせるというラブコメ。ヒロインはラブコメの女王と言われているチェ・ガンヒ。けっこう面白い。ちなみにチソンのライバル役がジェジュンで、ジェジュン命のうちの奥さんが観ていたので私も観たドラマである。
ファン・ジョンウムも好きな女優の一人。「ジャイアント」の主人公の妹役を演じていてそのういういしさがとても良かった。最近はすっかりラブコメの女優になってしまった。「秘密」(2013)でチソンと共演し評判になった。ちなみに「秘密」は復讐劇のジャンルにはいるが、私はこの手のドラマが苦手である。最初に主人公が理不尽にひどい目にあう。韓流はその理不尽な仕打ちでどん底に突き落とす主人公の不幸をこれでもかと徹底して描く。私はその主人公が可哀想で観ていられなくなるのだ。「秘密」は復讐の要素がなく、ヒロインを不幸に付き落とすだけの(最後にハッピーエンドではあるが)ドラマ。名作だが、ファン・ジョンウム演じるヒロインへの仕打ちがあまりに可哀想で観ていられなかった。
どん底に突き落とされた主人公が復讐するという韓流お得意のドラマはいまだに量産されているが、そういうわけで私はあまり観ない。主人公が悪い連中にひどい目にあう場面について行けないのだ。あとで復讐すると分かっていても、罠にかかったりいじめられたりする可哀想な場面がこれでもかと繰り返されることに、こちらの心がついて行けない。だから、この手の復讐ものはあらすじを最初に確認して、主人公の無事を確認してから(主人公が死んだらドラマが終わってしまうので無事に決まっているのだがそれでも確認せずにはいられない)観ることが多い。無論、そうするとドラマの楽しみが半減するが、私の心の安定の方が優先する。それにしても、人間の弱さや残酷さや悪をこれでもかと描く韓国の脚本家の描き方は、すごいの一語に尽きる。その背後にある韓国社会の精神性に興味が湧く。
韓流タイムスリップ系ドラマ ― 2020/07/24 18:41
私はSFが好きなので、韓流でもSF系はけっこう観ている。特にタイムスリップ系が韓流には多い。以下、私が観たタイムスリップ系のドラマを挙げておく。観たいと思って観ていない作品もまだあるが、こう並べてみるとけっこう観ているなと我ながら感心する。
「千年の愛」(2003)
「イニョン 王妃の男」(2012)
「信義(シンイ)」(2012)
「Dr.JIN 」(2012)
「屋根裏部屋のプリンス」(2012)
「ナイン」(2013)
「シグナル」(2016)
「麗(レイ)」(2016)
「明日、キミと」(2017)
「愛の迷宮」(2017)
「最高の一発~時空を超えて」(2017)
「ひと夏の奇跡」(2017)
「ライフ・オン・マーズ」(2018)
タイムスリップ系の古典的作品は「千年の愛」である。滅亡した百済の姫が現代にタイムスリップするという設定。お姫様役はソン・ユリ。わがままで気の強いお姫様役に適役の女優。ヒョンビンの代表作(と私は思ってる)「雪の女王」ではヒョンビンに愛される令嬢役(わがままだが不治の病にかかっている)で出ている。上から目線のお姫様言葉で現代を生き抜くその様子が面白く、当時の若者の間でその姫の言葉使いが流行ったという。
おすすめは、「屋根裏部屋のプリンス」「ナイン」「シグナル」。「屋根裏部屋のプリンス」は、朝鮮王朝の皇子が部下たちとともに現代にタイムスリップするという設定。皇子はあの(最近麻薬で捕まった。元東方神起)パク・ユチョン。ヒロインはハン・ジミンが演じている。ハン・ジミンも好きな女優(時々ハン・ヒョジュと区別がつかなくなる)だ。「チャングムの誓い」にも出ていたが、「復活」(2005)、「華麗なる遺産」(2006)「イ・サン」(2008)「ジキルとハイドに恋した私」(2015)などの作品のヒロインである。これらのドラマもおすすめである。
タイムスリップ系は、「千年の愛」「屋根裏部屋のプリンス」のように、王朝時代と現代とを行き来するというパターンと、現代の時代の中で短い年月(何十年)の間をタイムスリップするというパターンの二つに分けられる。王朝とのタイムトラベルは歴史上の出来事や人物を変えられないので、ストーリーが作りやすいが、現代の短いスパンでのタイムスリップは、タイムパラドックスが生じてしまうので、ストーリーの作り方が難しい。
「ナイン」「シグナル」は後者。現代のタイムトラベルものの物語は、タイムパラドックスをどうクリアするかに物語の成否がかかる。つまり、現在の主人公が過去に戻って何かをすると現在が変わってしまう。現在を変えるというのがタイムスリップの目的になる。だが、現在が変わるとすると、過去に戻ったその主人公はどうなってしまうのか(例えば、過去に戻るという行為そのものが成立するのか)という問題が発生する。これがパラドックスで、実際はこのパラドックスはクリア出来ないのだが、ごまかすことは出来る(新海誠の「君の名は、」もうまくごまかしていた)。
現代間のタイムスリップ系は、現在の出来事(事件)を過去に戻って解決すという筋立てになっていて、従って、「シグナル」「愛の迷宮」「ライフ・オン・マーズ」などの刑事もののドラマ設定が目立つ。その刑事もののなかでよく出来ているのが「シグナル」である。日本のテレビでリメイクされたドラマだ。過去と現在をつなぐ警官の無線機を通して現在の事件を解決していくという筋立てである。タイムスリップするのは情報だけというアイデアが斬新だった。
タイムスリップ系のドラマで私の一押しは「ナイン」である。タイムスリップ効果を一番上手に使って成功していると言っていいだろう。チベットで手に入れた線香を焚くとタイムスリップするという設定が独創的で、他のタイムスリップものとは一線を画している。パラドックスもうまくごまかしている。その線香は九本しかない。つまり九回タイムスリップできるわけで、過去に戻って変えた現在がうまくいかなければ、九回を上限として何度も過去へ戻れる。そうやって現在を更新していくという、なんとも上手い筋立てである。細かい筋立てはほとんど忘れてしまった(老化のせい)が、とにかく面白いということだけは記憶に鮮やかに残っている。
清々しい日もある一切皆苦と言うけれど
「千年の愛」(2003)
「イニョン 王妃の男」(2012)
「信義(シンイ)」(2012)
「Dr.JIN 」(2012)
「屋根裏部屋のプリンス」(2012)
「ナイン」(2013)
「シグナル」(2016)
「麗(レイ)」(2016)
「明日、キミと」(2017)
「愛の迷宮」(2017)
「最高の一発~時空を超えて」(2017)
「ひと夏の奇跡」(2017)
「ライフ・オン・マーズ」(2018)
タイムスリップ系の古典的作品は「千年の愛」である。滅亡した百済の姫が現代にタイムスリップするという設定。お姫様役はソン・ユリ。わがままで気の強いお姫様役に適役の女優。ヒョンビンの代表作(と私は思ってる)「雪の女王」ではヒョンビンに愛される令嬢役(わがままだが不治の病にかかっている)で出ている。上から目線のお姫様言葉で現代を生き抜くその様子が面白く、当時の若者の間でその姫の言葉使いが流行ったという。
おすすめは、「屋根裏部屋のプリンス」「ナイン」「シグナル」。「屋根裏部屋のプリンス」は、朝鮮王朝の皇子が部下たちとともに現代にタイムスリップするという設定。皇子はあの(最近麻薬で捕まった。元東方神起)パク・ユチョン。ヒロインはハン・ジミンが演じている。ハン・ジミンも好きな女優(時々ハン・ヒョジュと区別がつかなくなる)だ。「チャングムの誓い」にも出ていたが、「復活」(2005)、「華麗なる遺産」(2006)「イ・サン」(2008)「ジキルとハイドに恋した私」(2015)などの作品のヒロインである。これらのドラマもおすすめである。
タイムスリップ系は、「千年の愛」「屋根裏部屋のプリンス」のように、王朝時代と現代とを行き来するというパターンと、現代の時代の中で短い年月(何十年)の間をタイムスリップするというパターンの二つに分けられる。王朝とのタイムトラベルは歴史上の出来事や人物を変えられないので、ストーリーが作りやすいが、現代の短いスパンでのタイムスリップは、タイムパラドックスが生じてしまうので、ストーリーの作り方が難しい。
「ナイン」「シグナル」は後者。現代のタイムトラベルものの物語は、タイムパラドックスをどうクリアするかに物語の成否がかかる。つまり、現在の主人公が過去に戻って何かをすると現在が変わってしまう。現在を変えるというのがタイムスリップの目的になる。だが、現在が変わるとすると、過去に戻ったその主人公はどうなってしまうのか(例えば、過去に戻るという行為そのものが成立するのか)という問題が発生する。これがパラドックスで、実際はこのパラドックスはクリア出来ないのだが、ごまかすことは出来る(新海誠の「君の名は、」もうまくごまかしていた)。
現代間のタイムスリップ系は、現在の出来事(事件)を過去に戻って解決すという筋立てになっていて、従って、「シグナル」「愛の迷宮」「ライフ・オン・マーズ」などの刑事もののドラマ設定が目立つ。その刑事もののなかでよく出来ているのが「シグナル」である。日本のテレビでリメイクされたドラマだ。過去と現在をつなぐ警官の無線機を通して現在の事件を解決していくという筋立てである。タイムスリップするのは情報だけというアイデアが斬新だった。
タイムスリップ系のドラマで私の一押しは「ナイン」である。タイムスリップ効果を一番上手に使って成功していると言っていいだろう。チベットで手に入れた線香を焚くとタイムスリップするという設定が独創的で、他のタイムスリップものとは一線を画している。パラドックスもうまくごまかしている。その線香は九本しかない。つまり九回タイムスリップできるわけで、過去に戻って変えた現在がうまくいかなければ、九回を上限として何度も過去へ戻れる。そうやって現在を更新していくという、なんとも上手い筋立てである。細かい筋立てはほとんど忘れてしまった(老化のせい)が、とにかく面白いということだけは記憶に鮮やかに残っている。
清々しい日もある一切皆苦と言うけれど
韓流ファンタジー ― 2020/07/23 17:31
「トッケビ」(2016)はファンタジーだが、最近の韓流ドラマはファンタジー要素がかなり多くなってきた。これは、さすがに韓流ドラマの王道である、あり得ない設定のドラマ(定番である、出生の秘密・記憶喪失・ありえない偶然等が散りばめられたドラマ)のネタが尽きてきて、SFや ファンタジーに活路を求めているからだろう。韓流ドラマは韓国の重要な輸出産業だからネタが尽きれば韓国経済への打撃になる。作り手も必死だ。
そのようなファンタジー路線の傑作が「トッケビ」である。とにかく物語の構成がいい。高麗時代から死ねずにトッケビ(鬼)となって生きる将軍(コン・ユ)。彼に刺さった剣を抜いて死なせる運命の花嫁を探して生き永らえている。その花嫁として登場するのが女子高生(キム・ゴウン)で、二人は愛し合うが彼を死なせるのが少女の役割という悲劇の設定がよくできている。もう一つの、トッケビと同居する死神のロマンスもなかなかいい。トッケビと死神の会話が上質な漫才のようで面白い。幽霊の見える女子高生役のキム・ゴウンは最初はいかにも不幸を背負った陰気な雰囲気だが、次第に切ないほどにかわいらしくなる。この変化はキム・ゴウンでないと出せないだろう。
他にファンタジーとしておすすめの作品は「星から来たあなた」(2014)である。これはラブコメであるがこのドラマはストーリーよりも、自由奔放なトッップ女優を演じるチョン・ジヒョンの名演技に尽きる。チョン・ジヒョンは映画「猟奇的な彼女」で有名になった女優。「青い海の伝説」にも人魚の役を演じているが、面白さは「星から来たあなた」のほうが上だ。宇宙人(キム・スヒョン)とトップ女優のラブロマンスだが、けっこう笑えて時間を忘れさせてくれる。ちなみに「太陽を抱く月」でブレイクした宇宙人役のキム・スヒョンもいい。キム・スヒョンは「クリスマスに雪は降るの?」(2009)「ジャイアント」(2010)に少年の役で出てくるが、この子役のキム・スヒョンが切なくてとてもいい。韓流ドラマが女性の心をわしづかみにしているのは彼のようなイケメン俳優をたくさん揃えているからだろう。たいていのドラマに必ず脇役にイケメンの俳優を出してくる。これも女性向けの戦略か。ちなみにうちの奥さんもその戦略に惑わされている。「星から来たあなた」でも、トップ女優の高校生の弟役で出てくるアン・ジエヒョンもまたイケメンである。
もう一つ面白かったファンタジーは「W-君と僕の世界」(2016)である。漫画の世界と現実世界がシンクロして、両者の世界の男女が恋愛にまで発展するというファンタジー。韓流はこういう荒唐無稽な物語の作り方がほんとうに上手だ。ヒロインはハン・ヒョジュ。「トンイ」の女優である。私のお気に入りの女優の一人。ヒーローはイ・ジョンソク。ヒョンビンの「シークレットガーデン」(2010)では、イケメン脇役で出ていた。「ドクター異邦人」(2014)が代表作だろう。
他にもいろいろあるがとりあえず印象に残っている作品を挙げた。次回はタイムスリップものについて取り上げる。
只独座只只独座だ雨安吾
そのようなファンタジー路線の傑作が「トッケビ」である。とにかく物語の構成がいい。高麗時代から死ねずにトッケビ(鬼)となって生きる将軍(コン・ユ)。彼に刺さった剣を抜いて死なせる運命の花嫁を探して生き永らえている。その花嫁として登場するのが女子高生(キム・ゴウン)で、二人は愛し合うが彼を死なせるのが少女の役割という悲劇の設定がよくできている。もう一つの、トッケビと同居する死神のロマンスもなかなかいい。トッケビと死神の会話が上質な漫才のようで面白い。幽霊の見える女子高生役のキム・ゴウンは最初はいかにも不幸を背負った陰気な雰囲気だが、次第に切ないほどにかわいらしくなる。この変化はキム・ゴウンでないと出せないだろう。
他にファンタジーとしておすすめの作品は「星から来たあなた」(2014)である。これはラブコメであるがこのドラマはストーリーよりも、自由奔放なトッップ女優を演じるチョン・ジヒョンの名演技に尽きる。チョン・ジヒョンは映画「猟奇的な彼女」で有名になった女優。「青い海の伝説」にも人魚の役を演じているが、面白さは「星から来たあなた」のほうが上だ。宇宙人(キム・スヒョン)とトップ女優のラブロマンスだが、けっこう笑えて時間を忘れさせてくれる。ちなみに「太陽を抱く月」でブレイクした宇宙人役のキム・スヒョンもいい。キム・スヒョンは「クリスマスに雪は降るの?」(2009)「ジャイアント」(2010)に少年の役で出てくるが、この子役のキム・スヒョンが切なくてとてもいい。韓流ドラマが女性の心をわしづかみにしているのは彼のようなイケメン俳優をたくさん揃えているからだろう。たいていのドラマに必ず脇役にイケメンの俳優を出してくる。これも女性向けの戦略か。ちなみにうちの奥さんもその戦略に惑わされている。「星から来たあなた」でも、トップ女優の高校生の弟役で出てくるアン・ジエヒョンもまたイケメンである。
もう一つ面白かったファンタジーは「W-君と僕の世界」(2016)である。漫画の世界と現実世界がシンクロして、両者の世界の男女が恋愛にまで発展するというファンタジー。韓流はこういう荒唐無稽な物語の作り方がほんとうに上手だ。ヒロインはハン・ヒョジュ。「トンイ」の女優である。私のお気に入りの女優の一人。ヒーローはイ・ジョンソク。ヒョンビンの「シークレットガーデン」(2010)では、イケメン脇役で出ていた。「ドクター異邦人」(2014)が代表作だろう。
他にもいろいろあるがとりあえず印象に残っている作品を挙げた。次回はタイムスリップものについて取り上げる。
只独座只只独座だ雨安吾
韓流ドラマにはまる ― 2020/07/22 00:12
私が韓流ドラマを見るようになったのは、「チャングムの誓い」からで、15年くらい前だったと思う。最初は時代劇を中心に観ていたが、そのうち現代のドラマを見るようになった。今は、ほとんど現代のを中心に観ている。コロナで外に出られず、まして退職後やることもなく、韓流ドラマ鑑賞は私にとって一日を過ごすための重要な時間である。
TSUTAYAでDVDを借りてきて観ているが、TSUTAYAプレミアムの会員なので、パソコンで見放題の韓流ドラマも観ている。韓流ドラマを観なければ研究書がかなり読めるだろうにと時々反省するのだが、癌を抱えた身としては、なるべくストレスがなくあまり難しいことを考えずに日々を過ごそうとしているところなので、研究よりは韓流ドラマになってしまう。
けっこうな数のドラマを観てきたが、とりあえず、おすすめというか私が良いと思う作品をいくつか紹介しよう。時代劇は古いところで「チャングムの誓い」と「トンイ」だろう。これは私の個人的な趣向だが、お気に入りの作品は女性が主人公であるのがほとんどである。史劇ものも嫌いではないが、とにかく長編が多く疲れる。そのなかで面白かったのは、「大祚榮(テジョヨン)」と「朱蒙(チュモン)」である。チュモンは高句麗の始祖の物語、テジョヨンは高句麗滅亡後の渤海国建国の物語。とくにテジョヨンは面白かった。このドラマで、チョン・ボソクという俳優に注目した。興奮し、今にも血管の切れそうな顔で目をむくその表情が強烈で、見終わってもあの顔が目に浮かんでしまう。韓国を代表する俳優で、現代劇にも出ている。以上の四作が、韓国時代劇の代表作だろうと私は思っている。
現代劇は作品の数が多く、そんなに数を見ている訳ではないので、私の見た範囲で傑作をあげておく。古いところでは、なんと言っても「砂時計」と「ジャイアント」だろう。この二本は、韓流現代ドラマの古典といってもいいのではないか。両者とも、光州事件が出てくる。時代背景としては、一九七〇年代以降の韓国の高度成長期。学生が独裁政治と戦い、一方で豊かになろうと人々が欲望に身を任せていた時代だ。戦後の貧困から成り上がろうとするものたちの物語だが、「砂時計」がその時代を生きる人間をリアルに重厚に描いている。「ジャイアント」は成り上がり者の悪を描いたドラマ。その悪を演じるのがチョン・ボソク。とにかくチョン・ボソクのあの目をむく演技に圧倒される。
傑作はたくさんあってどれをあげていいか迷うところだが、最近の傑作はやはり「トッケビ」だろう。ヒロインのキム・ゴウンが良かった。いかにも韓国の女性という顔立ち、整形していない顔で美人でもないが、観ていて愛おしくなる。さすがの演技力である。
今話題の「愛の不時着」はまだ観ていないが、ソン・イェジンもヒョンビンも好きな俳優である。ヒョンビンの場合、「雪の女王」というドラマが一番彼の良さを引き出している。ヒョンビンが好きな人は是非観てほしい。ソン・イェジンもたくさん作品にでているが、私が好きなのは「個人の趣向」というラブコメである。私には女優の好みの傾向があって、美人過ぎない、コメディが出来る、たくましいでも純情、明るい、ヒロインが出ているとつい観てしまう。「個人の趣向」のソン・イェジンはまさにそういう感じである。
きりがないのでとりあえず、ここでやめておこう。続きはまたあとで。
TSUTAYAでDVDを借りてきて観ているが、TSUTAYAプレミアムの会員なので、パソコンで見放題の韓流ドラマも観ている。韓流ドラマを観なければ研究書がかなり読めるだろうにと時々反省するのだが、癌を抱えた身としては、なるべくストレスがなくあまり難しいことを考えずに日々を過ごそうとしているところなので、研究よりは韓流ドラマになってしまう。
けっこうな数のドラマを観てきたが、とりあえず、おすすめというか私が良いと思う作品をいくつか紹介しよう。時代劇は古いところで「チャングムの誓い」と「トンイ」だろう。これは私の個人的な趣向だが、お気に入りの作品は女性が主人公であるのがほとんどである。史劇ものも嫌いではないが、とにかく長編が多く疲れる。そのなかで面白かったのは、「大祚榮(テジョヨン)」と「朱蒙(チュモン)」である。チュモンは高句麗の始祖の物語、テジョヨンは高句麗滅亡後の渤海国建国の物語。とくにテジョヨンは面白かった。このドラマで、チョン・ボソクという俳優に注目した。興奮し、今にも血管の切れそうな顔で目をむくその表情が強烈で、見終わってもあの顔が目に浮かんでしまう。韓国を代表する俳優で、現代劇にも出ている。以上の四作が、韓国時代劇の代表作だろうと私は思っている。
現代劇は作品の数が多く、そんなに数を見ている訳ではないので、私の見た範囲で傑作をあげておく。古いところでは、なんと言っても「砂時計」と「ジャイアント」だろう。この二本は、韓流現代ドラマの古典といってもいいのではないか。両者とも、光州事件が出てくる。時代背景としては、一九七〇年代以降の韓国の高度成長期。学生が独裁政治と戦い、一方で豊かになろうと人々が欲望に身を任せていた時代だ。戦後の貧困から成り上がろうとするものたちの物語だが、「砂時計」がその時代を生きる人間をリアルに重厚に描いている。「ジャイアント」は成り上がり者の悪を描いたドラマ。その悪を演じるのがチョン・ボソク。とにかくチョン・ボソクのあの目をむく演技に圧倒される。
傑作はたくさんあってどれをあげていいか迷うところだが、最近の傑作はやはり「トッケビ」だろう。ヒロインのキム・ゴウンが良かった。いかにも韓国の女性という顔立ち、整形していない顔で美人でもないが、観ていて愛おしくなる。さすがの演技力である。
今話題の「愛の不時着」はまだ観ていないが、ソン・イェジンもヒョンビンも好きな俳優である。ヒョンビンの場合、「雪の女王」というドラマが一番彼の良さを引き出している。ヒョンビンが好きな人は是非観てほしい。ソン・イェジンもたくさん作品にでているが、私が好きなのは「個人の趣向」というラブコメである。私には女優の好みの傾向があって、美人過ぎない、コメディが出来る、たくましいでも純情、明るい、ヒロインが出ているとつい観てしまう。「個人の趣向」のソン・イェジンはまさにそういう感じである。
きりがないのでとりあえず、ここでやめておこう。続きはまたあとで。
私の仏教入門 ― 2020/07/20 12:40
以下の文章は歌人佐藤通雅が発行する『路上』(147号、2020年7月)に寄稿した文章です。テーマは自由と言われていたので、最近の関心事である仏教について書いてみました。「私の仏教入門」と題した文です。
私の仏教入門
最近、癌になったということもあって死を身近に考えるようになり、仏教関係の本を読み始めた。宗教は死の受容の処方でもあるから、仏教における死受容の処方を勉強しようと思ったのである。従って、今の私の最大の関心事は仏教である。原稿依頼があって何を書くべきか迷ったのだが、私にとっての今のリアルな問題を書くべきと考え、私の仏教入門について書かせてもらうことにした。
多くの仏教入門書などを渉猟し、行き着いたのは道元の「正法眼蔵」であった。難解なこの書を読み(現代語訳だが)、解説書などを通して、禅の一端に触れることは出来たように思う。
「正法眼蔵」の解説として、感銘を受けたのは曹洞宗の僧侶で哲学者といっていいのであろう南直哉の本である。南直哉の『「正法眼蔵」を読む』(講談社選書メチエ)、『超越と実存』(新潮社)はおすすめである。多くの仏教入門書を読んだが、私は南直哉の仏教の捉え方が一番腑に落ちた。まず彼の仏教の捉え方を紹介する。
私はそもそも物心のつきはじめたところから、自分がどうして自分以外の人間ではな く、なぜ自分であり続けなければならないのか、不思議で仕方がなかった。それに理由 はない。そうさせられているにすぎず、そうせざるをえないにすぎない……仏教だけが、 私に真っ向からそう断言したのである。「無常」「無我」、そして、「縁起」という教え が私にまず開いて見せたのは、自己が存在からではなく不在から始まるという、驚くべ き光景だった。(『「正法眼蔵」を読む』)
自己の存在が困難で苦しみであるということは、ひょっとすると他の宗教や思想でも 言うかもしれない。しかし、仏教の教説の異常さは、「自己という苦しみ」を解決する のに、「苦しみ」を解消するのではなく、「自己」を消去しにかかることである。これ ほど徹底的かつ残酷な解決方法はない。(同)
南直哉の言説のすごいところは、宗教者にもかかわらず宗教が本来持つ超越的な言説を拒否するところであるが、それがよく現れている言い方である。多くの宗教は死への不安を超越的な世界、救済者としての神しくは天国という物語を作ることで解消しようとするが、南は、仏教は不安を感じる自己を消去することで解決しようとする宗教なのだと言う。その自己の消去とは、『正法眼蔵』「現成公案」に言う「仏道をならうというは、自己をならう也。自己をならうというは、自己をわするるなり」ということになろう。
南はさらに仏教の「自己」とは「自己を消去する自己」だと言う。そしてそれはこの世では不可能だと説く。何故なら自己を消そうとする自己は消せないからだ。その絶対矛盾、不可能さを受け入れつつ消去する行為を続けることが修行であり、宗教者であることなのだと言う。それは、道元の言う「只管打座」、すなわちひたすら坐禅を実践することである。彼は次のように述べる。
存在と不在、言語と言語以前、自己と非自己、その間を往還する運動としての坐禅は、 現世において「自己を消去する自己」の主動力となる。「では、どうする?」は止まな い問い、止んではいけない問いなのだ。その問いが止んだとき、仏教はそこで終わる。 (同)
私が南直哉の説く仏教に惹かれるのは、あまり宗教らしくないからだ。彼の説く仏教は宗教ではなく哲学に近い。哲学的でないのは、「自己を消去する自己」を問い続けることは、現世を超脱しようとする意思に貫かれた行為そのものであって、その行為の目指すものを真理のような概念として設定しないからだ。ただひたすら「自己をわするる」ことを実践するだけである。そこには自己をきっと消去できるにちがいないという「信」があるだろう。「信」とは賭けであって、宝くじが当たるに違いないと思って買う行為とそれほど違わない。実は宗教の本質とはその賭けにあるのだと思う。哲学が論理の道筋を明確にして超越的な真理に到ろうとするのだとすれば、宗教は「信」すなわち賭けによって真理もしくは神に到ろうとする。
ただ、南の説く「信」はその賭けのリスクをほとんどゼロにしている。つまり、宝くじを買うのに、当たっても当たらなくてもどうでもいい、大事なのは買うという行為を続けることで、そこに「宝」を得ることの本当の意味があるのだ、というように説くのである。賭けるが当たり外れなどどうでもいい賭け続けるだけだ、というこの姿勢は、宗教と言えるかどうか微妙なところだ。宗教入門の最大のハードルは信じるか信じないかという問いを突きつけられたらどうしよう、と思うことにある。だから、私のような理屈で生きる者には近づきにくいのだが、南の説く仏教は、いきなり「信」を問われることがないし「信」がなくてもいいような気がするので入って行きやすいのだ。
念仏を唱えればあの世で浄土に行けるとする浄土宗のような宗教は、「信」のリスク、賭けに外れるリスクを前提にしながら、宝くじに当たることを確信していくような宗教であろう。あの世がどういうものかあるのかないのか誰も知らない。が、賭けであることを承知であの世への極楽往生を「信」じきって、自己を賭けきることが宗教の醍醐味なのだと思う。私には出来ないが、その醍醐味は理解出来る。
「法華経」という経典がある。仏(如来)が悟りを求める衆生を導いていく豪華絢爛な物語を繰り返し描く大乗仏教の代表的経典である。ところが、南は「法華経」をあれはだめだと言う。南がこの経典を受け入れない理由はよく分かる。南は他力によって超越世界に安易に到るような物語を認めないからだ。
私は、南直哉の説く宗教とも哲学とも言える仏教の教えに共感し、学ぼうとしているのだが、実は「法華経」は好きである。日本の仏教が「法華経」を重んじてきた理由も分かる気がする。道元も「法華経」の影響を受けていると言われている。「法華経」は徹底して「信」の成就を描く物語なのだ。神話であり、壮大な叙事の文学といってもいい。ファンタジーとして読めば「法華経」はとても面白い。日本の仏教者も、「信」のその先にある悟りへの行程を夢見させてくれるファンタジーとして読んでいたのではないか。
立松和平が「法華経」の現代語訳を出している(『はじめて読む法華経28品』(佼成出版)。その解説で「無常はたえず失われていくのではなく、苦も時の流れの中で消滅していくのであって、生きる喜びの中に解放されるはずなのだ。こうして虚無を振り払い、自分も他者も救う菩薩の道へと導こうとして道を示すのが、ドラマチックな物語としての法華経なのである」と述べている。仏教はこの世を無常であり苦であると説くつらいイメージを持つ宗教だが、「法華経」は「生きる喜び」や「他者も救う菩薩への道」を示してくれるという立松の解説によって、何故この経典がひろく読まれてきたかよくわかった。「法華経」は「信」の世界を苦ではなく喜びに満ちあふれた世界として描いたからなのだ。宮沢賢治も「法華経」を信奉したが、彼も「法華経」の影響を受け「生きる喜び」を求め「他者を救う菩薩への道」を実践した仏教徒であった。
さて、仏教の基本的な教えとは、生老病死に悩むのは、悩む「私」があると思うからで「私」がないならば悩むこともない。だから「私」から脱却せよ、ということになる。道元の言う「自己をわするる」ということである。自分の死がそう遠いことではないと思っている私は、南直哉の教えなどを通して、いかにこの「私」を忘れるかだ、と結論を得た。とすれば、「私」を忘れる努力をすればいい。その努力として禅宗は坐禅をすすめるので、私も毎朝坐禅を短い時間だが実践している。が、なかなか私を忘れる境地を得るのは難しい。哲学者永井均は「私」とは超自然的存在である独在的存在だとする。この世界そのものを最初にひらく存在であって、他者との関係によって存在する様な存在ではないという。この世界そのものが「私」として存在しているということだ(『存在と時間哲学探究Ⅰ』文藝春秋)。つまり理論的には「私」は消去できないのだ。それでも自己の消去の実践を続けるのが禅ということになるが、私にはなかなかハードルが高い。
とにかく、自分に向き合わず自分を忘れる努力だけはしよう、というのが、仏教を学んで得た心の落ち着け方である。実は私にとって理想とする人がいる。樹木希林である。樹木希林は癌で亡くなったが、亡くなるまでの生き方は見事だった。癌を受け入れ淡々と生きていた。自ら仏教徒と語っている。自己を忘れるところまでいかなくても、死に直面してあのように穏やかに生きられたらと思うのである。
指折りて余命数える梅雨晴間
私の仏教入門
最近、癌になったということもあって死を身近に考えるようになり、仏教関係の本を読み始めた。宗教は死の受容の処方でもあるから、仏教における死受容の処方を勉強しようと思ったのである。従って、今の私の最大の関心事は仏教である。原稿依頼があって何を書くべきか迷ったのだが、私にとっての今のリアルな問題を書くべきと考え、私の仏教入門について書かせてもらうことにした。
多くの仏教入門書などを渉猟し、行き着いたのは道元の「正法眼蔵」であった。難解なこの書を読み(現代語訳だが)、解説書などを通して、禅の一端に触れることは出来たように思う。
「正法眼蔵」の解説として、感銘を受けたのは曹洞宗の僧侶で哲学者といっていいのであろう南直哉の本である。南直哉の『「正法眼蔵」を読む』(講談社選書メチエ)、『超越と実存』(新潮社)はおすすめである。多くの仏教入門書を読んだが、私は南直哉の仏教の捉え方が一番腑に落ちた。まず彼の仏教の捉え方を紹介する。
私はそもそも物心のつきはじめたところから、自分がどうして自分以外の人間ではな く、なぜ自分であり続けなければならないのか、不思議で仕方がなかった。それに理由 はない。そうさせられているにすぎず、そうせざるをえないにすぎない……仏教だけが、 私に真っ向からそう断言したのである。「無常」「無我」、そして、「縁起」という教え が私にまず開いて見せたのは、自己が存在からではなく不在から始まるという、驚くべ き光景だった。(『「正法眼蔵」を読む』)
自己の存在が困難で苦しみであるということは、ひょっとすると他の宗教や思想でも 言うかもしれない。しかし、仏教の教説の異常さは、「自己という苦しみ」を解決する のに、「苦しみ」を解消するのではなく、「自己」を消去しにかかることである。これ ほど徹底的かつ残酷な解決方法はない。(同)
南直哉の言説のすごいところは、宗教者にもかかわらず宗教が本来持つ超越的な言説を拒否するところであるが、それがよく現れている言い方である。多くの宗教は死への不安を超越的な世界、救済者としての神しくは天国という物語を作ることで解消しようとするが、南は、仏教は不安を感じる自己を消去することで解決しようとする宗教なのだと言う。その自己の消去とは、『正法眼蔵』「現成公案」に言う「仏道をならうというは、自己をならう也。自己をならうというは、自己をわするるなり」ということになろう。
南はさらに仏教の「自己」とは「自己を消去する自己」だと言う。そしてそれはこの世では不可能だと説く。何故なら自己を消そうとする自己は消せないからだ。その絶対矛盾、不可能さを受け入れつつ消去する行為を続けることが修行であり、宗教者であることなのだと言う。それは、道元の言う「只管打座」、すなわちひたすら坐禅を実践することである。彼は次のように述べる。
存在と不在、言語と言語以前、自己と非自己、その間を往還する運動としての坐禅は、 現世において「自己を消去する自己」の主動力となる。「では、どうする?」は止まな い問い、止んではいけない問いなのだ。その問いが止んだとき、仏教はそこで終わる。 (同)
私が南直哉の説く仏教に惹かれるのは、あまり宗教らしくないからだ。彼の説く仏教は宗教ではなく哲学に近い。哲学的でないのは、「自己を消去する自己」を問い続けることは、現世を超脱しようとする意思に貫かれた行為そのものであって、その行為の目指すものを真理のような概念として設定しないからだ。ただひたすら「自己をわするる」ことを実践するだけである。そこには自己をきっと消去できるにちがいないという「信」があるだろう。「信」とは賭けであって、宝くじが当たるに違いないと思って買う行為とそれほど違わない。実は宗教の本質とはその賭けにあるのだと思う。哲学が論理の道筋を明確にして超越的な真理に到ろうとするのだとすれば、宗教は「信」すなわち賭けによって真理もしくは神に到ろうとする。
ただ、南の説く「信」はその賭けのリスクをほとんどゼロにしている。つまり、宝くじを買うのに、当たっても当たらなくてもどうでもいい、大事なのは買うという行為を続けることで、そこに「宝」を得ることの本当の意味があるのだ、というように説くのである。賭けるが当たり外れなどどうでもいい賭け続けるだけだ、というこの姿勢は、宗教と言えるかどうか微妙なところだ。宗教入門の最大のハードルは信じるか信じないかという問いを突きつけられたらどうしよう、と思うことにある。だから、私のような理屈で生きる者には近づきにくいのだが、南の説く仏教は、いきなり「信」を問われることがないし「信」がなくてもいいような気がするので入って行きやすいのだ。
念仏を唱えればあの世で浄土に行けるとする浄土宗のような宗教は、「信」のリスク、賭けに外れるリスクを前提にしながら、宝くじに当たることを確信していくような宗教であろう。あの世がどういうものかあるのかないのか誰も知らない。が、賭けであることを承知であの世への極楽往生を「信」じきって、自己を賭けきることが宗教の醍醐味なのだと思う。私には出来ないが、その醍醐味は理解出来る。
「法華経」という経典がある。仏(如来)が悟りを求める衆生を導いていく豪華絢爛な物語を繰り返し描く大乗仏教の代表的経典である。ところが、南は「法華経」をあれはだめだと言う。南がこの経典を受け入れない理由はよく分かる。南は他力によって超越世界に安易に到るような物語を認めないからだ。
私は、南直哉の説く宗教とも哲学とも言える仏教の教えに共感し、学ぼうとしているのだが、実は「法華経」は好きである。日本の仏教が「法華経」を重んじてきた理由も分かる気がする。道元も「法華経」の影響を受けていると言われている。「法華経」は徹底して「信」の成就を描く物語なのだ。神話であり、壮大な叙事の文学といってもいい。ファンタジーとして読めば「法華経」はとても面白い。日本の仏教者も、「信」のその先にある悟りへの行程を夢見させてくれるファンタジーとして読んでいたのではないか。
立松和平が「法華経」の現代語訳を出している(『はじめて読む法華経28品』(佼成出版)。その解説で「無常はたえず失われていくのではなく、苦も時の流れの中で消滅していくのであって、生きる喜びの中に解放されるはずなのだ。こうして虚無を振り払い、自分も他者も救う菩薩の道へと導こうとして道を示すのが、ドラマチックな物語としての法華経なのである」と述べている。仏教はこの世を無常であり苦であると説くつらいイメージを持つ宗教だが、「法華経」は「生きる喜び」や「他者も救う菩薩への道」を示してくれるという立松の解説によって、何故この経典がひろく読まれてきたかよくわかった。「法華経」は「信」の世界を苦ではなく喜びに満ちあふれた世界として描いたからなのだ。宮沢賢治も「法華経」を信奉したが、彼も「法華経」の影響を受け「生きる喜び」を求め「他者を救う菩薩への道」を実践した仏教徒であった。
さて、仏教の基本的な教えとは、生老病死に悩むのは、悩む「私」があると思うからで「私」がないならば悩むこともない。だから「私」から脱却せよ、ということになる。道元の言う「自己をわするる」ということである。自分の死がそう遠いことではないと思っている私は、南直哉の教えなどを通して、いかにこの「私」を忘れるかだ、と結論を得た。とすれば、「私」を忘れる努力をすればいい。その努力として禅宗は坐禅をすすめるので、私も毎朝坐禅を短い時間だが実践している。が、なかなか私を忘れる境地を得るのは難しい。哲学者永井均は「私」とは超自然的存在である独在的存在だとする。この世界そのものを最初にひらく存在であって、他者との関係によって存在する様な存在ではないという。この世界そのものが「私」として存在しているということだ(『存在と時間哲学探究Ⅰ』文藝春秋)。つまり理論的には「私」は消去できないのだ。それでも自己の消去の実践を続けるのが禅ということになるが、私にはなかなかハードルが高い。
とにかく、自分に向き合わず自分を忘れる努力だけはしよう、というのが、仏教を学んで得た心の落ち着け方である。実は私にとって理想とする人がいる。樹木希林である。樹木希林は癌で亡くなったが、亡くなるまでの生き方は見事だった。癌を受け入れ淡々と生きていた。自ら仏教徒と語っている。自己を忘れるところまでいかなくても、死に直面してあのように穏やかに生きられたらと思うのである。
指折りて余命数える梅雨晴間
ブログ再開 ― 2020/07/19 16:15
お久しぶりです。3年近くブログを書くのを止めておりましたが、再開することにしました。とりあえず近況から。
まず病気のことから。2年前に前立腺癌の手術をしました。手術後 PSA値が下がらず転移があると言われ、放射線治療を行いましたが効果は見られず、現在ホルモン剤による治療を開始したところです。手術前、医者から、私の場合(けっこう悪性のため)再発は10年後でそれから5年かな、と言われました。つまり余命は15年くらいだろうという宣告でしたが、再発までの10年が消えてしまったという次第です。従って、私の余命はあと5年ということになりますが、手術後2年経ってますので、あと3年ということになります。ただ、この年数は医者の経験値によるもので、患者によって個人差があり確実ではないようですが、一応の指標にはなります。
さすがに、残された時間をどう過ごすか、いろいろと考えましたが、いまだに答えは見つからず、ただ、なんとなく過ごしています。
この4月に定年退職をしました。コロナ禍と重なり、家に閉じこもる状態がずっと続いていますが、コロナ禍がなくても家に閉じこもっていたろうなとは思います。仕事がないと外にでる用事もなく、自分には今何もやることがないというのが、あらためてわかったことでした。私は、研究者なので、研究テーマを見つけて、本を読み、文章を書くということはやらなければならないのですが、元気でいられるのはあと数年かなと考えると、とりあえず、やりかけていたことややり残したことを仕上げて発表するだけでせいいっぱいというところです。
今取りかかっている仕事は、今まで書きためていた柳田国男関係の論や近代以降の作家論をまとめることです。出版社もきまったので今年中には出版出来る予定です。それ以外これといった仕事はなく、毎日、韓流ドラマを見たり、仏教関係の本を読んで過ごしています。といっても、あまり読書には時間を費やしていなくて、一番時間を使っているのは韓流ドラマです。
仏教については癌にかかってから、目覚めた知的好奇心と言っていいでしょう。さすがに自分の死の受容について考えることをせまられ、仏教を勉強しようと思い立ちました。宗教に目覚めたと言うより、死の受容の仕方の勉強といったほうがいいかもしれません。まずは書店に並んでいる仏教関係の本を読み漁りました。とりあえず、仏教はこんなものかという理解は出来ました。むろんおおざっぱな理解で、信者になったわけではないので、いいかげんなところはありますが、死を受容するときの心の落ち着け方は学んだ気はします。ただ、学んだだけであって、本当に実践できるかどうかはわかりませんが。
以上が最近の私の近況です。ブログを再開した理由は、ただだらだらと一日を過ごすのに耐えがたくなってきたからで、文章を書くという作業でもしないと、あっという間に貴重な残された時間が無くなってしまうのではと思ったからです。そういうことで、今考えていることなど、あるいは韓流ドラマのことなど書き綴っていきたいと思います。
生も死もかき消すように蝉の声
まず病気のことから。2年前に前立腺癌の手術をしました。手術後 PSA値が下がらず転移があると言われ、放射線治療を行いましたが効果は見られず、現在ホルモン剤による治療を開始したところです。手術前、医者から、私の場合(けっこう悪性のため)再発は10年後でそれから5年かな、と言われました。つまり余命は15年くらいだろうという宣告でしたが、再発までの10年が消えてしまったという次第です。従って、私の余命はあと5年ということになりますが、手術後2年経ってますので、あと3年ということになります。ただ、この年数は医者の経験値によるもので、患者によって個人差があり確実ではないようですが、一応の指標にはなります。
さすがに、残された時間をどう過ごすか、いろいろと考えましたが、いまだに答えは見つからず、ただ、なんとなく過ごしています。
この4月に定年退職をしました。コロナ禍と重なり、家に閉じこもる状態がずっと続いていますが、コロナ禍がなくても家に閉じこもっていたろうなとは思います。仕事がないと外にでる用事もなく、自分には今何もやることがないというのが、あらためてわかったことでした。私は、研究者なので、研究テーマを見つけて、本を読み、文章を書くということはやらなければならないのですが、元気でいられるのはあと数年かなと考えると、とりあえず、やりかけていたことややり残したことを仕上げて発表するだけでせいいっぱいというところです。
今取りかかっている仕事は、今まで書きためていた柳田国男関係の論や近代以降の作家論をまとめることです。出版社もきまったので今年中には出版出来る予定です。それ以外これといった仕事はなく、毎日、韓流ドラマを見たり、仏教関係の本を読んで過ごしています。といっても、あまり読書には時間を費やしていなくて、一番時間を使っているのは韓流ドラマです。
仏教については癌にかかってから、目覚めた知的好奇心と言っていいでしょう。さすがに自分の死の受容について考えることをせまられ、仏教を勉強しようと思い立ちました。宗教に目覚めたと言うより、死の受容の仕方の勉強といったほうがいいかもしれません。まずは書店に並んでいる仏教関係の本を読み漁りました。とりあえず、仏教はこんなものかという理解は出来ました。むろんおおざっぱな理解で、信者になったわけではないので、いいかげんなところはありますが、死を受容するときの心の落ち着け方は学んだ気はします。ただ、学んだだけであって、本当に実践できるかどうかはわかりませんが。
以上が最近の私の近況です。ブログを再開した理由は、ただだらだらと一日を過ごすのに耐えがたくなってきたからで、文章を書くという作業でもしないと、あっという間に貴重な残された時間が無くなってしまうのではと思ったからです。そういうことで、今考えていることなど、あるいは韓流ドラマのことなど書き綴っていきたいと思います。
生も死もかき消すように蝉の声
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