文学が呼ばれる時2011/12/08 00:36

 ブログを書かないでいて、心配している人もいるかと思う。忙しいというわけではなくて、一段落ついて、少し身体を休ませようと思って睡眠時間を意識的に増やしたら、ブログを書く時間がなくなってしまった、というところが本当のところだ。

 書くことはないわけではないが、なかなか思った通りにいかないということも多いので、書く気にならないといこともある。学科の改組も雲行きが怪しくなってきて、実現するかどうか先が見えない。

 すでに忘年会シーズンだが、12月は学会にも顔をださず、なるべく家にいるようにしているのだが、先週の土曜は昔からの仲間の忘年会でこちらには顔を出した。それでも学会の忘年会が後一つある。そういえばマンションの忘年会もあった。二回あるということだ。

 11月はほとんど休みがなかったので、さすがに身体が悲鳴をあげた。風邪を引くと後が大変なので、とにかくこの師走は自重である。

 「文学のリアリティ」というテーマの学会大会も仕事で行かずじまいだったが、なかなか面白かったようだ。ただ、私は企画の時にこのテーマはまだ早いのではないかと意見を言ったことがある。大震災がらみのテーマだが、まだ行方不明者を遺族が探しているようなリアルな状況では難しいテーマではないかと言った。震災について語ることはいいとしても、もう少し時期を置いてからの方がいいのではという発言だった。

 むろん、ここでの文学は私たち研究者にとっての「文学」のこと。「文学」だっていろいろある。例えば、震災の後すぐ、歌人たちは歌を詠んだ。歌は対象に訴えかける力を持つし即興性もあるから、こういう時、短詩は現実と同様にリアリティを帯びることが出来る。が、小説となるとこうはいかない。まして評論や研究となるとそれなりの時間が必要ではないか。今、評論や思想が元気なのは、原発問題である。原発事故は、国家がからんでいるので、国家の犯罪を指摘出来るし、国民の価値観の転換そのものを訴えやすい。

 南三陸の馬場中山地区の人たちが自力で復興を遂げていくドキュメンタリーのことを以前に書いたが、あれを見て思ったことがある。馬場中山地区の人たちは、インターネットで呼びかけて、いろんな人たちのボランティア支援を受けた。土建屋はダンプを持って来て砂利を敷いた。大工の人たちは仮設住宅を作りに来た。とにかく、それぞれの職業の人たちが自分たちの職業技術をいかして助けに来てくれた。自分の職業をいかせない人たちもそれなりの労力を提供するために来た。さて、文学はこういうときに呼ばれるのだろうか、ということである。役に立たないなんて思わない。必ず必要とされる。それはどういう時なのか、という問いである。

 たぶん、人々が自分たちの体験を語り出さざるを得ないとき、あるいはそれを聴きたくなるときだ。そういうときに、つまつらない語り方やつまらない話は誰だって聞きたくない。迫真力のある文体で語る人に感動するだろうし、自分たちだってそういう文体を得たいと思うだろう。わかりやすく言えば文学が呼ばれる時とはそういう時だ。

 そして、それはまだ早すぎる、というのが私の考えだ。文学とは再現なのだ。家族の死を悲しんで涙を流しているときのその悲しみは文学によるものでなはない。だが、何年かたってその悲しみを言語で再現されて涙を流すとき、文学は成立しかかっている。

 大震災という状況の中で文学に今出来ることは、たぶん語る準備を黙々とすることだ。そして、語り出さざるを得ない時を待つことだ。むろん文学にだっていろいろある。もう語り出しているあるいは歌い出している文学もあろう。が、私たちの業界の文学研究は、方法化したりメタ化して語ることを職業の技とするから、軽々しく何でも語ってしまいがちになり、一方、それへの自省から逆に語ることに過剰に批判的になったりする。語ろうとすることはいいことだ。だが、今は、土建屋や大工に負ける。勝つには、即興で歌うしかない。歌で鎮魂し、あるいは慰問のように元気づけるのもいいではないか。

 私は歌が歌えないので、黙々と作業をするだけだ。ただ、支援は行っていきたい。友人のブログで、震災で被害にあった工場や店の再建に応援ファンドを募って資金を集めるというシステムが紹介されていて、これはなかなかよいアイデアと思い私も早速そのファンドにお金を送った、微々たるものだが、少しでも役に立てればありがたい。

就活本2011/12/14 00:55

 来年度また学科長をやることになった。どうも私の学科には人材がいないというか、人材といっても、マネージメントに長けた人材という意味だが、私はあると見られていて、またやらされるというわけだ。また忙しくなる。これ以上忙しくなるということはどういうこになるのか、よくわからないが、まあ何とかなるだろう。

 ここ数年短大に逆風が吹いている。経済的な事情から短大に志望する学生は少なからずいるのだが、就職のことを考えてだろうが、4大志向がかなり強まっているのは確かだ。今、短大は、何処でもそうだが、撤退するか(むろんそういった条件があればだが)、縮小するかの選択を迫られている。残念ながら現状維持というのは難しい。

 今日1年生が、ある大手企業の説明会の申し込み受付にインターネットで申し込んだらいっぱいで申し込めなかったのだという。話を聞くと、朝の6時が受付で、6時5分に申し込んだらすでに終わっていたのだという。みんな5時台からスタンバッていて、6時になると一斉に申し込むらしい。

 そんな大手に申し込むからだよ、といったが、結局、企業選びが、消費者目線による有名企業になってしまう。小さくて有名でなくても優良企業はたくさんあり、短大生が入れる企業だってある。まずはそういう企業を探すことから始めるしかないのだが、どうしても、世間に名の知られている有名企業に憧れる。みんなが殺到するから、結局、短大生はまずは入れない。

 短大の生き残りは、就職率にかかっている。この就職率を上げるにはどうしたらいいか、が、たぶん、私のマネージメントということになるだろう。これがなかなか難しい。就職支援は、普通、教員ではなく就職進路課という部署の職員がやっている。どこの大学でもそうなのだが、教員の仕事ではないのだ。ところが、最近は教員もやらざるを得なくなっているのだ。就職活動のためのスキルアップの講座や、将来設計を考える講座(キャリアデザインという)を正課の中に取り入れざるを得ないのが実状なのだ。が、そんなことを教員が教えられるものではない。ほとんどの教員は、まともな就活なんかしたことがないのだ。というより就活したくないから教員になった、という者ばかりである。そんな教員が就活についてアドバイスするなどということは無理なのだ。

 ところが、就活本を書いた売れっ子の社会学者がいる。宮台真司である。私も気になって『宮台教授の就活原論』という本を買って読んだ。読んだ感想。面白かった。ただ、これは使えねえな、というのが結論。難しいというより、偏差値の高いかなり出来る奴向けの就活本である。彼は首都大学東京の教授だから、ターゲットは自分ところの学生なのだろう。ただ、それでも、教えられるところは多々あった。

 この本の内容は、宮台の最近の主張そのものが全面展開された上での就活の心構えということになる。その意味でけっこう難しい本でもある。彼は、まず、今の日本の国家や企業ははでたらめだから簡単に信用してはいけないという。だから、国家や企業から押しつけられた、「自己実現」などという就活のための課題などまともに考える必要は無い。適当にあしらっておくべきという。将来の目標とか聞かれたら平気で嘘をつけるくらいでないといけない。大事なのは、どんな企業にでもどんな仕事でにも対応でき、かつそこで生きて行ける対応力であるという。この主張には大いに賛成。

 大事なのは、競争社会を生き抜く力ではなく、むしろ、今は、帰るべきホームベースの確保であるという。社会があてにならない現在、自力で帰属する場所を確保しておかないと、結局、働くこと自体がたちゆかなくなる。ホームベースとは家族だけとは限らない。どういう形でもいいいから、安定した感情を保てる場所であり、それは個であることを意識させない場所である。そういったコミュニティ作りを日本の社会はいつのまにか衰退させていった。だから、これから新しくコミュニティを自力で作っていくべきなのだという。

 結論としてこのでたらめの社会を生き延びるためには、「ひとかどの人物」になるしかないという。そのためには「スゴイ奴」と出会え、という。自分がいかにすごい奴と出会ってきて、「ひとかどの人物」になったか(とまであからさまに言ってないがそう読める)を、たくさん書いている。

 才に長けている自分の自慢話がやや鼻につく本だが、頷けるところは多い。だが、これを短大生にそのまま話すのは無理である。偏差値の高いエリート学生にさえしたたかに自力で生きろと説かざるを得ないのだとしたら、短大生にはなんて言えばいいのだ。

 でも、短大生は卒業してみんなしたたかに生きている。そう思っている。宮台の言っていることは、もうすでに短大生は実践していることなのだ。というより、実践せざるを得ないということだ。とりあえず最初は有名企業を受けるが、だんだんと身の丈に合った就職先を探して何とか落ち着いていく。むろん、その身の丈に合った就職先の確保すら今は厳しいという現状はあるが。

若宮おん祭りを見に行く2011/12/18 13:39

 金曜日に大学院の学生と一緒に奈良へ向かう。春日若宮おん祭りを見るためである。夕方6時頃に奈良着。近鉄奈良駅近くの中華食堂で夕飯を食べ、ホテルへ。11時にホテルを出て、春日大社へ。御旅所は灯りはついているが、中に入れない。暗い参道を若宮へと向かう。若宮の前ではかなりの人が集まっていって、参道の両側にびっしりと並んでいる。われわれもその中に紛れ込んだ。

 寒かった。今年の冬一番の寒さだという。午前零時に近くなると、係の人が撮影禁止、灯りを決してつけないでください、と触れて回る。下弦の月がちょうど出始めていて、ライトを付けたように参拝客の一部を照らしている。サーチライトを点けているのか見まごうほどである。

 やがて大きな二本の松明が地面に引きずられてやってくる。神の通り道を示すのと祓いの意味がある。そのあと、若宮が近づいてくる。若宮は榊で見えないように隠され、若宮を運ぶ一団はみなオーという声をだしながら通り過ぎていく。乱声というもので、まさに声で神のあらわれを現すのである。月明かりでやや神秘性が薄れるているが、それでも、この神の登場の仕方は、日本の祭りでも最も神秘的に演出されているものではないかと思う。

 真っ暗な中を乱声の集団がとおりすぎ、参拝客がその後を就いていく。若宮から御旅所までは1キロほどである。若宮を迎えた御旅所では暁祭りが行われる。献饌の儀のあと巫女舞がありそのあと撤饌で終了という短いもので、2時には終わる。それを見て宿に戻る。

 次の日、朝9時半に奈良の国立博物館で、春日若宮おん祭りの特別展示を見る。見終わって11時の近鉄で私だけ帰る。

 実は、奥さんはたまたま台湾旅行に行っていて、私はチビと留守番だったのだが、どうしても若宮おん祭りが見たくて、チビをどうしようということになった。それで、チビを仙川のいつも診てもらい動物病院に預けることにした。金曜の午前中に預けて、土曜の夕方に引き取りに行くことにした。ついでにワクチンの注射も頼んだ。病院に連れて行くとチビはがたがた震えだした。いつも注射を打たれるところだから、いい思い出はない。また手術以外で病院に預けるのは初めてである。心配ではあったが、仕方がない。ということもあって、私は土曜のおん祭りの遷幸の儀だけ見て帰ることにしたのである。

 17日は、昼からお渡り式があり、午後からは芸能が始まる。夜は還幸の儀だが、そこまでは見られない。大学院生は17日にやはり帰るが、ぎりぎりまで見ていくという。

 4時頃に病院にチビを引き取りに行った。さぞや心細くしていて飛びついてくるだろうと思ったが、こちらが期待するほどではではなかった。多少喜ぶそぶりは見せたが。

 その後、6時からマンションの忘年会。こちらもつきあいで出なくてはいけない。マンション住人に版画家の女性がいて、たままた今日のおん祭りの話をしたら、おん祭りにけっこう詳しい人で驚いた。ただ、マンションから二家族が引っ越すことが判明。ここは長屋みたいなマンションだから、やはり転居する人がいると寂しくなる。特に、最も古い住人が越すというので、みんな驚いた。まとめ役みたいな人だから今後どうなるのか。新しい住人がこのマンションのシステムを理解出来るかどうかそれも心配である。

 勤務先では将来構想の話でいろいろともめている。どうなることやらである。今年もいろいろ悩む事が多く、せわしない一年であったが、時間だけは過ぎていく。時に、後戻りのない進むだけの容赦ない時間は、救いにもなる。そんな気がする一年でもあった。

                        着重ねて若宮様を迎えけり

餅つき2011/12/29 00:15

 23日に北川辺の友人宅で恒例の餅つきに参加。友人は塾を経営していて、この時期塾のイベントとして餅つきをやるのである。それに私たち夫婦や他の友人たちも参加するのが恒例になっている。この日は風が冷たく寒かった。ついた餅がすぐに冷えてしまう。

 私も餅をついたが、日頃の鍛錬のせいか?餅つきがうまいとほめられた。体力はないが、毎日腕立て伏せをやっているので筋力は幾分ある。要は要領で、餅つきは薪割と同じ。山小屋で薪割をしているのがこういう時に役立つ。薪割は斧に力を入れすぎるとうまく割れないしすぐに疲れてしまう。斧の重さを利用して振り下ろし、薪に当たる寸前で力を入れる。そうするとうまく割れるし疲れない。それから、上半身に力をいれない、腰と膝をうまく使う。この要領は餅つきも同じである。

 26日から山小屋へ来ている。今日も実は近所の山荘で餅つきがあって呼ばれ、餅をついたところうまいとほめられた。ただ体力がないので続かないのが困った者だが、私より年寄りばかりなので、それなりに重宝されたようだ。

 年賀状を印刷して投函。年賀状もだんだんと手抜きになってきて、去年の様式をそのまま使い中身だけ入れ替えた。今度のは、中国調査の報告みたいな年賀状。味も素っ気もない年賀状だが、自分が面白いと思ったことを年賀状使って報告するのも悪くはないだろう。予備校や大学短大で長年教えていると、それなりに教え子とのつきあいが生まれ、年賀状を通した消息のやりとりがずっと続いている教え子たちがけっこういる。こういう職業を始めてから、もう20年以上経つから、多くの教え子は、結婚して子どもが生まれ、年賀状にその子どもの写真が載せてある。毎年子どもが大きくなり、学校に通い始める。それを見ると、過ぎていく歳月というものを感じさせるが、しかし、こういう歳月の感じ方は心地よいものである。

 信州は寒い。空気はクリアで八つが岳がくっきり見える。正月は、教え子の家族が来るので山小屋は民宿状態になる。仕事が出来るのは、あと二、三日というところだ。三弥井書店から『歌の起源を探る 歌垣』が出た。私も編者の一人になっている。「アジアの歌掛け」という文章を書いている。歌垣の本としては、日本、アジアを含めたものになっているので、おすすめの本である。

                         歳重ね負けてなるかと餅を搗く