今年はどうなる2012/01/02 00:05

 謹賀新年。大変な一年が過ぎたが、今年はどうなることやら。教え子の家族が来ていて、もう一組を入れると子どもが五人、大人が四人、それに私たち夫婦と、山小屋は大賑わいである。子どもたちはみなおさなごで、とにかく、うるさいが可愛い。

 正月特集で、「日本の復活」という番組をみた。いかにもNHKらしい、「プロジェクトX」の流れにある、日本の技術力や地域再生をアピールする番組である。この番組の提言とは、これからの世界というのは、いろんな意味で、つまり、政治も経済もということだが、未体験ゾーンに入って行く、ということである。従来のような、突出した資本力や権力集中が世界をリードしていく時代は終わって、地域の自立した政治や経済に世の中が向かっていく、ということ。エネルギーも、政治も、経済活動も、おそらく文化も、そうだということである。

 たぶんそうなるのだろうと思う。だが、一方でそれは地域にそれぞれが自閉していくことではなく、グローバリズムを前提しつつ、地域自立型志向になる、ということである。地域の優れた技術によって作られた商品は実はその地域では消費されない。世界の見知らぬ地域でその商品が売れることで、地域は活性化する。つまり、グローバリズムによる消費のネットワークがなければ地域産業は自立出来ない、ということでもある。

 グローバリズムと、地域自立型志向、矛盾するこの二つの動きのバランスの上に、これからの世界は成立していく、と言うことなのだろう。言い換えれば、何とかバブルを期待するような経済発展はもう古く、また、中央集権的な政治やあるいは原発のような一極集中のエネルギー供給システムも、旧くなる、ということである。

 原発を例に挙げればわかりやすいだろう。原発は一極集中システムの典型である。が、地域のエネルギーは地域で生産する、という方向に行くと、原発は建てられない。地域だけの力では原発は、建設も維持管理も出来ないからである。それなら、将来、原発はなくなるのか。実は、そうもならない。何故なら、一方でグローバリズムという広がりもまた世界を覆うからである。

 地域の自立は、実は深刻な地域格差を生む。豊かな地域と貧しい地域である。当然、この格差を解消する動きが起こる。実は、それがグローバリズムの動きなのでもある。とすれば、その動きは、エネルギーを効率的に一カ所で生産し格差を生まないように地域に分配していくことを志向する。とすれば、ここに原発が生き残る余地が出てくる。

 つまり、原発を必要としない地域主体の自立的な動きと、原発を必要とする、地域を越えた世界性への志向という、一見矛盾した動きが、混じり合いながらこれからの世界の動きの方向となるだろう。反原発の人にとっては、そうなるべきでないし、ならないと思うかもしれないが、これからは脱原発派と原発を必要とする派とが、せめぎ合いつつも混じり合いながら、世界が動いていく、というのが私の見立てである。

 ただ、日本に限って言えば、私は、日本の国家の対応のあまりの体たらくに、この国には原発を安全に管理する資格はないと思っている。その意味では、結果的に反原発になるが、ただ、原発そのものを悪だと決めつけるほどの主張は持っていない。グローバリズムを排除した地域自立は無理だ、というのが私の考えであって、その意味では、原発を作り続ける世界の動きに対して、日本を反省材料にして徹底して安全なものをつくって欲しいと願うだけである。

 「日本の復活」を見ながら、わが短大の「復活」について考えてしまった。復活はあるのだろうか。「中国語コース」は結局だめになった。新しい改革案を考えなくてはいけない。地域としての短大、つまり停滞しつつある地域と同じように、停滞しつつある短大の特色をマイナスに考えるのでなく、それを逆転の発想で肯定的に評価しながら、どうグローバリズムの中に位置づけるのか。そういう発想が求められているのは確かである。むろん、そういう発想が簡単に出てくるものではない。新年早々、重荷を感じてしまった。

                   神の如子らははしゃぎて年明けぬ

クラシックを聴く2012/01/05 22:37

 今日山小屋から帰る。長野では昨日から雪が降りだしてけっこう積もった。果たして車を動かせるか心配だったが、何とか帰る事が出来た。さすが四輪駆動車の力である。

 やや疲れ気味で、風邪気味なのか。たいして仕事もせず、なるべく力仕事をしようと頑張っていたのだが、それが逆効果になったのかも知れない。明日から、仕事であるが、何とか治さなくては。

 最近よくクラシックを聴くようになった。知り合いの演奏家のコンサートを聴きに行った、ということも一つのきっかけだが、若い時はよく聴いていていろんなコンサートに行っていた。いつ頃からかほとんど聴かなくなった。いろんな意味で忙しくなったせいなのだろう。

 ただ、昔ほどマニアックに聴くという余裕はなく、ミーハー的にとりあえず今売れている演奏家の曲を聴くだけだ。フジ子ヘミングとか、辻井伸行とかのCDはけっこう持っている。若い時は、たとえばグレングールドを聴いて感想を音楽雑誌に投稿したり(ちゃんと載りました)と、生意気な態度でクラシックを聴いていたが、今は、ほとんど癒やしのためのクラシックである。

 そのような聴き方からすると、辻井伸行は、今の私には最適の演奏家である。この人の演奏は完璧だし(と誰もが言うのでそうなのだろう)、音楽に意味を求めるような邪心を起こさせない。とてもピュアで感情的で、しかもうまくて、聴いていて心地よい。疲れ気味の私にはぴったりだし、今、辻井伸行が世界的に受けている理由も分かる気がする。音楽の秩序を逸脱しようとする前衛音楽にもうみんな飽きてしまって、というより、みんな疲れていて、不協和音を意図的に生み出す音楽に耐えられないのだろうと思う。だから、辻井伸行が受けるのだし、それに、彼には目が見えないというハンディの物語がある。フジ子ヘミングにも物語があった。フジ子ヘミングが世に知られるきっかけになったNHKのドキュメントをたまたま見ていた。妙に感動してしまって、それ以来ファンである。

 家に帰って、録画しておいた、辻井伸行がカーネギーホールで演奏するまでのドキュメントを見た。一部分しか見れなかったが、カーネギーホールでの演奏はなかなかすごそうだ。ライブ演奏を2月に発売とある。ようするに宣伝番組なのだが、買おうと思う。

 最近私は脳内の快感物質であるドーパミンの量がかなり少ないのではないかと反省している。この物質は想像力の源であり、疲労を防ぐ物質でもある。気むずかしく考えていると、ドーパミンも引っ込んでしまいがちだ。クラシックでも聴いて、少しドーパミンの量を増やさなくては。

      小寒や至福の音に目を瞑る

巫者ジョバンニ2012/01/11 00:52

 ようやく年明けの授業が始まる。といってもまだ演習の一コマだけで、この演習では学生と宮沢賢治を読んでいる。「銀河鉄道の夜」を読み終わった。初期形と文庫になっている最終形とを読み比べている。

 初期形では、最後、ジョバンニは、カンパネルラが消えてしまってから元の現実の世界に戻らない。得たいの知れない博士が現れて、ジョバンニに、ほんとうの幸せを探さなくてはいけないと諭す。ジョバンニは本当の幸せをさがすのだと決意して物語は終わる。最終形は、現実の世界に戻り、銀河鉄道の夢を見ていた丘から街へ降りて行く。街では人だかりが出来ていて、行って見るとカンパネルラが友達を助けようとして溺れ死んだということがわかる。

 初期形の終わり方は、あのコッポラ監督の映画「地獄の黙示録」の終わり方を思わせる。最後は哲学的な会話に終始するのである。最終形はきちんと物語的につじつまが合うように書かれている。ただ、最終形では解き明かされないのが、ジョバンニが持っていた切符である。天上だけではない何処にでも行ける切符だと乗り合わせた鳥獲りに言われるのだが、この他の誰とも違うジョバンニだけが持っていた切符が何を意味するのか、解き明かされないままに終わるのだが、初期形では、博士がどうもこの切符をジョバンニにわたしたらしいことがわかる。この切符は本当の幸せをさがすための切符らしい。

 以前「銀河鉄道の夜」について論文を書いたことがある。そのとき、この切符について解釈したのだが、これは、ジョバンニがシャーマンになるための証明書ではないかと書いた。突飛な発想だが根拠がないわけではない。生きてるジョバンニが死者達が乗る列車で一緒に旅し、そしてこの世に戻った来られたのは、ジョバンニはシャーマンであると考えれば、納得がいく。シャーマンは、死者をあの世に導き、そして戻ってくる能力を持っているのである。つまり、ジョバンニの銀河鉄道の夜の旅は、ジョバンニの成巫体験の旅なのである。無意識にだろうが巫者になるための修行の旅だったのだ。それをより前面にだしたストーリーか初期形なのである。

 得たいの知れない博士は、ジョバンニに、ほんとうの幸せをさかすために勉強しろという。私には、この勉強が神秘的な世界を体験するための勉強に思えてならない。本当の幸せとは、自分のための幸せではなく、他者の幸せである。他者の幸せのために生きる、という諭しを博士はジョバンニに与えたのだ。それが初期形の終わり方ではないか。切符とは、シャーマンの証明書である。何処へ行くことも出来るというのはシャーマンだからである。死者の行くあの世に行き、神とあって帰ってこれるのがシャーマンである。しかし、見方を変えれば、それは何処にも行けないということである。カンパネルラが行く世界にジョバンニは付き添えるが、一緒に行ける訳ではない。それが、シャーマンの悲しみである。ジョバンニはその悲しみを体験する。そして、その体験の後に本当の幸せを探す、つまり、シャーマンになることを決意する。

 シャーマンという言い方を、例えば、神秘的な方法で他者のために尽くす人、という程度に理解すればより受け取りやすいだろう。宗教者で夢想家でシャーマン的資質を持った宮沢賢治はそのように人に尽くしたのだと思われる。

 最終形ではそのジョバンニのシャーマン的な決意が消えてしまった。結局、ジョバンニにとってあの旅は何だったのだろうという謎だけが残る。物語としてはこっちの方が面白いが、私は、初期形の方が好きである。最終形のジョバンニはけなげな子供に戻るが、初期形では、ジョバンニは、他人にために尽くす事の意味を考える大人へと成長しかかっているからである。

AKB482012/01/26 23:59

 ブログも久しぶりである。書かない期間が長いときは旅行しているか、忙しいとき。とにかく忙しかった。授業もあるが、雑誌に古事記関係の文章を書いていたのと、校務である。相変わらず改組案についてあれこれ検討していて、その雑務に追われている。

 今年は古事記誕生1300年ということもあって、あちこちで特集をやっている。私にも古事記の書名というタイトルで書いてくれという依頼があった。古事記の書名についてあまり関心はなかったが、勉強だと思い引き受けた。こういう仕事は、今まであまり調べなかった事柄を調べる機会となるので面白い。短い文章なので、調べたことをまとめるだけだが、古事記という書名は、その存在についてもその訓み(コジキなのかフルコトブミなのか)についても確かな根拠がないということが改めて確認出来た。偽書説をとるなら書名は最初から偽物になるが、偽書説をとらなくても、書名だけ後世附加された可能性は否定できない。

 一般名詞であろうという説もある。つまり、古事記は固有名詞っぽくないのだ。ただの古い言い伝え的な名前である。天皇に献上された書物ならもう少し固有名詞っぽく名前を付けてもいいのでは、と確かに思いたくなる。逆に、本居宣長は、そこを評価している。日本書紀のように国号をつけなかったのは、イニシエの素直なこころを反映しているからだと評価するのである。

 授業もほとんど終わりに近づいて、後はレポートやテストを残すのみである。民俗学の授業をやっていて、最後は女性論になる。というのも、柳田国男の「妹の力」の講義のなかで、巫女としての女性論の流れで日本社会において女性がどのように幻想されてきたか、ということを述べ、現代の消費資本主義では、女性が消費欲望をかき立てる巫女的な役割を与えられている面がある、と持っていくのである。むろ、比喩的な言い回しだが、消費資本主義では、女性は性的な刺激を社会に与えて社会を非日常化しなくてはならない存在でもある。そうすることで、消費が拡大し経済が上向くからである。

 特にバブリーな時期の女性はまさに祭りにおける巫女的役割を負って、フェロモンをまき散らして人々を消費に誘い込んだといっていいだろう。

 ただ、どうも最近は違ってきた、ということも付け加えた。その例として取り上げたのがAKB48である。AKB48のセンターに何故地味な前田敦子がいつも選ばれるのか、それがずっと不思議だったが、消費資本主義の衰退という考え方をとるとうまく説明出来る。消費資本主義が華やかな頃だったら、前田敦子は絶対にセンターに選ばれないだろう。フェロモンがないからである。だが、現代は、人々を非日常化して消費欲望をかき立てるわかりやすい戦略が成り立たなくなった。震災の問題もあるが、経済の低迷によって、日常の維持そのものが大変きついことになっていることに気づき始めたからである。つまり、今ある世界そのものがすでに非日常化していて、むしろ、日常的な確かな世界への手触りの方を、今求め始めたということである。

 それはアイドルへの志向についても言えるだろう。前田敦子がセンターなのは、地味で努力家で、どこか安定した日常感を感じさせる身近なアイドルだからである。考えてみれば、AKBそのものが、そういうアイドルとして作られた。最初のキャッチフレーズいつでも会いに行けるアイドルだった。つまり、前田はAKB48を代表する象徴的な存在なのである。だから、総選挙でセンターに選ばれるのである。その意味では、非日常へのあこがれではなく、日常への共感によって支えられているアイドルグループだと言える。

 AKBが受ける理由もそこにあるが、経済が上向き、女性性が消費欲望の象徴として復活してくれば、AKBの時代は終わると思うが、たぶん、経済は簡単に上向かないので、しばらくはAKBの時代が続きそうだ。ちなみに、私は前田敦子が好きである。最初はなんでセンターなんだろうと疑問だったが、テレビでみているうちに、その良さが分かってきた、秋元康の戦略に見事にはまってしまったようである。

                       アイドルを見ながら妻と小豆粥