作者とは何だろう2010/11/01 01:27

 ブログも久しぶりである。相変わらず忙しい一週間でブログを書く暇がなかった。第三者評価の報告書を書き上げ、そして、今週から始まったアカデミーの万葉集講義の準備をして、そして週末には、短歌時評の原稿を書く、ということで、いつもの一週間の作業に以上の作業が加わって、さすがにくたびれた。

 とくに、市民講座であるアカデミーの授業は下調べがけっこう大変で、時間がかかる。おかげで好評なのだが、調べでいるとついあれもこれもと調べはじめていつもしゃべりきれない量の資料になってしまう。反省すべき所である。

 短歌時評の方は、山田消児『短歌が人を騙すとき』の感想を述べながら、作者とは何かということについて論じた。ある歌人が18歳の少女を装って新人賞に応募し、新人賞を受賞したということが話題になった。作者詐称ということで、この時かなり批判された。この批判によって作品があまり読まれないという不幸なことになったが、このような嘘がつきつけたものは、結局作者とは何だということになろう。

 28日の朝日新聞夕刊に「消えゆく作家像」という記事が出ていた。最近作家が小説を別の名前で書いたり、複数の作家が一つの作品を共有のペンネームで書いたりする事があるということが話題になっていて、近代以降の文学における作家の自明性そのものが疑われ始めているとその記事は書いている。

 ライトノベルの世界で確かにそのような事態は起こりつつある。ここいらのことは東浩紀『ゲーム的リアリズムの誕生』に詳しい。作者の自明性は近代以降の自然主義的リアリズムが支えてきたといえるだろうが、確かにそのようなリアリズムが失われつつあるとは言える。つまり、自我の大きな物語を作れない作者は、それこそ個々の小さな物語の中に閉じこもるしかないわけで、そういった個々がみんなで共有のファンタジーを作るか(セカイ系のように)、それとも、個々の小さな居場所をただ確認するしかない作者のささやかな存在証明程度に、作者像を後退させるか、というところにある、といえよう。

 一方、笙野頼子のように、自分の存在証明を神話のような荒唐無稽の言説そのものに重ねるところまでくると、現代において作者像を担保することは、一種の憑依といえるまでに言葉に自分を賭けないといけないのだなと思わされる。つまり、作者像を明確にする分かりやすい物語などもう成立しないということだ。

 その意味で短歌というのは、そもそも言葉に賭けるしかないところでの表現行為でなりたっているところがあるから、作者というものに本来まどわされなくていいのだが、それでも、近代以降の自然主義リアリズムの影響は大きく、やはり作者というのは表現を支えるリアリズムの保証として欠かせないものだったのだ。が、そろそろ作者などと云う存在への関心は低下していくと思われる。

 と以上のような事を今日書いたのだが、さすがに疲れた。

 今週は遠方から卒業生が来訪。うれしかった。また30年も前の、二部の学生時代の同級生から連絡が突然あり、私が書いた小論文の参考書を送って欲しいと言って来た。早速送った。二部の同級生は皆私より十歳下だからもう50歳にはなっていよう。みんな年を取ったものだと思う。

秋雨やたまには良いことだってある