心は進化しない2013/07/19 00:57

 先週の日曜に寧波大学からT先生来日。私の勤め先の招待である。T先生は雲南調査でいつもお世話になっている中国の研究者。ところが、私の勤め先で中国語を教えているやはり中国人のL先生と大学院時代の同級生だったということがわかった。これはほんと最近偶然にわかったことである。実は、私とは別に文化人類学の先生がT先生に御願いして大学教育についての調査を依頼していた。そんなこんなのつながりで、T先生を招待して、授業などで講演してもらおうということになった。久しぶりの来日であるので、私が成田空港に迎えに行き、今日の出国まで毎日接待していた。中国調査ではいつも世話になっているので、これはほんのささやかなお返しである。

 たまたま雲南調査についての原稿をまとめている最中なのでT先生にも見てもらうことが出来た。原稿には私の中国語の日本語訳の文章がいくつかあるのだが、どうも心許ないのだ。やはり間違っているところを指摘され、私としてはとてもありがたかった。

 縁というものは不思議なものだ。T先生とL先生は吉林の大学院で日本語を学んでいた。その後、T先生は雲南大学に勤めた。何故辺境の雲南大学に行ったのか、L先生からその理由が明かされた。実は、大学院の時に、T先生の幼なじみとT先生は結婚した。その結婚の経緯も聞いたがまるでチャンイーモウの中国映画にででくるような物語なのであるが、それは省略。実は、大都市の大学と雲南大学の二つの就職口があった。ところが、問題は奥さんが農民戸籍で、大都会の大学では就職しても奥さんは都市戸籍に変えられいという。雲南大学は都市戸籍に変えてくれるという条件だったらしい。それで辺境の雲南大学に行ったということだ。つまり、奥さんのためだったのである。いい話である。同級生の間ではなんであんな辺境に行くのかみんな不思議がったということである。

 が、そのおかげでわたしたちはT先生と会うことが出来て、雲南での調査を進めることが出来たのである。T先生がいなければ私の調査などもほとんど出来なかったろう。それくらい、T先生の果たした役割は大きかったのである。縁を考えれば奥さんのおかげでもある。もし、T先生が、他の同級生のように、同じ大学の同窓の女性と結婚していたら、彼は私たちと出会うことはなかったのである。

 T先生が帰国し一段落というところである。今、「千字エッセイ」のコンテストをやっていて、それを読んでいるところだ。テーマはメールである。今時の話題であるのでなかなか面白い。私は使っていないが、最近はLINEを使っている学生が多く、その話題も出てくる。興味深いのは、LINEは便利でいいが、相手との垣根が低くなって、時に相手を傷つける度合いが普通のメールより高いという指摘がいくつかあったことだ。

 今世間を騒がしている広島の事件は、LINEでのやりとりが一つのきっかけで起こった事件だという。相手を傷つけるような言葉が飛び交い、それが原因で人が殺されるという事態に発展してしまったということらしい。学生たちの指摘は間違っていないのだ。学生達のエッセイにもメールで傷ついたことや、傷つけた事が出てくる。その逆の救われたこともたくさん出てくる。直接会って話しするのでもなく、携帯で会話を交わすのでもない、手紙でのやりとりでもない、メールの適度感が、今の時代の人との距離の取り方に合っている、ということなのだろう。この微妙なハードルの低さが、確かにコミュニケーションを円滑にしているところがある。が、当然、リスクもある、ということだ。

 こういうのをITリテラシーというのかどうかわからないが、IT技術の進化は、リテラシーの進化より早い。スマホや携帯でのリテラシーが習熟する頃には、たぶん次の新しい進化したITのコミュニケーションツールが出て来て、今では信じられないような意志疎通の仕方が成立しているのだろう。そして、けっこう傷つくものもたくさん出てくる、ということなのだろう。人の心は、どうやら進化しない。傷つく事への耐性は、殺虫剤に対抗するゴキブリのようには進化しない。むしろ、ますます耐性が劣化しているような気がする。学生を見ているとそう思う。