チビの脱走と中国の悲劇2006/02/21 00:11

2月なんて一番暇な月だと思ってたが、とんでもない。確かに授業はないが、雑務は多い。原稿だってある。16日に日本文学5月号の特集原稿を脱稿。締め切りは20日だが、20日まで書いている暇はない。「アジアの中の古代文学」がテーマ。歌垣研究について書いてみた。それから授業テキストに作った冊子の校正を仕上げる。冊子と言っても原稿用紙350枚分有る。一冊の単行本の分量だ。この校正も結構大変だった。12日には、歌誌「月光」の時評の原稿脱稿。

それから、私の所属する文科では「千字エッセイコンテスト」というのをやっていて、その優秀作品をこれも冊子にして出版している。この企画、運営、冊子の編集、校正、すべて私がやっている。この校正も16日に校了。一年に二回、優秀作品を表彰している。実は、この表彰状は私がパソコンで作って印刷している。最近は、インクジェット用の表彰状用紙というのを売っている。表彰状の文面なんか、インターネットで探すと結構模範文例が出で来る。何かと便利になったものだ。

仕事と仕事のつかの間の隙間を利用して山小屋に行った。といっても、27日から中国雲南省へイ族の火祭り調査に一週間ほど行くので、その中国語資料を、辞書を片手に読むのが山小屋での仕事。もっと真面目に中国語勉強しておけばよかったとおもう。

山小屋の近くのレストランに立ち寄ったとき、駐車場に車を止め、奥さんが後ろの車のドアを開けたら、乗っていたチビが突然飛び降り、走り出した。追いかけたが捕まらない。国道を横切ろうとして道路に飛び出した。そこへ一台の車、危ないと思ったとき、車は上手くよけてくれた。チビは、そのまま道路を横切り、一目散に道路の向こうの山に駆け込んだ。あわてて奥さんと私は、後を追いかけた。道路に面した山道を駆け上がり、山の藪の中をチビは駆け上がっていく。必死で追いかけたが、離されてしまって見失った。呼んでもこない。なにしろ、飼ってまだ一月である。お手も待ても出来ない犬だ。さらに悪いことには、チビが駆け込んだ山は、奥が深く迷い込んだらもう見つからない。

これは、もうだめかなと青ざめたとき、上の山の斜面からざわざわと音を立ててチビが降りてきた。チビは私の前まで来て止まった。私はチビ!と呼んで捕まえようとしたが、引き綱のない犬を捕まえるのは至難の業である。さっと私の手をよけるとチビはまた駈けだしてしまう。これを二度ほど繰り返して、チビは、今度は下の国道の方に駆け下りていく。道路に出たら危ないと思いつつ、追いかけると、コンクリートのフェンスがあって道路に降りられない。チビは、そのフェンス沿いに走り、コンクリートのブロックで作られた崩れ止めに遮られて前へ行けなくなった。追いついた私は何とか引き綱をつけてチビを抱き上げた。一瞬のチビの脱走劇だった。それにしても、奥さんも私も真っ青になり、チビを追いかけて手足はがたがたになった。

ナナはこんなことはなかった。綱をつけなくても決して私たちのもとから離れようとはしなかった。時々、鹿を追いかけて迷子になっても、ちゃんと戻ってきた。でもチビはまだ子供子供しているし、頭も悪そうだし、絶対戻ってこないな、と思う。レストランの奥さんに夜でなくてよかった、チビは黒いから、夜だとほんとにわからなくなる、と言われた。そのとおりだ。チビを捕まえて抱き上げたとき、きつい獣臭い臭いがした。そうかチビは野生に戻ったんだ。柴犬は猟犬として生きてきた犬種だから、一応本能は残っているのだろう。が、人間と暮らすには、我慢してもらわなきゃ。それにしても、戻ってきてよかった。チビはどうして戻ってきたんだろう、やっぱに不安になったんだろうか、と奥さんと話したが、よくは分からない。チビはチビなりに暴走したわけでなく楽しんで遊んでいただけなのかも知れない。  

最近呼んだ本、読みかけ中の本、読みかけて止めてしまった本と何冊かあるのだが、ユン・チュアンの「マオ」上下巻は、評判だったので読んでみた。「誰も知らなかった毛沢東」というサブタイトルのこの本は確かに毛沢東を英雄だと思っていた人たちには衝撃的な本だろう。この本を読むと、スターリンやヒットラーなんか、まだまだ甘いと思うくらい、毛沢東の残酷さ非情さは群を抜いている。

かなりの資料を駆使しているのでそれほど間違ってはいないと思うが、ただ、全編、毛沢東に中国共産党の影の部分をすべて負わせているので、読んでいて途中から飽きてしまった。要するに書いてある内容は、毛沢東の罪をこれでもかと暴いていくことだけに集中しているので、後半はほとんど飛ばし読みして読んだ。

ここまで徹底して毛沢東が情報を操作し、粛正をしていたということは知らなかった。ある程度は知ってはいたが、さすがに話半分にしても、ここで描かれた毛沢東はすごい。この本によると毛沢東は中国人を7千万人殺しているという。この数字は、第二次世界大戦でドイツとの戦争で死んだ死者の数に匹敵するのではないか。読んでいて、中国人が可哀想になってきた。共産党の理想を信じたたくさんの若者や農民が、粛正によって殺されていく。

この本を読んで理解出来たのは、毛沢東はイデオロギーを信じていなかった、ということだ。イデオロギーは人を理想主義者にする。理想主義者は少なくとも、自分よりも理想を優先させるから、理想に弱い。が、ここで描かれる毛沢東は、権力を握るためには、イデオロギーも一つの道具に過ぎないと考える、徹底した現実主義者であるということだ。本当にここまで徹底した冷酷な現実主義者でいられたのか、分からないが、言えることは、理想主義者じゃないことは確かだということだ。

情報を操作して、共産党を神話化したのも毛沢東の功績だとするこの本の見解は正しい。共産党は抗日戦争勝利の歴史を教えているが、実は、日本と闘ったのはほとんど国民党であり、共産党はゲリラ戦は得意だったが、部隊同士がぶつかる近代戦はそれまでやったことがなかった。毛沢東は、国民党に日本軍と闘わせ。漁夫の利を得る戦法をとった。そのため、日本軍とはあまり闘っていないのである。実は、このことは今の中国人はほとんど知らない。というより教えられていない。

最近、中国の知識人が、中国政府は自分たちの歴史を歪曲するべきではないと言いだし始めた。八路軍が日本軍に最初に勝利した戦いは、国民党軍と一緒に闘ったもので八路軍だけで勝ったのではないという論文まで現れた。これはいいことだと思う。自分たちのマイナスを隠すことでしかない神話を暴くことはいいことだ。共産党政府はこのような意見を弾圧しているが、無理だろう。ただ、権力に都合良く作られた神話は彼等が自分たちで暴くしかない。それみたことかと日本の保守派は、中国の歴史教科書問題を言い立てるが、侵略の歴史を教えたくない日本の連中と、中国共産党は同じだと言うことだ。中国を批判する前に、都合の悪いことを言わない日本の戦争責任回避思考を反省すべきだろう。

さて、「マオ」は読む者の気分を暗くさせる本である。何億という人間の住む国家を、ある権力のもとに束ねていくという行為は、こんなものなのか。そこには、理想や理念のひとかけらもないのか、ということに暗然とする。歴史はそれなりにある合理的なプロセスの上にあるのではなかったのか。ヘーゲルだって、マルクスだって、歴史にある必然を認識したからこそその必然を論理的に説明したのではなかったか。が、ここで描かれた歴史には、そういう必然がまったくない。一人の権力欲に取り憑かれた男の、非情な国盗りゲームでしかないのである。

これじゃ、中国に救いはない。が、実は、歴史とはそんなものなのかも知れないとも思う。この本の毛沢東が見せつけたのは、われわれの歴史とは、どんな手段を使ってもあがるしかないゲームの歴史だということだ。もう一つ教えたのは、権力を握った一人の理不尽な人間に対して、人々は無力だということだ。毛沢東が人より優れていたのは、彼が誰も適わないほどわがままで理不尽な人間であったということ。その理不尽さが合理性を持っていないことがわかっていても、人々は従う。それを認めることは空しい。

たとえ毛沢東がどんなに中国人を殺したとしても、そこには歴史の必然があり、あるいは、毛沢東が権力者となって人々を組織したのは彼に人を納得させる理念や、どこかしら人間的魅力があったからだと思いたいだろう。が、この悪意に満ちた本に書かれたとおりなら、何のために中国人は死んでいったのか、それこそ絶望的になる。この本を何処まで受け入れていいのか、正直私だって戸惑っている。10億の人間を従えさせた権力者に、それなりの必然性を見いだしたいのは、それがせめてものこの世を生きるものの希望だし、理不尽な世の中の現実を自らに納得させる理屈だからだ。この本に描かれたような人間が、つまり、理念のかけらもない、巧みな権謀術数と非情さだけでのし上がる毛沢東のような人間が、世の中を支配できるとすれば、この世は闇だと思うしかない。その意味では、この本は歴史は進歩しないということをつきつけた本である。

ただ、毛沢東をかなり希釈したような人間は現代にもいるし、私の周囲にもいる。みんなが迷惑しているが、誰も何も言えない。理想主義者ならまだ対処のしかたも分かるが、そうでないと、どう対応していいか分からない。それこそ、相手の弱みをいかに握るかといった、現実的な駆け引きの世界になり、品性がちょっとでもある奴は脱落していく。が、そういう奴が、10憶もの人間を率いるとまでは信じられない。その意味で、「マオ」に描かれた毛沢東は信じがたい。「マオ」に描かれなかった毛沢東があるはずで、それも読んでみないと、この本をそのまま受け入れるわけにはいかない。

話が脱線したが、中国が今共産党政権のもとで資本主義化できたのは、毛沢東が理想主義者ではなく、徹底した現実主義者だったからだろう。それが中国共産党の根っこにある。毛沢東が感謝されるとすればそういう素地を作ったことだろう。いずれにしろ、この本で描かれた毛沢東は、卑小な人間すぎるが、逆にそう描かれることで、毛沢東の怪物ぶりが際だつのである。この本はすべての責任を毛沢東に帰しているので、中国の悲劇の毛沢東の責任は、半分くらいだとしても、それでも十分だろう。いずれにしろ、共産党によって引き起こされた悲劇は、中国人が自らの歴史として負わなければならない問題だ。

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