弟のことなど2016/03/19 00:09

忘れられないようにブログを更新します。
 三月は私事と校務と休む暇がなく、授業のあるときより忙しかったのではなかろうか。さすがに風邪気味でダウン、熱が出たが、一日休んで復帰。
 弟がパーキンソンで宇都宮の施設で暮らしていたのだが、一月に転倒して骨折。すぐに入院したが肺炎を併発。誤嚥性肺炎とのことで、年寄りに多い。ところが意識不明で重篤な状態になる。肺炎の方は治癒したが意識が戻らない。脳の検査をしたところ、脳幹に梗塞の跡があるとのこと。意識は戻らないだろうとの診断である。
 いわゆる植物状態である。そこで医者に訊かれたのが、胃瘻はしますか?ということだった。いろいろ調べてみたが、ネットなどでの意見はほぼ九割が胃瘻はするべきでないというものだ。しかし、本人が胃瘻を拒否の意志をあらかじめ明確にしていれば問題はないが、そうでない場合、そして本人に意識がない場合は家族の判断になる。が、家族はさすがに胃瘻を止めてとは言えない。胃瘻を止めれば確実に寿命が尽きる。ネットでもこのケースの家族はほとんど悩んで決断できないでいる。胃瘻は意識がなくても身体をある程度回復させる。意識がなくても無理に生きながらえさせるのはむしろ酷ではないか、というのが胃瘻を止めるべきという側の意見だ。だが、そのとき意識がなくても、回復の見込みがないわけではないと判断されたら、胃瘻を拒否できるだろうか。この点を医者に訊いても医者は明確に答えない。
 現在の医学では、外側から意識がないように見えても意識があるか無いかは判断出来ないということらしい。つまり、意識がないというのは、何らかの意志を表現する身体的な手段を奪われている状態を言うのであって、脳の中で何が起きているのかはわからないということなのだ。植物状態でも、目を動かしたり手を動かしたり、言葉を発するなどのレベルまで回復することはあるそうなのだ。
 もうほとんど意識は回復しません、と断言されたら、家族であっても胃瘻を選択するのはためらわれるだろう。だが、回復しないとは言えないと言われたら、たとえ、手を動かしたり片言の言葉を発したりするまで回復するのだとしたら、ためらわず家族は胃瘻を選択するだろう。が、医者はそこをはっきりとは言わない。そこで家族は悩むことになる。
 私も同じ悩みを抱えることとなった。人に相談するとほとんどが胃瘻は止めるべきだという。が、家族はそう簡単には決断できない。一月ほど本当に悩んだ。
 ところが、二月の末頃になって、病院に行くと、看護師が今日言葉を話したという。「おはよう」と声をかけると「おはよう」と答えたというのだ。気分はと訊くと「気分悪い」と答えたという。私が話しかけると目を動かして反応する。何かを言おうとしているのだが、聞き取れない。
 少しばかりだが回復したのである。私は安堵した。この状態をなるべく持続させれば、より多くの言葉が話せるまで回復するかも知れないと、希望が湧いてきた。そのためなら胃瘻でもなんでもして欲しい、という気持ちになったのである。
 身内の生死の判断をこの自分がせまられるなどと思ってもみなかった。実際迫られると、さすがに辛かった。第三者的立場なら当然答えはすぐに出るだろう。が、家族の生死を自分が決めるなどという立場になると、第三者的に客観的にはなれないということがつくづくわかった。この歳になって、人間というものの正体を一つ学んだ気がする。
 さて、少しばかり反応するようになり、寝たきりではあるが病状も安定してきたら、病院から、転院してくれ、と言われた。病院での入院期間は3ヶ月が限度なのである。元いた施設はサービス付き高齢者住宅なので、現在の状態では引き受けられないという。そこで、おなじ市内の長期療養型の病院に転院することとなった。そこでなら三ヶ月以上いられるということである。
 身内は私一人だけだから、とにかく私が手続きを含めて全部やらなくてはならない。大変だが、とりあえずは何とか療養できるめどがたった。一安心というところである。