南三陸を訪れる2015/05/31 17:14

 先週の土日(23、24日)は、誘われて平泉の中尊寺、南三陸を旅した。中尊寺は二度目だが、金色堂を覆っていた旧覆堂を見たかった。覆い堂の起源は諸説あるようだが、金色堂が建ってからすぐに鎌倉幕府によって建てられたという説がある。理由は、藤原四代の遺体(四代目は首のみ)を納めた金色堂の金色は、怨霊の光だとみなされたからだという。つまり、金色堂の保護のために建てられた訳ではなく、その金色の光を防ぐ目的で建てられたということだ。この説支持したい。

 南三陸は始めてである。波伝谷町という津波が如何にも来そうな地名のところにある、慶明丸レストランで昼食をとった。このレストランのオーナーは震災で旦那さんを亡くした人で、流された自宅の跡地でこの小さな食堂を開業した。予約制だが、それはそれは豪勢な海鮮料理だった。慶明丸は所有していた船で、その船の浮きが一年後にアラスカでみつかり戻ったそうである。その浮きが店内に飾ってある。

 オーナーの奥さんに、津波に遭った高台の中学校を案内してもらった。海に近いとは言え、十五メートルの高さの高台に立つ中学校の一階まで波が来た。中学校は避難場所であったが、校庭に避難していた人たちの何人かは亡くなったという。奥さんは優れた語り部で、津波の様子をリアルに語ってくれた。その高台から海を見たが、かなり高く感じる。周囲は何もない開けた場所である。ここまで波が来るとは、地面が突如20メートル持ち上がったのと同じであるから、この世の終わりだのような光景だったに違いない、改めて、津波の怖さを実感した。奇跡の一本松にも立ち寄った。枯れてしまったのを剥製のように補強したものだが、それでも持ってあと10年だという。

 海岸に「タブノ木」という看板があった。タブノ木は照葉樹林。東北だが海岸沿いには照葉樹林があるということである。日本の照葉樹の分布は、海岸沿いにはかなり北の方まであるのである。実は、植物学者の宮脇昭が、照葉樹林の森によって防潮堤を作る運動を推進している。「森のプロジェクト」という。瓦礫を10メートね積み上げて、その上に照葉樹林を植える。松は津波でほとんど持って行かれたが、実は照葉樹はけっこう津波に耐えて残っている。根を深く広く這わしているので堅固なのである。瓦礫の土手の上に照葉樹の森を作れば、それだけで20メートル以上の防潮堤になる。コンクリートで作るより金もかからず環境的にもいい。が、復興計画はコンクリートの防潮堤を作る方向に向かっている。日本の政治家のレベルの低さはこういうところにも表れている。

 私の泊まった民宿は、南三陸の海岸にあって、そんなに高い所ではないが、それでも津波の被害に遭わなかった。どうもその地形によって被害の程度にもかなり差があったようだ。海岸沿いはほとんど工事中ばかりで、土砂を摘んだダンプばかりが行き交っている。そうとうな予算が使われていることがよくわかる。しかし、見る限り4年も経つのに何も出来ていない。

 南三陸の観光施設も整備されてきているようだ。私たちも、少しは観光のお役に立てたのかも知れない。写真は、津波にあった高台。写真の撮影地点まで津波が来た。つまり、右側に立っている人の高さまで津波が来たと言うこと