矛盾としての教育2015/03/03 22:44

 二月末はほんとうに忙しかった。原稿の締め切りが二本あった。一つは、「古事記の正体」という本の「読み継がれる古事記」という題の原稿。これって斎藤英喜のしごとだよなとおもいながら何とか二十枚書いた。それから歌集評の原稿も二月末締め切りで、これも何とか仕上げた。二月は早く終わるし、月末は、京都でFDフォーラムがあり、出張。それもあって、原稿を早めに書かなければならなかった。さらに、「基礎ゼミナール」のテキスト修正版の原稿を三月二日に印刷所に入れなければならない。何とか全部こなした。いやはやきつかった。

 FDフォーラムの会場は同志社大学。日本一広いラーニングコモンズのある校舎での分科会に参加。一緒に参加した職員とうらやましいと感嘆。私の参加した分科会は「キャリア教育」で、会場は満員だったが、私の隣の席に坐った人がしきりに私の方をうかがい、声をかけてきた。よく見ると見た事のある顔。Kです、と挨拶され、古代文学の研究者であるKさんだった。学会では何度もあっているが、まさかこんなところで会うとは思ってないから、気づかなかった。それにしても奇遇である。彼は地方の大学に職を得たらしく、この分科会は出るはずの人が休んだので代わりに来たということらしい。

 私は勤め先でキャリア教育のプログラムを考えているところなので、こういうフォーラムはいろいろと参考になる。金沢星稜大学の職員が書いた『偏差値37の大学が就職率90パーセント』という本は、学生集めに苦労している大学人にとっては、シンデレラストーリーのような本であるが、その著者が発表者として来ていて、本を読んで感動していた私としては著者の話を聞けたのが収穫である。前日のパネルディスカッションでの立教大学の教員によるリーダーシップ教育も面白かった。要するに、学生のグループに、企業から課題を出してもらい、それをグループで議論させて、プレゼンさせるという課題解決型授業の実践例の報告。むろん、これも成功例である。

 夜は、勤め先の参加者による恒例の懇親会。リーターシップ教育というのは、主体的な学びの姿勢を養うということだが、それを教育出来ると思うのは矛盾じゃないかと発言した教員がいた。その通りである。が、教育とは元々矛盾に満ちたものだ。親は子供に親から自立しろと諭す。自立とは親の言う事を聞かなくなることだとすればこれは矛盾である。教育とはそういうものだ。一時代前は、教員は知識をただ教室でしゃべるだけでよかった。学生の主体性なんて気にも留めなかった。だいたい、主体性のある学生は、授業に出なかったし、学生運動で授業を潰したり教師をつるし上げていた。
 そのつるし上げていた本人が、今は、学生の主体性をどう育てるか研修している。世の中矛盾に満ちているのである。

 もともと主体性なんて社会の中で自然発生的に生まれるものである。それをシステマティックにプログラムしなきゃならないと、大学ではみんな頭を絞っている。もともアメリカから来た発想である。

 工場労働での労働生産性が国を支えた時代は、機械を動かす知識をただ勉強し、機械を動かすシステムに従う従順さが求められた。労働者の主体性は、生産性を疎外するものとして嫌われた。教育においてもそうだ。だから、主体性は反抗的な現れ方をした。

 が、今は違う。第三次産業型のサービス業社会では、コミュニケーションや創造的なアイデア力が労働生産性を高めていく。従って、このような力を持つ人材を教育において大量に作らざるを得ない。それが、主体性を重視した教育の目的である。つまり、労働生産性の高い人材を大量に生み出すシステムが、リーダーシップ教育であり、主体的な学びを重視する課題解決型の教育なのだ。この流れはアメリカから始まった。

 わたしの学生の頃の主体性とは反対の主体性を作ることが今教育の目的になっていて、国が率先してそういった教育を推奨している。こう考えると、主体性重視の教育も色あせるが、かといって、昔ながらのただ知識を垂れ流すだけの教育がいいというわけにもいかない。教育もまた時代の流れの中にあるということだ。大事なのは、教育は常に矛盾に満ちたものであり、あまり期待しすぎないということではないか。

 どんな授業であれ、学生がのってきて、私が面白いと思える授業を目指すだけである。私は講義が下手なので、どちらかと言えば、課題解決型の授業が好きである。教師はコーディネーターであり、教えなくてすむからだ。

 隣の席でKさんは推理小説を読んでいた。こういうフォーラムには似合わないひとだと思っていたが、本人もそう思っているようだった。