人は機能的になれるのか2014/12/13 00:42

 モソ人のお二人とT先生と三人が無事中国から到着。儀礼に使うものなどを持ってきたが、国際シンポジウムへの参加ということでトラブルなく入国出来た。これも寧波大学教授であるT先生のおかげ。先生が一緒でなかったら、モソの二人、たぶん、税関でかなりチェックされて面倒なことになっていただろう。みるからに中国奥地の農民らしい容貌と服装だからだ。彼らは、村から10時間かけて雲南の麗江飛行場に、そこから上海へ。上海は初めてだということだ。むろん海外も初めてで、そのかれらを、私とE君とで昨日から接待している。

 今日は上智大で明日のシンポの打ち合わせ。本番ではモソの宗教儀礼の実演を、上智のチャペルの庭で行う。この取り合わせけっこう興味深い。実演に使う道具などを新宿の100円ショップで調達。フライパン、金網、まな板、ボール、ナイフ、はさみなど、まとめて1000円しなかった。さすがに安い。ちなみに最初東急ハンズにいったが、フライパンだけで二千円だったので、近くの100円ショップに行こうという事になったのである。フライパンが100円で買える、というのもすごい。

 夕飯は、チベットの近くに住む彼らのために、泉岳寺にあるチベット・ネパール料理の店に行く。

 宮台真司『私たちはどこから来て、どこへ行くのか』の続き。宮台の状況分析とそれに応じた実践的対処法に関してのリファランスはほとんど賛成である。が、?がないわけではない。それは、「理念の言語」は役に立たず、「機能言語」を駆使していくべきとする主張だ。理念の言語とは、真実に近づく言葉を語れば必ず人々は影響されて世の中は動くはずだと信じられている言語、ということだ。が、宮台は、ポストモダン以降は、どんな真実めいた理念も再帰的なものであって、つまり、その時代のシステムによって成立する理念に過ぎないのであって、従って、その理念に依拠して世の中を変えるということ自体が矛盾に満ちている、という。ここまではわかる。このような時代に必要とされるのは、世の中を実際に動かしていく機能的な言語なのだという。例えば、それは、社会への合理的な分析と明哲な方法によって組み立てられる政策的言説、ということになろうか。

 例えばその言説のなかに当事者性を入れてはいけないと説く。当事者を入れれば、客観性が損なわれ、機能性そのものが傷つくからだ。例えば、経済政策において当事者である経済弱者の声を反映させようとすれば、財政基盤を無視して富を再分配する政策しかとれなくなる。富を独占する富裕層の声を聞けば、社会そのものが不安定になる。とすれば、そういった当事者性に距離を置いたスタンスの政策が必要だということだ。一見よく分かるが、果たしてそのような機能性に特化した位置取りは可能なのか、そこが疑問だ。

 現在の民主主義は当事者の声を反映させる仕組みだから、社会の矛盾を解決するには良い制度ではないという。確かに民主制は独裁という最悪を防ぐ仕組みとしてはいいが、自分たちが陥っている社会的困難を解決するには向いていない。少子化がすすみ、借金だけが膨らんでいくこの日本社会を、ここまでにしたのは、民主主義がある意味で機能していたからだ、と言え無くもないのだ。選挙に勝つためには、国民に痛みを伴う政策を訴えることは出来ない。だから、こんなになってしまった。

 とすれば、当事者性を廃して機能的な言語を駆使するということは、ある意味で優秀な官僚が、国民の当事者性からは距離をおいて、社会的矛盾を解決していく、ことが理想ということになる。が、それは、少しばかりの独裁を認めようという話になる。宮台はそうは言っていないが、結局はそういうことになるのではないか。

 むろん、独裁ではなく、多数決民主主義ではない、多数の意見を集約する方法があり得ることを前提にしていることはわかる。が、その集約され意志決定まで持ち込まれる言語は機能的なのかどうか。たぶん私が不安なのは、それが機能的な言語なのだとしたら、それを語る人間もまた機能的にならないか、ということである。他者の心を思う情を持っていて、でも、政策的言語は徹底して機能的に語る人、そんな人はいるのだろうか。

 いると思いたいが、そういう人にまだお目にかかったことはない。ただそのようにふるまっている人は大勢いる。今選挙で大衆受けする言葉を叫んでいる人たちはみなそうだ。それは、日本における政治の未熟さの問題であるより、人は、機能的な言語に特化できない、とみなした方が良いような気がするのだ。機能的にふるまえば心を失う。心をうしなうまいとすれば機能性にほころびが出る。私たちはそのようなものなのではないか。言いかえれば、私たちの言説は当事者性を簡単には超越できないということだ。

 ただ、それは、偏差値の低い場所ばかりを歩いてきたわたしの位置取りがそのよう思わせているのであって、高偏差値のエリートであり続けた宮台とは見え方が違うということかも知れない。こう語るとなにやら自虐的になるが。

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