慰霊と情2014/07/16 00:33

 日曜日に民俗学の学会での発表。私は属していないのたが、頼まれての発表だったので緊張したが何とか無事に終わりほっとした。こういうのを他流試合というのだろうか。別に、勝負をしたわけじゃないが、専門でないのに、それらしくプロの前で発表するのはさすがに気が重かった。

 慰霊における情の問題について論じた。民俗学や宗教学の人たちかきていたが、たぶん、死者に対する生者の情について、何故情にとらわれるのか、という問いは作らない。これは、文学研究かもしくは心理学の分野になる。その意味では、自分の専門に近づけて話は出来た。

 心理学の知識も少しは使った。フロイトの「悲哀の仕事」というもので、人は近親者の死から立ち直るときに、ある一定の心理的な段階を踏むという理論である。いずれにしろ、人は立ち直る。社会秩序というものも、この立ち直ることを前提に構築される。つまり、いつまでも立ち直れないものは、病として社会からも排除されるのである。

 しかし、人は、ある形式を通して情をかき立てられ悲しむことを繰り返す。これは何故なのか。結論を先に言えば、この立ち直る生のあり方への抵抗であるということだ。これもまた生なのである。むろん、病にならない仕組みがあって情は喚起される。例えば挽歌のような歌は悲しみを喚起させるが、立ち直れないほどには悲しませない。

 丸山隆司の「海ゆかば論」を使ってこの情の問題について展開してみた。「海ゆかば」は戦意高揚歌として作られたが、実際は戦死者の挽歌のように歌われた。戦争中この歌を歌うとみな泣いた。この歌が情を喚起し、そしてその情を鎮めたからである。この、喚起し鎮めるというのが歌の働きなのだと言えないこともない。

 とすると何故人は歌うのか、という問いが成立する。それは、悲しみの出来事を忘れるように生きることやあるいは秩序の構築といったものに、逆らいたいからだ。何故、逆らいたいのか。ここまで突きつけられると、もうフロイトでは対応出来ない。ラカンの出番だ。ラカンは、欲望とは、他者の欲望によって形作られるという。この欲望は、死者への悲しみに置き換えられる。死者を悲しむのは、他者の悲しみによって形作られるということだ。

 ラカンは、欲望は生を支配し欲望は「欠如」の別名なのだという。わたしたちが社会(言語)に投げ出されたということは、すでに、欲望も愛も悲しみも、そういった情のようなものが絶えず生成される仕組みの中に投げ出されたということなのだ。ラカン的に言えばそういうことになる。それは、投げ出された世界が、決定的に不完全であり、欠如に満ちているからだ。私たちはそのような世界から逃れようとしながら、同時にそのような世界に浸ろうとする。たぶん、それは、欠如を本質としたこ世界のあり方なのだろう。

 そこまで難しく語らなくてもいいが、とにかく、わたしたちは、情にとらわれる。それは、泣いたらすっきりする、ということではない。悲しみを忘れることはある意味で、忘却し新しい未来につなぐ直線的な時間の上を生きる事だが、情は、その時間に抵抗する。情には、新しさや未来を指し示す機能はない。ただ現在があるだけだ。しかもかなり不安定な。だから、そこに失われた死者、つまり欠如が亡霊として現れる。やはり、わたしたちは、欠如をこの世に顕さないと気が済まないのである。

 ただ、この亡霊は歌という身体化された表現の様式によって現れたものだ。この亡霊を現すためには、身体の反射的な反応である悲しみをいったん断ち切らないといけない。つまり、死者に対してただ泣き叫ぶ段階を抑圧することで、初めて、歌という言語形式による情の喚起が可能となるということだ。

 以上のようなことを話したのだが、それなりに伝わったと思っている。

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