留学生と読む「都市と農村」2014/07/05 11:49

 ブログ久しぶりです。激動の一月に何とか一区切りがついた。ここ数年こんなに忙しいのは初めてだった。まず、7月13日に学会で発表することになっていて、その準備が大きな仕事としてあった。中国から来た大学院生と「都市と農村」の読み合わせを週2回行った。これがハードであった。まず大学院生が「都市と農村」の柳田の文章を各章ごとに要約し、それを私が要約した文章と照らし合わせながら読んでいったのだが、これが実に大変だった。今まで大ざっぱに読んでいたことがよくわかった。丁寧に読もうとすると、何を言っているのか分からないところがけっこうあるのである。

 学校の雑務も多かった。それに授業の準備。短歌誌への時評とため息の出る日々が続いた。何とか乗り切ったが、体重が減らないのは困ったものである。少しオーバー気味で、私の場合、血圧や心臓への負担がますので減らさないといけないのだが、仕事が忙しいと運動不足になる。それが原因だ。

 「都市と農村」の柳田の文章は実に読みにくいのだが、理由はよくわかる。この中で、柳田は、小作農の組合運動を評価し、資本主義によって日本の社会がいかに悪くなって行ったかを力説するのである。これは、ストレートにかたれば、当時のマルクス主義の主張とほぼ同じである。むろん、柳田は貧しい者たちが、横の連帯を模索し、権力にただ服従するだけでは何も解決しないと言っているだけで、マルクス主義運動を肯定しているわけではないが、昭和初期の左翼に対する弾圧の政治的状況を考えれば、柳田の発言は、危険である。つまり、かなりまわりくどく、晦渋な文になるのは、そういった事情にあると言えるだろう。

 中国の留学生は「都市と農村」を中国の農村と都市の比較の問題として論文を書くという(それなら「都市と農村」を読まないとだめだと私がアドバイスしたのだが)。柳田の言っていることは、ほとんど中国が抱えている農村の貧困の問題と合致する。柳田は、農村における失業の問題が都市に悪影響を及ぼすとしているが、それはつまり、農で食べて行けない農民が大量に都市に出て、都市での格差問題を発生させるからだ。だから、柳田は、農村に農以外の産業をどう育てて、農民が農以外でもそこで仕事を得て、暮らしていけるようにするのが重要だと述べる。実は、江戸時代までの日本の農村ではそういう仕組みがあったのだという。農村には「添え稼ぎ」という仕事があって、これでけっこう食べていた農民が多かったという。だが、近代になって都市の産業が資本を投下して「添え稼ぎ」で作っていた品物を大量に生産しはじめ、農村の「添え稼ぎ」の仕事は立ちゆかなくなり、それが農村の疲弊をさらに促進させたというのである。

 これは、現在の中国の農村問題にもそのままあてはまる。中国は今膨大な数の農民が貧困層になり、都市への出稼ぎに行かざるを得なくなっている。が、日本と違って、彼らは、都市戸籍はもらえないので、都市に出ても中間層になれない。この問題の解決には、地方で産業を起こして仕事か出来るようにすることだが、最近さすがに中国でも地方小都市の産業化に力を入れているという。

 むろん、それだけでは問題は解決しない。留学生に、日本でベストセラーになった『里山資本主義』をプレゼントしたが、この問題の解決は、経済の際限のない拡大を目指す拡大資本主義路線では無理だということである。地方は地方の経済圏のなかで、生産と消費を持続的に安定させる経済のバランスがあればいいので、そのバランスを国家の大きさでも維持するという発想が、「里山資本主義」であり、人口減少社会での新しい経済の仕組みにならなければならない、ということである。

 グローバリズムのなかの拡大経済成長路線は、富の拡大が貧困層にも行き渡るはずだという幻想によって支持されてきたが、それが嘘であり、逆に一部に富が集中することはすでに世界中で証明されている。日本も中国もそれは同じである。都市を中心として資本主義路線は地方の自立的経済を破壊し、都市に人口を一極集中化させ。その結果、都市に格差が生じて都市も疲弊していく、というのは、柳田が「都市と農村」で何度も警鐘をならしていたことだが、これは、今の東京と地方の問題にそのままあてはまるし中国でもあてはまる。特に、超高齢化社会を迎える日本と中国は、経済の規模を縮小せざるを得なくなる。それを考えれば、昭和初期に柳田が力説していたことは、今でも充分に通用するのである。

 こんなことを中国からの留学生に解説してきたのだが、どこまで理解されかはよく分からない。ただ、とても優秀だからわかってはくれたと思う。中国は一人っ子政策の影響で間違いなく超超高齢化社会になる。日本はすでになっている。この共通問題を互いに協力して解決する道を探ることが互いの利益だろうと思うのだが。

慰霊と情2014/07/16 00:33

 日曜日に民俗学の学会での発表。私は属していないのたが、頼まれての発表だったので緊張したが何とか無事に終わりほっとした。こういうのを他流試合というのだろうか。別に、勝負をしたわけじゃないが、専門でないのに、それらしくプロの前で発表するのはさすがに気が重かった。

 慰霊における情の問題について論じた。民俗学や宗教学の人たちかきていたが、たぶん、死者に対する生者の情について、何故情にとらわれるのか、という問いは作らない。これは、文学研究かもしくは心理学の分野になる。その意味では、自分の専門に近づけて話は出来た。

 心理学の知識も少しは使った。フロイトの「悲哀の仕事」というもので、人は近親者の死から立ち直るときに、ある一定の心理的な段階を踏むという理論である。いずれにしろ、人は立ち直る。社会秩序というものも、この立ち直ることを前提に構築される。つまり、いつまでも立ち直れないものは、病として社会からも排除されるのである。

 しかし、人は、ある形式を通して情をかき立てられ悲しむことを繰り返す。これは何故なのか。結論を先に言えば、この立ち直る生のあり方への抵抗であるということだ。これもまた生なのである。むろん、病にならない仕組みがあって情は喚起される。例えば挽歌のような歌は悲しみを喚起させるが、立ち直れないほどには悲しませない。

 丸山隆司の「海ゆかば論」を使ってこの情の問題について展開してみた。「海ゆかば」は戦意高揚歌として作られたが、実際は戦死者の挽歌のように歌われた。戦争中この歌を歌うとみな泣いた。この歌が情を喚起し、そしてその情を鎮めたからである。この、喚起し鎮めるというのが歌の働きなのだと言えないこともない。

 とすると何故人は歌うのか、という問いが成立する。それは、悲しみの出来事を忘れるように生きることやあるいは秩序の構築といったものに、逆らいたいからだ。何故、逆らいたいのか。ここまで突きつけられると、もうフロイトでは対応出来ない。ラカンの出番だ。ラカンは、欲望とは、他者の欲望によって形作られるという。この欲望は、死者への悲しみに置き換えられる。死者を悲しむのは、他者の悲しみによって形作られるということだ。

 ラカンは、欲望は生を支配し欲望は「欠如」の別名なのだという。わたしたちが社会(言語)に投げ出されたということは、すでに、欲望も愛も悲しみも、そういった情のようなものが絶えず生成される仕組みの中に投げ出されたということなのだ。ラカン的に言えばそういうことになる。それは、投げ出された世界が、決定的に不完全であり、欠如に満ちているからだ。私たちはそのような世界から逃れようとしながら、同時にそのような世界に浸ろうとする。たぶん、それは、欠如を本質としたこ世界のあり方なのだろう。

 そこまで難しく語らなくてもいいが、とにかく、わたしたちは、情にとらわれる。それは、泣いたらすっきりする、ということではない。悲しみを忘れることはある意味で、忘却し新しい未来につなぐ直線的な時間の上を生きる事だが、情は、その時間に抵抗する。情には、新しさや未来を指し示す機能はない。ただ現在があるだけだ。しかもかなり不安定な。だから、そこに失われた死者、つまり欠如が亡霊として現れる。やはり、わたしたちは、欠如をこの世に顕さないと気が済まないのである。

 ただ、この亡霊は歌という身体化された表現の様式によって現れたものだ。この亡霊を現すためには、身体の反射的な反応である悲しみをいったん断ち切らないといけない。つまり、死者に対してただ泣き叫ぶ段階を抑圧することで、初めて、歌という言語形式による情の喚起が可能となるということだ。

 以上のようなことを話したのだが、それなりに伝わったと思っている。

「項羽と劉邦」観終わる2014/07/27 00:36

 ようやく、前期も終わりに近づこうとしている。暑くてたまらないので、土日は山小屋へ避難。さすがに涼しい。ここで仕事である。雑務はそれなりに多い。といっても久しぶりの休みで、ここ一ヶ月、土日含めてほとんど休む暇がなかった。

 夏はいつものように中国への調査に行くが、今回は二週間ばかりなのでいつもよりは長くなる。科研費で行くのだが、その書類作りが面倒で大変である。税金で行くということなので仕方がない面もある。あの理研のように何億も使ってあげくに論文撤回みたいなことはわたしたちにはあり得ない。だいたい、費用といってもほとんどが中国への交通費と宿泊代、現地での通訳代くらいのものである。そんなに予算が多くないので、自腹での出費も覚悟している。私たちの仕事は、これまであまり関心が向けられてこなかった、小数民族の口承と文字との関わりに焦点をあて、その資料を集めるという作業なので、画期的な発見などということにはならない。そこが、文系の研究らしさであり面白いところである。

 先日、「項羽と劉邦」のDVDを見終わる。全40巻(80話)であった。中国の長編歴史ものは、だいたい観ている。といっても、他には「三国志」「曹操」「創世の龍・大唐建国記」「孫子兵法」だけだが。中国の面白い戦記ものは、やはり、「項羽と劉邦」と「三国志」に尽きるであろう。「項羽と劉邦」は日本で言えば秀吉の天下取りの物語に匹敵すると言っていいか。「三国志」ほどのスケールはないが、ならず者から漢の皇帝に成り上がる「劉邦」の物語は、それなりに見応えがある。

 低い身分のものが、才覚と人を惹きつける魅力だけで天下を取る成功譚は、やはり面白い。項羽のような勇猛な英雄が、プライドに縛られ、猜疑心にさいなまれ人心を失っていく様は哀れだが、これもまた物語の常道である。「三国志」もそうだが、「項羽と劉邦」も人間がよく描かれている。戦争場面は同じ映像の使い回しだが、人物の描き方だけはなかなか凝っていた。「劉邦」の役者は最初は老けすぎて違和感があったが、次第に馴れてくるとはまっていった。

 しかし、なんといってもはまり役は、劉邦夫人の呂雉と韓信である。呂雉はさんざんに辛い目にあいながら皇帝の后となり、残虐な粛正を行う。その気丈さと怖さをにじみ出していた。韓信は統一後呂雉に殺されるのだが、何を考えているのだかわからない、ただの軍事おたく的な感じがよく出ていた。項羽は、「三国志」で呂布を演じた役者で、ほとんど呂布と同じ。もう少し知性があった方がいいだろうというのが感想。

 こういう歴史時代劇の面白さは、民主主義的な人間、つまり自由であると考えている人間が一人もでてこないところにある。また、資本主義社会の欲望もない。これだけで充分に面白いのだ。描かれる人間は、義とか、主従の掟とか、あるいは宿命とかいったものを背負いながら、一方で、情に縛られる。戦争だから命のやりとりがあり、合理的に振る舞わなければ負けてしまう。だが、人そのものはそれほど合理的に生きていない。合理的であろうとした信長は結局殺される。結果のわかっているこういった歴史ものには、どういう振る舞い方、生き方をすれば、歴史の勝利者になれるのだろうかという関心に支えられているのだろうと思える。が、実際は、ほとんどは勝利者になれなかった人物群で満ちているのだ。むしろ、そちらに共感を感じる、という読み方もまた多いのに違いない。私などもそうだ。

 「キングダム」の35巻が出たので、買って読了。こちらは、単純に、信はこれからどうなるのだろうという興味。いずれ信の属す秦は滅ぶ。が、信が何処まで出世しどんな英雄になるのか知りたい。史実でない歴史ものの面白さである。