中国の留学生柳田を読む2014/05/16 23:46

 久しぶりのブログである。さすがに忙しいと書く時間がとれない。連休を終えて、学会の大会も終えて、雑務もこなしながらと、ただせわしなく動き回っていた。自分の勉強の時間をあまりとれなかったのが残念だ。

 同じ勤め先のE君の大学院の授業に中国からの留学生が来ている。何でも柳田国男で論を書きたいということなので面倒見てくれないか、と言われた。柳田研究をしている中国の大学院生に興味があったので会ってみた。

 こがらな女性だったが、驚いたことに、日本に来て2ヶ月だというのに日本語は堪能である。柳田は中国の大学で読んでいたという。中国語に訳されていたものや柳田の研究書を読んでいたという。原書は読んでみたがなかなか難しいと語った。何をテーマにしているのと聞いたら、農村と都市の問題を論じたいというのである。

 それで、私としては、まず「都市と農村」と「明治大正史世相篇」をテキストにして、この二冊を原書で(要するに日本語で)丁寧に読み込むことから始めようと提案した。特に「都市と農村」は日本人が読んでも難しい。柳田はかなり遠回りの表現で論じているのでその意図を捕まえるのが難しい。テキスト熟読の話をしたら、「都市と農村」をひとととおり読んできた。やはり難しいと言う。

 そこで、週1回私とテキストを熟読する時間を作ることにした。そういうこともあって私も「都市と農村」を読み返してみたが、けっこういろいろな発見があって面白かった。この本は、ほとんど農村のコミュニティ論であるとみなしていい。柳田は、農村こそが都市を生成する文化や生産技術の源であると論じる。つまり、農村は生き残るために稲作以外の多様な生産を行っており、農民は自由に知恵と工夫で自立の方法を探求していた。ただ、日本の農地は狭くてたくさん人を養えないから村を出ざるをえなくなる者がでてくる。そういうものたちが都市に流入し都市の文化や生産に大いに力を発揮したのだというのである。だが、やがて、都市が資本主義社会そのものになると、村での様々な生産物は都市の生産物に取って代わられ、お米しか生産しなくなる。そのことが、ますます日本の農村を貧しく疲弊させていったのだという。ひへいすればますます農村から都市へ人が流入し、その結果失業者も増え、都市もまた疲弊していくのだと述べる。

 農村は様々な問題を自分たちで解決してきたし、自分たちの食料や生活を支える様々な物を生産し得る技術も持っていた。つまり、コミュニティとして自立し得る地域共同体であった。そのような村のあり方を見直すべきだというのが柳田の主張である。そうであってこそ、都市もまた適度の人口を保ちながら活性化するのであって、その意味でも、農村の自律的な復活こそが都市と農村の問題を解決する道である、というのが柳田のどうやら言いたいことである。

 たぶん、留学生もそのように読み取っていくだろう。問題はその読み取った問題意識を、現在の中国の都市と農村の問題を論じる際の重要な見方として普遍化できるかどうかだ。かなり頭がよさそうで、しかも問題意識も明確なので心配することはなさそうだ。昭和初期に起こっていた日本の農村と都市の問題は、今中国ではもっとドラスチックに起こっているのである。とにかく、都市と農村の格差が拡大し、開発の名のもとに農村はどんどん消滅していっている。とすれば、柳田の理想とするような農村の自立は、やがてくるであろう拡大路線の破綻後をかんがえざるを得ない中国にとっても重要なテーマであろう。中国において、柳田のいうような意味での農村のコミュニティは本当に成立するのかどうか、私も知りたいところである。

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