富裕層のコミュニティ2014/04/23 01:35

 時評の原稿、短歌評論家菱川善夫論を何とか書き終えた。短い文章だが、これを書くために700頁二段組みの「菱川善夫評論集成」を読んだ。こういう仕事を引き受けなければ決して読み通すことはなかった評論集だった。その意味では、よかったと思う。本を読むことも出会いだからで、最近は、なかなか出会いがないので、書評とか何かについて書いてくれという仕事はありがたい。これでようやく柳田国男に取り組める。

 校務は相変わらず忙しい。学会の用事もあって月から土まで毎日出校。連休で何とか一息といったところだ。窓から見る木々が新緑から濃い緑になってきた。季節はきちんと動いている。

 今日のクローズアップ現代はなかなか興味深かった。アメリカでは、富裕層が自分たちで自治体を作り、富裕層だけのコミュニティを作る動きが各地で起こっているというリポートである。その自治体は、徹底して民営化され、警察や消防署をのぞいてすべて民間委託される。その結果、自治体の経費が安くなり、払う税金が少なくて済む。むろん、民間委託の公共サービスは有料となるから、金持ちしか住めない自治体となる。何故このようなことが起きているかというと、アメリカの1パーセントの富裕層が、貧困層のために自分たちの税金が使われるのを不合理だと感じていることによる。

 富裕層の自治体には他の地域から富裕層が越してくるから人口が増えている。逆にその結果として、富裕層のいなくなった自治体は税収が減り公共サービスが行われなくなり荒廃していく。つまり、アメリカは、個人のみではなく、コミュニティそのものの格差が進んでいるということである。

 自分たちの自治体を作る富裕層の論理は、アメリカのティーパーティが、国民医療保険を進めるオバマに激しく反対したのと同じ論理である。格差をなくすために富を再分配するという公共的な精神はそこにはない。むしろ、階層化した自分たちの利益を守ろうとするための公共性しかない。

 最近、公共性をどう作るかということを考えている身としては、この番組はとても衝撃を受けた。ハンナ・アーレントは、アメリカの公共性の作り方を賞賛した。郷土意識や民族主義にとらわれず、独立した個々人が民主的手続きによって自分たちのコミュニティを作り、そこで起きる問題を自分たちで解決していく、そういう公共性の作り方に、コミュニティの理想を重ねたのである。確かに、アメリカは移民が作った国であり、古い伝統的な民族意識に縛られず、地域住民の意思が共同体形成に反映される。が、アメリカは、土着のインディアンをコミュニティから排除した。その排除によってアメリカの公共性が生まれたことを、アーレントは見逃していた。

 結局、自由な個々人による公共性の創出という理想を描いたとき、その個々人が、自分たちとは異質な貧困層や弱者、あるいは外部存在をそのコミュティの成員として許容し得るということを踏まえたうえで描いているのか、と問うたとき、建前では同意するとしても、たぶん、現実ではそうではない。何故なら、コミュニティ創出は、自由な意志による個々人の集合による合目的な共生空間の創出であるからで、もし、その目的性に合わないと感じればそこから逃れる自由を持つのである。とすれば、実際には、利害を共にする同じ階層の人々がそれぞれにコミュニティを作る、ということになる。富を持つコミュニティは、持たないコミュニティからの流入を拒否し異質なものを排除するだろう。それが今アメリカで起きていることである。

 国家は、格差を是正するための富の再分配装置でもある。今アメリカで起こっていることを防ぐには、国家をより大きくし、税金を高くして福祉政策の充実した福祉国家にしていくということになるが、そうすると、国家は肥大していく。税金は効率的に使われず官が権力を握り、赤字は増え、結果的に福祉政策は破綻していくことになる。

 やはり、国家を肥大化させ国民全員を福祉の受益者層として一律に扱うようなシステムは、問題の解決にならない。私は、やはり、地域毎のコミュニティ単位で、富の再分配を、コミュニティの誰もが関与する形で行うような仕組みが必要だと考える。ただ、その場合、自由な個人の公共への参加によって、という理想論では、結局、排除の論理が起きることになる。

 一つの考え方になるが、公共性としてのコミュニティを、自由な個人の集まりだけでな、そこにはそのコミュニティの自然性、身体性、無意識といったものを切り捨てない、という合意があるべきだと思う。それらは、人を、その土地や人との関係、あるいは幻想(宗教)によって、あらかじめ縛り付けている何かである。自由な個人を価値とすると当然そういったものは呪縛そのものになり、克服すべき対象になる。が、それらは、誰もが抱え込んでいるものである。対象化しそれをただ否定するのではなく、それを受け入れながらも、多様な価値観や他者を許容するコミュニティをどう作るか、という発想が必要なのだ。(実は民俗学が関与できるのはこういう発想で考えたときである)

 そういう発想が出来ないと、富裕層ではないわれわれは、膨大な赤字を抱えた大きな国家に依存し、いつ破綻するか不安を抱えながら、非効率的なシステムにあぐらをかいて税金の中間マージンで暮らしている官僚や政治家にただ服従するしかない人生を送ることになる。考えたくもない人生である。

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