「ばらばら」と「統一」2014/04/07 00:49

 桜ももうすでに散り始めている。マンションの自慢の庭の花見は来週に決まったが、すでに花は残っていないかも知れない。窓から見る桜ももう葉桜だが、地面に花びらが散ってその模様がきれいである。ブログもしばらくぶりだ。仕事が忙しいわけではないが、いろいろと読む本が多すぎて時間がとれない。

 短歌時評で菱川善夫について書かなければならず、分厚い批評集を今読んでいるところだ。同時に、柳田とコミュニティ論関係の本を読みすすめている。

 入学式も終わり、今ガイダンスの最中である。もう、学生は履修登録を開始しているだろう。今はウェブサイトで登録だからあっというまに登録が完了してしまう。授業を開かなくても、受講人数は一目でわかる。そのため、人数が基準を下回って少ないとあらかじめその授業を開くかどうか打診がくる。昔は、学籍名簿は五月の連休明けにならないと出来てこなかったが、今では、授業開始前にすでに名簿がわかるのである。いやはや、管理テクノロジーの進歩はスゴイと言うべきか。

 幾つかのコミュニティ論を読んで感じたのは、結局、管理という問題をどうするのだろうということだった。管理というと負のイメージだか、管理は必ずしも権力ではない。むしろ、共同的な世界を維持するシステムであると言った方がいいと思うが、ただ、一定の強制力を伴う。問題はここで、強制力の根拠を共同体の成員が共有出来ているかどうかが、その管理の質を決める。

 建築家にとってもコミュニティ論は現在的な課題らしい。つまり新しい公共的な空間を建築物としてどうデザインするかが、今問われているということだ。公共の建物にしても、住宅にしても、多様な価値観や文化を持つ人々の繋がりあうような空間をどう作るか、ということである。そこで出てくるコンセプトが「バラバラ」と「統一」のハイブリット空間ということだ(『地域社会圏モデル』inax出版)。 

 都市社会で、人はばらばらに生きている。それは、適度な孤独や非効率的な振る舞い、そういったことに快適さを見出している。一方で、繋がりを求め、生活空間の効率性を重視している。つまりわれわれは矛盾しているのだ。建築家にとってそのどちらかではなくて、それらの要素を一緒くたに実現するデザインが現在のテーマということである。つまり、そこに集う人々のばらばらなあり方を尊重する管理のデザインをどう作るか、ということになる。

 これは建築だけではなく、新しい公共空間をどう作っていくか、という場合も問われる問題だろう。統一(管理)を担う一部の権力好きな政治家や官僚が、ばらばらな人々を、均一な大衆として管理する、というのが現在の公共性のあり方である。そうではなく、バラバラなひとたちが、一方で自分たちをどう管理するか考え合意していく、というプロセスのあるコミュニティをどう作るか、ということであり、それが理想である。

 これは、マンションの管理組合が直面する問題とある意味同じである。私の住むマンションは日本のコーポラティブハウスのはしりで、いろんな問題を住民同士で話し合いながら解決している。特に、何かあるとコミュニティボードである白板に意見を書き込み、全員に意見を聞いたり、○×をつけてもらって評決を取るという手法をとる。なかなかユニークなのだが、それでも、トラブルになることはある。人と人との関係につきものの感情が時に入ることもあるからだ。バラバラ感の尊重と統一への合意形成はなかなか難しいのであるが、けっこううまくいっている。例えば、年二回、花見と忘年会を住民同士で行うが、この費用は管理費から出る。多少のトラブルでも耐えうる住民の関係の強さはこのようなイベントで鍛えられるのである。

 今考えているのは、このようなコミュニティのテーマと柳田民俗学がどのようにクロスするかなのだが、まだよくわからない。

富裕層のコミュニティ2014/04/23 01:35

 時評の原稿、短歌評論家菱川善夫論を何とか書き終えた。短い文章だが、これを書くために700頁二段組みの「菱川善夫評論集成」を読んだ。こういう仕事を引き受けなければ決して読み通すことはなかった評論集だった。その意味では、よかったと思う。本を読むことも出会いだからで、最近は、なかなか出会いがないので、書評とか何かについて書いてくれという仕事はありがたい。これでようやく柳田国男に取り組める。

 校務は相変わらず忙しい。学会の用事もあって月から土まで毎日出校。連休で何とか一息といったところだ。窓から見る木々が新緑から濃い緑になってきた。季節はきちんと動いている。

 今日のクローズアップ現代はなかなか興味深かった。アメリカでは、富裕層が自分たちで自治体を作り、富裕層だけのコミュニティを作る動きが各地で起こっているというリポートである。その自治体は、徹底して民営化され、警察や消防署をのぞいてすべて民間委託される。その結果、自治体の経費が安くなり、払う税金が少なくて済む。むろん、民間委託の公共サービスは有料となるから、金持ちしか住めない自治体となる。何故このようなことが起きているかというと、アメリカの1パーセントの富裕層が、貧困層のために自分たちの税金が使われるのを不合理だと感じていることによる。

 富裕層の自治体には他の地域から富裕層が越してくるから人口が増えている。逆にその結果として、富裕層のいなくなった自治体は税収が減り公共サービスが行われなくなり荒廃していく。つまり、アメリカは、個人のみではなく、コミュニティそのものの格差が進んでいるということである。

 自分たちの自治体を作る富裕層の論理は、アメリカのティーパーティが、国民医療保険を進めるオバマに激しく反対したのと同じ論理である。格差をなくすために富を再分配するという公共的な精神はそこにはない。むしろ、階層化した自分たちの利益を守ろうとするための公共性しかない。

 最近、公共性をどう作るかということを考えている身としては、この番組はとても衝撃を受けた。ハンナ・アーレントは、アメリカの公共性の作り方を賞賛した。郷土意識や民族主義にとらわれず、独立した個々人が民主的手続きによって自分たちのコミュニティを作り、そこで起きる問題を自分たちで解決していく、そういう公共性の作り方に、コミュニティの理想を重ねたのである。確かに、アメリカは移民が作った国であり、古い伝統的な民族意識に縛られず、地域住民の意思が共同体形成に反映される。が、アメリカは、土着のインディアンをコミュニティから排除した。その排除によってアメリカの公共性が生まれたことを、アーレントは見逃していた。

 結局、自由な個々人による公共性の創出という理想を描いたとき、その個々人が、自分たちとは異質な貧困層や弱者、あるいは外部存在をそのコミュティの成員として許容し得るということを踏まえたうえで描いているのか、と問うたとき、建前では同意するとしても、たぶん、現実ではそうではない。何故なら、コミュニティ創出は、自由な意志による個々人の集合による合目的な共生空間の創出であるからで、もし、その目的性に合わないと感じればそこから逃れる自由を持つのである。とすれば、実際には、利害を共にする同じ階層の人々がそれぞれにコミュニティを作る、ということになる。富を持つコミュニティは、持たないコミュニティからの流入を拒否し異質なものを排除するだろう。それが今アメリカで起きていることである。

 国家は、格差を是正するための富の再分配装置でもある。今アメリカで起こっていることを防ぐには、国家をより大きくし、税金を高くして福祉政策の充実した福祉国家にしていくということになるが、そうすると、国家は肥大していく。税金は効率的に使われず官が権力を握り、赤字は増え、結果的に福祉政策は破綻していくことになる。

 やはり、国家を肥大化させ国民全員を福祉の受益者層として一律に扱うようなシステムは、問題の解決にならない。私は、やはり、地域毎のコミュニティ単位で、富の再分配を、コミュニティの誰もが関与する形で行うような仕組みが必要だと考える。ただ、その場合、自由な個人の公共への参加によって、という理想論では、結局、排除の論理が起きることになる。

 一つの考え方になるが、公共性としてのコミュニティを、自由な個人の集まりだけでな、そこにはそのコミュニティの自然性、身体性、無意識といったものを切り捨てない、という合意があるべきだと思う。それらは、人を、その土地や人との関係、あるいは幻想(宗教)によって、あらかじめ縛り付けている何かである。自由な個人を価値とすると当然そういったものは呪縛そのものになり、克服すべき対象になる。が、それらは、誰もが抱え込んでいるものである。対象化しそれをただ否定するのではなく、それを受け入れながらも、多様な価値観や他者を許容するコミュニティをどう作るか、という発想が必要なのだ。(実は民俗学が関与できるのはこういう発想で考えたときである)

 そういう発想が出来ないと、富裕層ではないわれわれは、膨大な赤字を抱えた大きな国家に依存し、いつ破綻するか不安を抱えながら、非効率的なシステムにあぐらをかいて税金の中間マージンで暮らしている官僚や政治家にただ服従するしかない人生を送ることになる。考えたくもない人生である。