コミュニティ論もなかなか難しい2014/01/28 00:06

 すでに学期末で、期末試験の季節である。来週には入試が始まる。私の授業は演習系が多いのでレポートが中心。これからレポートを読むのが大変である。

 大変な時期を控え、とりあえず今は読書。最近コミュニティ論に興味があって読み始めているのだが、コミュニティ好きを「コミュニタリアン」というらしい。最近のコミュニティ流行を「コミュニティインフレーション」とも言うようだ。「コミュニティイリュージョン」という言葉もある。コミュニティに幻想を持ちすぎることへの皮肉な言い方のようだ。

 コミュニティ論が流行るのは、過疎化や産業の衰退で疲弊した地域再生の方法として、地域住民のコミュニティ意識による地域活性化の取り組が注目を浴びているということがあるが、特に、震災以降の地域復興としてコミュニティが見直されていることもある。大きくは、巨額な赤字を抱え制度疲労を起こした日本の国家システムが当てにならなくなってきたということ、あるいは、グローバリズム資本主義に翻弄される日本経済も人口減少を控えて成長がは見込めなくなってきたことなどによって、コミュニティレベルから経済や公的な仕組みをとらえかえそうという動きが起こってきたとがある。言い換えれば、近代国家が作り上げてきた公的仕組みへの不審によって、自分たちで公共的な仕組みに参加するもしくは構想せざるを得ないという動きがあちこちで起こっているということでもある。

 その意味で、コミュニティ論は、具体的な街の再生の仕方のレベルから、それこそ、国家という制度に代わり得る共同性の水準を構想するという革命的なものまで幅が広い。国家や共同体とは何か、といった大きな物語になればイデオロギーが見え隠れする。その意味で読んでいて面白い。

 吉原直樹『コミュニティ・スタディーズ』(作品社)は、現在のコミュニティ論をほぼ紹介しているという意味では、タイトル通りの本だ。コミュニティ論が抱えている問題点もよくわかる。この本多少左翼的イデオロギーが入っているところもあって、同世代だということがよくわかる。

 吉原のコミュニティ論の理想は、人と人とが触れ合うような関係であって、排他的でなく、多様な他者を受け入れる寛容性を持ち、かつ、それぞれの成員が創発的に公的な世界を構築し得る、そういうコミュニテイである。例えば、かつて近代日本で作られた町内会は、排他的であり、国家の公的な仕組みの補完でしかなかったと手厳しい。また、グローバリズムも否定するのではなく、上手く併走すべきものとしてとらえる。何故なら、グローバリズムは、人と人とが多様に関わり得る関係を新たに作る広がりでもあるからだ。言い換えれば地域に閉じられたコミュニティというのではなく、様々な関係の寄り集まった共同的世界とみたらいいのだろう。

 むろん、そんなコミュニティは可能なのか、と問われるだろうが、理想は理想として、あり得るべくコミュニティ論はそこへ落ち着くというのはよくわかる。広井良典『コミュニティを問い直す』(ちくま新書)は、その理想としてのコミュニティの必要性を、現代の経済や政治の限界の先にあるものとして丁寧に説いた本だ。経済成長で全てが解決する時代が終わった今、国家も地域共同体も、富の再分配の新たな仕組みが問われている。それは「公-共-個」の新しい役割を作ることだという。つまり伝統的なコミュニティではなく、新しい個の関係性によって作られる共であり、公がその共に補完的にクロスしていくべきだと説く。例えば個同士の発案や協働によって福祉コミュニティのような仕組みが作られ、その不十分な分を公が補うような半公的システムと考えればいいのだろうか。最近様々なNPOが立ち上がっているが、それも公の代替としての新しい共の動きということである。

 しかし、それなら公はどうなるのか。むろんその役割を縮小していくということになるが、コミュニティ論が過激になる国家をなくす、というところまで発展する。つまり、反国家イデオロギー論者にとっての公とは権力そのものだが、その権力をなくせるのだろうかと言うことである。理想的コミュニティ論のイメージは、多様な価値観を持つ者同士が集まって、異質さを排除しないで多様な価値を認め合う共同の生活空間、あるいは相互互助的な仕組みを作って行こうというものである。が、問題は、異なった意見や価値観をどうまとめるか、ということになる。特に、緊急性が求められる場合、多様な意志をまとめて一つの方針を出すのは簡単ではない。例えば自分の意見を譲らない者、決定された意見に従わない者もいるはずだ。が、コミュニティが機能するためにはそういった反対者を従わせる力が必要となる。この力を権力というわけである。この力を独占的に握ったシステムを国家と言ってもいい。問題は、どんな小さなコミュニティもこの力を全く否定は出来ないということである。

 この点を鋭く問うているのが萱野稔人『ナショナリズムは悪なのか』(NHK出版新書)である。たまたま読んだ本だが、コミュニティ論と関わらせて読むと案外参考になった。この本は国民国家を維持する物理的暴力性について論じたものだが、それは例えば民主主義を維持するための暴力性とも置き換えられる。物理的強制力のない自由主義などというものもない。仮にあるとすれば、それは内面の一致をすでに強制する仕組みをもつからで、それは宗教である、という。つまり、物理的強制力のない国家は現実には存在しないし、国家を悪として多様な価値観を受け入れる共同体を夢見たとしても、それは、反対者に対してどう振る舞うのかという嫌な面を見ないことにおいて成立する、という。だから、反権力、反国家を唱える理想論者が、権力に近づいたとき、自分の理想論の反対者を暴力的に排除し、結局国家主義あるいは権力を反復してしまうのだという。

 この本タイトルがやや過激だが、内容は読ませる。結局、コミュニティを機能させるためには権力は避け得ない。としたら、それをなくすのではなくどうコントロールするのか、そのように考えるべきだということだろう。なくすべきだという理想論者は必ず自ら権力を反復する。それは、歴史が証明していることである。結局、コミュニティ論も、権力としての公をどうコントロールしていくのか、ということになるだろうか。
 
 コミュニティ論もなかなか難しい。