学会発表が終わる2013/05/11 23:48

 久しくブログを書いていない。どうしたんだろうと心配なさっている方もいると思う。元気です。ただ、学会発表の準備があって、ブログを書く時間がなかったということが理由である。私が事務局をやっているアジア民族文化学会で、私が発表するのだから、いい加減な発表は出来ないし、発表の内容も5年ほどかけて調査してきた漢調の歌掛けだから、これもいい加減には出来ない。資料作りが結構大変だった。

 ということで今日学会が終わり、発表も終わり、一段落でほっとしたというところである。発表の方も時間が無くてばたばたしたが、それなりに好評だったので、まあ責任は果たしたかな、というところだ。

 連休も山小屋にいたが、ほとんど資料作りに追われた。ただ、さすがに薪作りをしなければならん、というので、チェンソーで丸太を薪の長さに輪切りにして、薪小屋に積み上げた。これを今度は斧で割らなくてはならない。実はこの労働が気分転換になる。山小屋の楽しみでもある。

 雲南省の鶴慶という街は、少数民族白族の居住区であるが、漢族の人たちも割合居住していて、この地域では漢語で歌の掛け合いをしている。歌の様式というのは、民族や地域のアイデンティティを保証するものであって、その意味で排他的である。つまり、一緒に住んでいても、異文化に属すれば歌の様式は共有しないのが普通である。ところが、鶴慶では白族と漢族とが漢語で歌の掛け合いをする。歌文化の持つ排他性がここでは機能していないのである。むしろ、異質な二つの文化を結びつけている。

 むろん、漢語で歌うということは、漢族の支配言語に白族が取り込まれているのだという理解も出来よう。漢族の進出に少数民族の歌文化が次第に変容していっているのだ、という理解である。だが、そうではなく、同じ地域に違う民族が生活レベルで共存すれば、その地域の中で同じ歌文化を作ろうという動きが自然に出て来てもおかしくはない。そのようにむしろとらえるべきではないか、というのが、私の発表の趣旨であり、そのことは伝わったのではないかと思う。異なった民族同士の融和、といった大きな物語を導入するのではなく、その地域でたまたま一緒に住むことになった異なった文化を持つ人たちが、とりあえず流通する漢語でコミュニケーションできる歌を歌おう、という程度のところから生まれた歌文化、というのを見ようということである。

 実は発表では時間がなくて触れられなかったが、問答形式の持つ力だとも思っている。最近歌の問答論にこだわっているので問答論まで発展させたかったのだが、時間切れになってしまった。

 今日機関誌も刷り上がってきて、本当なら3月末出来てなくてはならなかったのだが、遅れてしまった。だが、かなり厚い機関誌が出来た。小さな学会にしては機関誌が立派である。これが自慢である。ただ、大会なのに来場者が少ない。小さな学会のこれが悩みである。来場者が少なくても、中身の濃いレベルの高い研究を続けていけば、それでいいと思ってここは辛抱である。まあ何処の学会でも同じ気持ちだとは思うが。

ラカンを読むと村上春樹は…2013/05/15 02:12

 学会資料の準備をしているあいだでも本は読んでいた。ラカンの解説本が主で、その他、村上春樹の『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』も読んだ。ラカン解説本は二度読みである。それくらい難しい。読んでいる時はわかるのだが読み終わってその論理を再構成しようとすると、うまく頭の中で再構成出来ない。どうもラカンという人は、そういうように精神分析の論理を作っているところがある。その意味では、私は正しい読みをしているのだと思う。というのは負け惜しみで、まだ読みが足りないというのが本当のところだ。でも、わからない割にイメージはつかめた。

 例えば、人間が人間であると思い込めることに何の根拠もないのであって、それは、言語のシステムにとらわれることでそう思っているに過ぎない、といようなこと。人間とは無根拠の上に構築された余りに脆い存在に過ぎない、ということ。言わば徹底したニヒリズムの上に構築された精神分析理論といったところだ。ラカンの精神分析を学習していると、普通に生きられていることが奇跡のように思えてくる。

 真実や本当の自分があると思うのは、言語にとらわれることでそう思わされているのであって、そのことで自己の向こう側の闇を見ないで済むということなのだ。だが、人間は不安から逃れることは出来ない。幼児期に、鏡像段階で、まだ分裂したままの自分を統一された自己として誤認することで獲得された自分は、いつまたばらばらになるか不安にさいなまれる。

 要するに人間はみな常に精神的な病を抱えているのであって、その病から解放されるのは死でしかないというのである。これじゃカウンセリングなんか出来はしないだろう。現に、日本ではラカン派は、カウンセリング理論としてはあまり用いられないという。確かに、人間のみならず、社会の分析理論として、哲学や思想として語られることが多い。

 カウンセリングの盛んなアメリカの自我心理学は、自我には不安によって葛藤する自己を安定させる調和的な力があると考え、カウンセリングはそのような自我を患者とともに見出して行く作業だというが、ラカン派は自我は葛藤を鎮めることは出来ず、嘘をついてごまかすことで病状として発症しないようにするだけだ、という。ラカン派にとって自我は嘘つきのことなのである。だから、患者に対しては、あなたが神経症なのは正しい、みんなそうなのだ、程度の差があるだけだ。みんな自分に嘘をついて発症しないように生きているのだから、自分の嘘を辿り直して、上手く嘘をついていきましょう、といったことしかラカン派は言えないだろう。

 たぶん、神や真理といった超越性が信じられていた時代は、人間の精神構造も、どこか、自らをコントロールし得る心の場所があって、それを見失ったことが精神の病だとする考えだったのだろう。それをひっくり返したのがフロイトであり、フロイト理論を受け継いだラカンだということだ。ラカンは、徹底して、人間の心に自らをコントロールできる安定したあるいは超越的な場所などないとする。そのように人間が思うとしたら、言語によってそう思うに過ぎない、ということだ。言語とは、他者である。つまり、言語という他者によって、人間は存在のよりどころを夢見る存在なのだ。だが、そこで夢見られるよりどころの根拠などどこにもない。不安に充ち満ちているのだ。なんとはかない存在だろう。

 村上春樹の『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』はカウンセリング小説である。割合面白く読んだ。だが、ラカンを勉強すると、村上春樹はまだ甘いと思わざるを得ない。何故ならカウンセリングが可能なように描かれるからだ。むろん、だからこそ、村上春樹の本は売れるのだし、そこに希望を見出すことも出来るのだろう。たとえ、心の底に誰もが闇を共有しているのだとしても、人とわかり合える余地を拒絶しない。そこのバランスが、村上ワールドの大事な勘所なのだ。この本の感想は次回である。

『色彩のない多崎つくると、彼の巡礼の年』をラカン的に読む2013/05/17 01:18

 村上春樹の『色彩のない多崎つくると、彼の巡礼の年』をラカンの理論で読んだらどうなるか。ラカンをまだ習熟しているわけではないので、心許ないのだが、案外うまく当て嵌まる気がするのだ。もっとも、村上の小説は、心の奥底に抱え込む闇を描くのをテーマにしているのだから、どんな精神分析理論でも適用可能であろう。

 精神病と神経症の違いをラカンは次のように考える。まず、人間は母からの離脱を誰もが経験する、この経験がなければ例えば言語活動が出来ない。この母子分離を促すのが父の役割である。子は父に対して攻撃的になるが父から抑圧される(結果としての去勢不安)ことで、別の父(言語であり社会である)との関係を見出す。この父をラカンは象徴的父とも「父-の-名」ともいう。母との分離を恒常的なものにするためには、象徴的な父は曖昧であってはならず、固有名を持たなければならない(象徴的な意味で)。それで「父-の-名」と呼ぶのである。この母からの分離を確かなものにする「父-の-名」との葛藤を経て、「父-の-名」は主体の無意識の中にしまい込まれ、一方主体は他者としての言語活動に取り込まれることで、社会生活が可能になる、ということである。

 精神病は、この「父-の-名」との葛藤が充分に行われなかったことに起因する。この葛藤が不十分であれば、母との分離が不安定なままであり、最初から抱え込んでいる心の闇が現れやすい状態になる。そこで、主体は、言語活動の中で新たに「父-の-名」を一から作り直して葛藤を出現させ、母子分離をやり直そうとする。それが精神病なのだという。新たに作り直される「父-の-名」との葛藤は、言語活動によって主体が「使われる」ことで現れる。どういうことかと言えば、現実のある対象が「父-の-名」として名指しされ、主体との葛藤の当事者にされるというように現れるのであるが、その行為自体は、主体が、言語に使われることである、ということなのだ。難しいが、私も全部理解したわけではない。

 強迫神経症は、相反する二つの欲望を持つ状態である。例えばそれは、①恋人を承認しない父から愛と承認を得たい、という欲望、②は恋人の愛を得たいという欲望。この二つの欲望を追求すれば必ずジレンマになる。このジレンマに陥ると人は生きているのか死んでいるのかわからない状態になる。これはよくわかる。何かを欲望したとき、そのことで自分が排除されるのではないかという不安、神経症とはそういうものだろう。欲望がなければ神経症もないということだ。ラカンは欲望は他者の欲望を欲望することだと言う。それは関係の中に人間が存在するということであり、その関係の中で構築される言語活動の中を生きていることであって、その言語活動によって、他者の欲望を欲望する、という関係のゲームが生み出されるわけである。つまり、強迫神経症であるジレンマもまたこの言語によって生み出されるものであろう。言い換えれば、言語活動を生きる限り欲望を持たないことはあり得ないのであり、神経症から逃れられることもない、ということになる。

 さてラカンの理論の一部を私なりにおさらいしてみたが、実は、これらの理論は、村上春樹の『色彩のない多崎つくると、彼の巡礼の年』の解説なのである。少しはおわかりいただけたろうか。

 まず主人公の多崎つくるは、理想的な共同体を目指したグループから排除されたことで強迫神経症にさいなまれる。彼は精神病になったわけではない。高校生の仲間との理想的共同体という「象徴的父」の承認を得ることと、彼らがそれぞれの個人の内部で密かに持つ欲望は相反してる、というジレンマ状況が、ついに破綻を生む。その破綻が、多崎つくるの排除という形で象徴的に現れたのである。この場合、シロの精神病は一つのきっかけにすぎない。多崎つくるは、解決のつかないジレンマにさいなまれる。象徴的父である共同体から承認を得たいという強い欲望をもっている。だが、そこから拒絶される。一方でその象徴的父が決して承認しない、メンバーの女の子へ欲望を抱え込む。この行き詰まりが決定的な外傷という形で到来したとき、彼は激しく消耗する。が、少年期でないことが彼の立ち直りを助け、彼は、二人の女の子の欲望をくすぶらせたまま、別の会社・仕事という象徴的父の承認のもとに生きていくのである。

 一方、シロは、完全な精神病である。象徴的な父との葛藤を経なかったシロは、多崎つくるを、自らを抑圧し対決しなければならない象徴的な父として、父との葛藤をもう一度生きようとするのである。何故多崎つくるだったのか、ひょっとすると多崎つくるの密かな欲望を感知していた、ということかも知れない。が、そのことは直接関係ない。多崎つくるでなければ他の誰かでも良かったのである。それが精神病というものなのだ。

 この小説はカウンセリング小説である。神経症の多崎つくるをカウンセリングする女性沙羅が現れる。彼女と多崎つくるの関係は、臨床心理士とクライアントの関係そのものである。この関係が擬似的恋愛関係になると言われる。それほどクライアントは依存するということだろう。村上春樹は、その依存を沙羅が裏切るように展開させるが、さてそこはどうなるやらである。多崎つくるは自分の強迫神経症の原因を解き明かす旅に出る。その結果、象徴的父の解体を知る。この時点で、彼は神経症から逃れられることが出来る条件を手に入れたのだ。だが、シロの問題が残る。が、これは多崎つくるとは直接関係ない。

 シロを救うために多崎つくるを排除したのは、明らかにメンバーの失態だったろう。眼前の葛藤の対象としての象徴的父を排除してしまつたら、その父は不在になり、シロはますます象徴的父をでっちあげざるを得なくなる。つまり、精神病は重くなるしかないのだ。

 多崎つくるはこれからどうなるか、というところでこの小説は終わる。村上春樹がラカン派なら、もっと深い絶望を味わう方向へと進むだろう。沙羅との恋愛も結局は、根底に抱えた不安を抑えるための防衛機制にすぎないことを知るまで。が、村上春樹の読者は村上がラカン派でないから読んでいるのだ。私もそうだ。人には不安や葛藤を鎮める安定した場所がきっとあるに違いない、たとえそれが幻想だとしても、というスタンスを崩さないのが村上のバランス感覚だ。絶望の方へ誘い込みながら、寸止めにして、希望を与えて閉じる。

 それにしても、村上の小説の神経症の主人公には、いつも沙羅のようなカウンセラーとしての女性が現れる。羨ましいといつも思う。この女性はなにを象徴しているのだろう。村上の母子分離はうまくいったのだろうか。興味あるところである。

エヴァンゲリオンと自我の物語2013/05/28 00:13

 授業もいよいよ佳境にさしかかったところだ。来週から勤め先では一週間にわたって授業見学会というものがあり、父母や教職員が授業を見て廻る。さすがに、この時は、いい加減というわけにはいかない。いつもいい加減にやっているわけではないが、それなりに工夫は必要だ。

 「アニメの物語学」は人気の授業であるが、どうも上手く進まない。授業で解説をしたあとに、DVDのアニメを見せるだが、なかなかこちらの見せたいシーンをうまく出すことができず時間を取られてしまい、結果的に授業の進度が遅くなり、ということで、なかなか先へ進まないのだ。

 今週は「エヴァンゲリオンからセカイ系へ」というテーマ。ここで話題となるのが、TV版(1995年)の終わり方と劇場版(1996年)の終わり方の違いである。TV版の最終章では、「人類補完計画」が発動していくなかで、碇シンジのカウンセリングの様子だけが延々と描かれる。シンジが自分はなにものなんだ、自分には価値があるのかと自問自答していく場面が続き、最後に出演者のみんなからあなたはそのままでも(つまり、成功体験を持たないだめたな自分であっても)生きる価値があるのよ、と承認され、みんなで拍手されて終わる。この終わり方が余りにひどいと非難の嵐が起こり、翌年作られたのが劇場版である。

 劇場版では「人類補完計画」の様子が映像としてきちんと描かれ、最後にアスカとシンジが人の形を留めて生き残る。やはり自問自答しながら、シンジはアスカの首を絞めようとするができない。涙を流すシンジにアスカは「キモチワルイ」と言って最後が終わるのである。この劇場版の終わり方を評価したのが宇野常寛で、TV版は、シンジが厳しい現実(未来が見えず成功体験が描けない現実)に耐えられず、引きこもり的世界への回帰の中でみんなに自己承認(宇野は母体回帰によって母親からの全承認へと逃げていると批判)をしてもらうことで、物語の決着を付けた。それに対して、劇場版では、傷つくような現実に投げ出されたシンジが、アスカから承認されるのではなく拒絶されることで終わる。これは、未来のない現実を生きていくしかないというメッセージで、こちらの方がはるかに優れているという評価である。庵野秀明の思惑はよく分からないにしても、二作品を比べた評価としては宇野常寛の言うとおりだろう。

 つまり、『エヴァンゲリオン』を碇シンジの自我の物語として読むならば、物語は最初に自己を承認したいという欲望から始まる。その欲望は母子分離に伴う不安の克服であり、その不安を母からの承認ではなく(母からの承認は克服にならない)、社会(他者)からの承認によって克服することで、自分は価値ある存在だと思えるようになる。つまり自己価値の他者からの承認である。その承認が安定的自我(アイデンティティ)の確立であり、その自我の確保が自我の物語の終わりである。

 これを少年の冒険譚に読み替えるなら、まず自我への欲望があり、父との葛藤や他者に認めてもらうための試練がある。その試練とは、例えばモビルスーツで敵と戦い傷つきながらもみんなを救うという体験である。その試練を経て、少年は自分は価値のある存在だと他者に承認してもらい、そこで物語は終わるのである。例えば機動戦士ガンダムなどはこのパターンをだいたいなぞっている。少年アムロは戦争に巻き込まれ、恐怖に耐えながらもガンダムのパイロットとして成長し、他者の承認を得ていく。成長とはそういうことである。

 ところが、『エヴァンゲリオン』は、厳しい試練はあるのだが、他者に承認してもらうという最後の展開がない。何故なら、シンジがどんなに必死に使徒と戦っても、そのことがみんなを救っているという実感がないからである。ミサトがみんなのためにがんばったじゃないと元気づけても、それが一時的ななぐさめであることをシンジは見抜いている。

 『エヴァンゲリオン』には二つの物語がある。一つは、人類を滅ぼそうと来襲する使徒とそれを防ごうとする人類の側(エヴァはこちらだが、実はこの人類の側が複雑)との戦いという物語。もう一つは、碇シンジの自我確立の物語である。いわゆる、少年冒険譚の物語はこの二つの物語は「行って帰る」式の物語として同時進行する。

 ところが『エヴァンゲリオン』ではこの二つの物語は、解決もしくは成長へと同時的に帰結しない。使徒と人類の戦いは、人類が勝利して世界が救われる、という物語定番の帰結にならない。最後には「人類補完計画」のような、使徒から人類を守るはずの側(ゼーレやゲンドウ)が、逆に人類を一旦リセットするような計画を持ち出す。読者は結局それじゃ人類の敵である使徒と同じじゃないかと思ってしまうような展開なのである。ある意味で未来のない(今を生きる人類が結局全部死ぬという解決だから)終わり方である。それと呼応するように、シンジの自我の物語はシンジの成長(自己価値の他者からの承認)に帰結しないのである。

 つまり、物語そのものがシンジの成長を期待させながらその成長を裏切るように出来ているのである。例えば、シンジのがんばりは、人類の終末を早める、ということにつながる。というのは、シンジがエヴァに乗ってシンクロすればするほど、それは母であるユイとの結合を意味し(エヴァはユイの魂でもある)、自我以前の混沌とした世界に引き込まれることになるのである。そのことは、結果的にエヴァ(母)とシンクロしたシンジが巨大なエネルギー体と化して人類に対して脅威となってしまうことにつながる。

 つまり、『エヴァンゲリオン』の物語展開によって、自我の確保を求める試練(シンジがエヴァに乗って使徒と戦うこと)が、決して他者の承認を得られないという展開になっていまうということだ。とすれば、シンジの自分は何なんだという自問は決して解決がない。この絶対的なジレンマにシンジを追い込んだ時点で、庵野秀明は行き詰まったと言っていいだろう。シンジの自我の物語も、「行って帰る」式の物語も、終わらないということである。終わらせるために、TV版では、みんながシンジをカウンセリングして元気づけるという、物語とは関係なく、シンジだけの自我成立の物語にするしかなかったのである。むろん、これはとってつけた終わり方だったので、劇場版では、自我の確保(他者からの承認)へ向けた試練は決して終わらない、という非情な現実を描いてとりあえずの終わりにしたということだ。

 実は、このジレンマは、コミック版「風の谷のナウシカ」7巻にも描かれたものである。むろん、庵野はコミック版「風の谷のナウシカ」の影響をうけたことを自ら認めている。巨神兵を子供として扱い、オームの存在や腐海が地球の浄化システムであることをナウシカは知るが、実は、最後にそれら全てが人類リセット計画の一部であることが明らかになってしまう。ナウシカが抱いた地球の浄化という希望が、人類を一旦滅ぼす計画であることを知り、ナウシカは自分が置かれたジレンマに気づくのである。が、ナウシカがそこで取った行動は、ゲンドウの「人類補完計画」の発動を許してしまうように、人類リセット計画を受け入れてただ悩むことではなかった。人類リセット計画を破壊し、人類によって汚染された地球とその汚染した人類とともに生きていく決意を最後にする。それが「生きねば」という最後のセリフなのであるが、このナウシカの置かれたジレンマを、実は、『エヴァンゲリオン』でも踏襲しているのである。そのことが、『エヴァンゲリオン』の物語の終わり方のすっきりしなさにつながっている。むろん、このすっきりしなさは、物語を現代のわれわれの世界のあり方を深く反映させようとした結果であり、評価されるべきものである。

 だが、庵野秀明は、このジレンマのナウシカ的解決を、TV版でも、劇場版(旧)でも取ることができなかった。シンジはナウシカのように毅然と立ち向かうことが出来ず、「人類補完計画」に翻弄されるだけである。

 ところが、2012年の『新劇場版エヴァンゲリオンQ』では(以下はネタバレです)、ナウシカ的な解決への道筋を示している。Qでは、シンジは使徒に飲み込まれた綾波レイを救おうとしてオーバーヒートし、サードインパクトを引き起こしてしまう。その14年後の世界、ゲンドウ達の「人類補完計画」を阻止しようとアスカやミサトがゲンドウたちに立ち向かう。シンジはゲンドウの側に取り込まれるが、何とか人類を救おうとする。結局エヴァに乗ることで、「人類補完計画」や使徒やゼーレによる人類破壊への計画に手を貸してしまうが、それをアスカやミサトが食い止めようとする…というところで終わるのであるが、まだ希望は潰えたわけではない、という余地を残して「つづく」になっている。

 つまりナウシカのように「生きねば」で終われるのかどうか。少なくとも終われるようにQではストーリーを変えてきているのは確かである。その意味で、今度のQは旧劇場版より希望がある。つまり、シンジの自我の物語も希望の余地があるということである。果たしてナウシカ的な決意を示せるのかどうか。私などはもうそれしかないだろうと思うのだが。