ラカンとしょぼいB級傑作SF2013/04/08 23:56

 日曜日は強風の中新緑会。開始時間を遅くして強風は何とかやや弱くなってくれた。勤め先の建築学科の先生は体調不良とのことで学生ともども参加を見送った。残念である。それぞれの家で料理や酒を持ち寄るのでなかなか豪華な宴会となる。私は、成城の駅前の酒屋で日本酒「獺祭」を購入して提供。さすがに喜ばれた。焼酎「百年の孤独」も出て来て銘酒が揃う。

 桜はほとんど散ってしまったが、新緑がなかなかきれいである。このマンション若返りが進んでいて、赤ちゃんが二人参加、今年生まれるという人が一人いる。私たち夫婦が入ったときは平均年齢が下がらなかったが、ここ数年、若い人が入り始めている。みな、このマンションの庭の緑が気に入ったからと言う。通勤には不便だがそれだけ自然があるとうことだ。通勤の不便さより自然を選ぶ人が少しは増えたのだろうか。マンションのアプローチに立派な藤棚があるのだが、藤が咲いたら「藤見会」をしようという話しになった。住人同士のコミュニケーションもなかなか盛んになってきたようだ。

 新緑会で疲れ、仕事も出来ずに借りてきたDVDを観る。スペイン映画だが「エンド・オブ・ザ・ワールド 地球最後の日 恋に落ちる」というタイトルである。B級SFだと思って借りてきて、期待もしないで観ていたのだが、確かにSFとしてはとてもショボイ映画で、空に円盤の絵が映っているだけで、宇宙人も戦闘場面も何もない。四人の登場人物のやや情けない心理劇風のドタバタで、ほとんど学生でも撮れるような低予算の映画である。

 が、これがなかなか面白いのである。女性一人に男三人の若者だけが町に残される。他の住人は避難して誰も居ない。空には円盤が浮かんでいる。この状況下で、女をめぐる駆け引きがあったり、宇宙人かも知れないと疑ったりとドタバタ風に展開して行くのだが、結局、解決は、特別な他者を見出すこと、という結末で終わる。ネタバレになるので具体的な物語は言わないでおくが、この映画の優れたところは、特別な他者を見出したとき共同体の葛藤は治まる、というテーマを見事に提示したことにある。この特別な他者の見出し方は一様ではない。それぞれがそれぞれの仕方で特別な他者を見出す。この一様でない特別な他者の見つけ方もまたこの映画の面白さだ。

 B級映画にも傑作があるものだ。時々こういう作品に偶然に行き当たる。それが楽しみでもある。ハリウッドでリメイクされるそうだが、しょぼいところがなくなるのが残念だ。

 最近ラカンを読んでいるのだが(ラカンは難しいので解説書を読みまくっている)、ラカンに「欲望とは常に他者への欲望の欲望である」という言い方がある。この映画を観てこのラカンの言葉を思い出した。つまり、一人の女性をめぐる他の三人の葛藤はこの他者への欲望の欲望なのである。だから、欲望はかなえられることはない。他者への欲望の欲望とは、他者への欲望の差異化であるから、絶えず三人のあいだで欲望の差異化が繰り返されるのである。

 この堂々巡りから抜け出すのは、差異化が出来ない欲望の対象を見出すこと、である。フロイトやラカンは、それを死と呼ぶだろうが、この映画では、おわかりだろうと思うが、宇宙人である。そして、もう一つ欲望の差異化から抜け出す「愛」である。最後に死と純愛を見出す、というようにこの映画を読むことができる。なかなか知的に愉しむことが出来る映画である。