桜とヤンキー文化2013/03/26 10:57

 昨日からガイダンスが始まる。もう来年度の仕事が始まる。早いものである。日曜に山小屋からもどってきた。気管支炎はほぼ完治。薬のおかげである。一週間ぶりの東京だが、桜が満開である。今年は早い。

 出かける前(一週間前)にマンションの花見を4月6、7日のどちらにしようかとコミュニティボードに書いてあって、うちはどちらでもと記入しておいたが、どちらにしてももう桜は散ってしまってるだろう。帰ってきて、ボードを見たら4月7日になっていて、花見ではなく今年は新緑会と名前が変更になっていた。葉桜の下での宴会というところか。

 実は、勤め先の大学に建築学科があって、そこの先生と知り合う機会があり、ゼミの学生がコーポラティブハウスのことを調査しているのだという。そこで、うちのマンションの話しをしたら、是非学生を連れてうかがいたいという。それで、住人から話しを聞く機会にと花見に誘ったのだが、満開の桜を見せてあげられないのが残念である。ちなみに、私が6年ほど前から住むことになったこのマンションは、日本のコーポラティブハウスのたぶん最初の頃(30数年前)のもので、建てた当時は建築雑誌に何度か紹介されていたらしい。

 山小屋では、春の学会発表の資料作りをしていたが、さすがにはかどらない。そんななかで読んだ本は斎藤環『世界が土曜の夜の夢なら ヤンキーと精神分析』(角川書店)である。書評で取り上げられていたので買った本だがけっこう面白い。

 この本、日本人論あるいは文化論としてなかなか教えられるところが多い。斎藤は日本人がキャラ性を極めていくと必然的にヤンキー化するという。一つの例として坂本龍馬をあげているが、日本人は坂本龍馬をヤンキーとして描いてきたという。言われればそうだ。ヤンキーの特徴は内省性がないということだが、その行動パターンはステレオタイプでもある。

 ヤンキーは始め秩序破壊的に振る舞うがやがて改心し大きな秩序の擁護者になる。例えばヤンキー先生は最初教育秩序に抵抗するがやがて教育秩序の擁護者として経験をいかして奮闘する、というように。言わばその流動的な生き方がキャラクターとして際立つ、それが典型的なヤンキー像である。従って、ヤンキーはその内面や業績はあまり問題にはならない。日本の最初のヤンキーはスサノオであるという。確かにそうだ。

 アメリカとの関係とか、ヤンキーは父性的ではなく母性性であるとか、なかなか面白いのだが、ヤンキー文化は「換喩性」であるという指摘、これに感心した。隠喩が本質に近づこうとする喩なら換喩はただの隣接表現である。ヤンキーと学ランは何の関係もないが、そのように譬えられるとそこに記号的な意味が自ずと生成される。その換喩表現の、自在さと、センス(バッドセンス)の妙。カブキもののヤンキーな伝統を持つ日本文化のバッドセンス的な美意識は、ヤンキー文化においていかんなく発揮される。

 換喩がパロディであるとすれば、ヤンキーの表象はほとんどがパロディである。ヤンキー系のロックバンドがほとんど本気ではなくパロディとして受け入れられたことがそのことを表しているという。矢沢永吉はパロディを本気で演じているという意味でのヤンキーである。つまり、日本のヤンキーとはほとんどが矢沢永吉的であるのだ。本気のヤンキーは、観客に人生訓を説かない、薬に溺れて若死にしていきそうだ。が、日本のヤンキーは、人生訓を垂れ長生きしそうだ。内田裕也みたいに。それもいいかなという気がする。

               ひとの世の有象無象やさくら咲く
               苦も楽も生も死もみな花の下