卒業式で考えること2013/03/16 11:35

 健康には気を遣ってきたつもりだが、最後の最後になって風邪を引き、最悪に気管支炎になった。体力はあったつもりで、授業や研究で眠れない日々が続いたわけでもなく、何故突然風邪を引いたのか今でも分からない。歯医者に行ったとき歯医者が鼻をグスグスさせていたので、そこでうつされたのか?などと思っている。

 最後の教授会、卒業式、卒業パーティ、送別会がつづくのに私は休むわけにはいかない。気管支炎なので一度咳が出るとなかなか止まらない。特に夜寝ると咳が出るので寝られない。医者に行って薬をもらい何とか抑えてはいる。それにしても、授業が終わると風邪を引くのは昔からで、上手く出来ているものだが、ただ、立場上学校行事を休むわけにもいかずつらいところである。気管支炎はすぐに治らない。かつては一ヶ月以上咳き込んでいたことがある。今回はなるべく早く治したい。

 15日は卒業式。少し寒かったが天気が良くてよかった。こういう儀式をやはり社会も(われわれもだが)必要としているのだとつくづく思う。つまり晴れの儀礼である。ある意味お祭りみたいなものだ。お祭りなら神の降臨がある。卒業式には何の降臨があるのか。私は様式化された時間という神だと思っている。別れの儀式だから、これは人が時間には逆らえない、同じ所にとどまれないということの受容の儀式ということだろう。ここが入学式と違うところだ。涙が流れるそれが理由だろう。

 看護学科の学生の謝辞がよかった。最後にお世話になった教員や学校の職員に感謝の言葉を述べていくのだが、最後に警備員や清掃の人たちにもお礼の言葉をきちっと付け加えた。今までここまで丁寧に気を遣った謝辞は聞いたことがない。決まり切った言葉の中にさりげなく入れた気遣いの言葉、壇上で聞いていて感動してしまった。気遣いの文化、悪くはない。

 私は担任なので、卒業式後に卒業証書を学生に授与したのだが、何とか卒業させるために多少成績を甘くした学生とか(私は本人の教育のためにより厳しくしたほうがいいという発想はとらないが、むろん、甘くするには限度というものがある)、オールAなのに経済的理由で学費がなかなか払えずやきもきさせた学生とか、もうちょっと厳しくした方がよかったと思う学生とか、いろいろな学生がいて、やはり、こういう学生達との別れの儀式はジーンとくるものがある。一方で、これもまた更新の儀礼である。四月には新しい学生が入学してくる。過ぎ去るものと新しくやって来るもの、その繰り返しの中に生きている、ということか。式年遷宮みたいなものだ。

 それにしても彼女たちがこれから出て行く社会はどういうことになっていくのか、それが心配で、卒業式に私自身がなかなか晴れやかになれないでいる。水野和夫『世界経済の大潮流』(太田出版)を読んだが、水野は、成長戦略を前提にした資本主義はもう終わったと説く。この本の面白さは、それを欧米における覇権国の盛衰の歴史と重ねながら論じることで、けっこう説得力がある。

 ただ、今すぐ終わるとは言っていない。中国の台頭もあり、あと20年程度、つまり、中国やインドの成長戦略が破綻するまではこの勢いはつづくだろうが、それ以降は、新しい社会のモデルを作らなければならないという。現在の先進国の強みはそのモデルを考える必要性と時間的余裕があるということで、日本がそのモデルを一番考えなきゃ行けない立場にあるという。が、アベノミクスはその真逆を行っているわけで、この本によれば、アベノミクスはすぐに限界になる、ということである。

 インフレが全てを治すという近代のテーゼは終わったと明確に述べている本である。これからは否が応でもデフレ社会になる。何故ならインフレを許容する成長そのものが、実体としてはすでに不可能な時代だということだからだ。不可能だからバーチャル的な情報空間上で金融操作を行い架空の成長を実現させたが、それもリーマンショックで破綻した。インフレ期待は、投資もしくは設備投資をしてそのリターンがあるだろうということで実現する。リターンを期待する投資先はすでにこの地球上にはないという。ない以上、デフレにならざるを得ないということだ。

 とするとどういう社会になるのか。デフレでもみんなが快適に生きて行ける社会をどう作るかかだということになる。内山節は朝日新聞で「制御不能のマネーリフレへの期待は共同幻想に過ぎぬ」と語っている(2013.3.13)。内山は、今、日本の若者達はデフレを前提にして低い給料でどうやったら安定した快適な生活が送れるかいろいろと試みている。その試みをインフレ期待はすべて台無しにする怖れがある、と警鐘をならしている。グローバリズムは、安い労働力を世界中に捜すことが可能である。そのため、日本の企業が成長しても、一部の正社員は給与が上がるが、大多数の労働者は世界の低賃金の労働者と同水準になる可能性がある。つまり、グローバリズムでは、成長戦略をとっても格差が拡大するばかりで、消費を支える中間階層が育たない。だから、結局はデフレになるしかない、というのだ。これらの論理はなかなか説得力がある。

 内山は、交換価値ではなく使用価値を大事にする社会を作るべきという持論を展開している。水野は、二億年かかって蓄積した化石燃料をわずか二〇〇年で使い果たしてしまうような成長戦略ではない、自然再生エネルギー等の持続可能なエネルギーを前提にした、新しい社会モデルを作るべきという。

 私は考え方としては、水野や内山に賛成である。ただ、問題なのは、そのプロセスをどう構築するかであろう。例えばこれををイデオロギーとしてすすめれば、これも近代の繰り返しということになる。これらの理想の実現が数十年先のことであるとすれば、現在の経済弱者は救われないことになる。少なくとも、成長戦略を唱えるアベノミクスは、現在の弱者を税金のバラマキという方法ではでないやり方で何とかしようという意図があり、それはそれで否定は出来ない。

 学生達が生きていくこれからの社会はどうなるのか。私は、水野や内山の考える社会にゆるやかに移行していくのが良いと思っている。が、それは簡単ではないだろう。現実的には、成長戦略を全く否定は出来ない。学生達に、夢を持て、夢をあきらめるな、と説くとき、その夢はだいたい成長戦略を前提にしている。それなら、どう説くべきなのか。その説き方からして難しいだろう。少なくとも、努力すれば実現できる、というものではないといわざるを得ないからだ。私が卒業式に臨むとき晴れやかになれないこれが理由である。

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