バスの運転手にお礼を言う文化2013/03/10 14:46

 最近授業がないこともあって読書三昧というところだ。渡辺京二『逝きし世の面影』(平凡社ライブラリー)はなかなか読ませた。幕末から明治にかけて日本に来た外国人達の手紙や日記、紀行文を丹念に読み、そこにもすでに失われた近代以前の日本の面影を発見していくという内容である。多くの外国人はほとんど異口同音に日本人の素直な心、礼儀正しさ、人の好さ、楽天性、笑い声、無邪気な子ども、清潔さを褒め称え、至福の国と形容する。これらの褒め言葉は、短期間の来日者ばかりでなく、数年暮らしている外国人にも共通しているという。むろん、マイナス面、例えば公衆の面前で男女とも裸体をさらすことや、性的放縦等ないことはないがそれを差し引いても日本は至福の国に見えたのである。外国人の国籍は多岐にわたるが、共通するのは当然だが欧米系であるということだ。

 それらの賛辞がある色眼鏡を通したものであることを著者は否定はしないが、おそらくそれは産業革命以降の欧米社会の社会のマイナス面が比較されているだろうと言う。つまり、日本に来た彼らは、日本に近代以前の失われてしまった自分たちの社会の面影を見出して懐かしんでいるかも知れないということだ。そして、彼らが描いた日本もまた近代になって失われてしまったのだと、著者は語るのである。

 むろん、非キリスト教国の江戸時代の日本に、野蛮さとはほど遠い文化の高さを見出した驚きもまたあるだろう。彼らが驚くのは日本人の礼儀正しさが教育を受けたり宗教上の教義に従うものでもないことだ。来日した外国人であるエドウィンアーノルドはそれは日本人が自分たちの社会を住みやすくするための社会的合意なのだと述べていると著者は紹介している。つまり、日本人は共同体の内部で気持ちよくすごすためのルール(規範)を長年にわたって自分たちで作り上げていて、それが行動規範として生活の一挙手一投足に刷り込まれている、ということだ。むろん、そのルールが現在の日本人の気質を作ったわけだが、それが、外部の人たちにとって穏やかで心安らぐものに見えるのは、小さな共同体の中で自足し得る人間関係を維持し続け、その関係が長い間外部による脅威にさらされなかったという事情もあるだろう。明治の近代化によって外部が入り込み、もしくは日本が外部へと拡大しようとしたとき、地域の小共同体はたちまちに崩壊し始め、これらの性質はあっというまに「逝きし世の面影」になってしまったということだ。

 私は調布の外れ世田谷の際に住んでいるのだが、近くにバスの発着所があり、そこからつつじヶ丘までバスを利用することがある。この路線の乗客数は少なく老人が多い。この路線のバスに乗って気づいたのだが、乗客は降りるときに運転手に「ありがとうございました」と声をかけるのである。むろん全員ではないが、お年寄りは割合声をかける。路線バスだろう、なんでいちいち礼を言うのだと最初とまどったが、これも誰かが教育したということではなく、自ずと広がったこの地域での習慣であろう(他でもあるかも知れない)。

 このバスの運転手へのお礼の言葉も、明治に来日した外国人が驚いた日本人の礼儀正しさの名残であろうと思う。むろん、細かに見れば、ほとんどが老人無料パスでバスに乗っていて、赤字路線だとおもうが、この路線がなくなれば老人は足を奪われてしまう。そういう事情もこのお礼の言葉には含まれていようが、それでも、私は日本の気遣い文化の一端を見る思いがする。この路線では老人ばかりでなく、子どももお礼を言う。近代にどっぷりつかった私などは黙って降車するのみである。乗り合いバスの運転手と一般の乗客の関係なのに、そこまで気を遣うのか、面倒だということもあるが、よく東京にそういう気遣い文化が残ってくれたと安堵する気持ちもある。こういう文化はまだ地方ではたくさん残っているだろう。最近では「おもてなし文化」として観光誘致に利用されるが、私たちが気分良く生きる知恵として再認識されることはいいことだろう。

 幕末から明治に来日した外国人が日本を褒める一つの理由に中国との比較がある。特に香港経由で日本に来るケースが多く、そこで見聞したアジア観が日本に来て良い意味で裏切られるのである。中国の悪口を言い日本を持ち上げるのだが、ただ、彼らが見る中国もかなりの偏見に満ちているとは思う。だが、その落差の認識についてはよく分かる気がする。私も中国に何度も訪れていることもあり、中国文化と日本との違いを分かっているつもりだからだ。

 この中国についてけっこうわかりやすく解き明かしてくれるのが、橋爪大三郎・大澤真幸・宮台真司『おどろきの中国』(講談社現代新書)である。中国論をリードするのは橋爪だが、内容は多岐にわたるので紹介は難しい。結局、中国の支配構造は、古代から現代にいたるまでそう変わってはいないというのが一つの結論だ。例えば毛沢東は「世俗化された皇帝」だと言う。つまり、皇帝という絶対的支配権力があって、その権力を効率的に機能させる官僚制度がある。そのシステムそのものは変化していないということである。さらに、「易姓革命」があって、皇帝であっても統治能力が無ければ交替させられる。それは現代の共産党も同じで、従って中国の序列のトップに立つものは高い能力を要求されるという。

 中国の民衆はある意味で個人主義的である。それは個人が確立しているのではなく、生き延びるために個々が利己的に振る舞わなければならない社会だからであるという。その利己的振る舞いは時に家族の絆より強い。例えば、毛沢東は文化大革命の時に紅衛兵に自分の家族を糾弾させている。文化大革命は毛沢東が政治的に生き延びるために仕掛けた運動とも言われているが、そのためには家族を犠牲にすることも厭わなかった。むろんこれが中国人の行動様式と言うわけにはいかない。義を重んじ家族の絆を大事にすることにおいて中国が他の国に劣るということはないはずだ。ただ、中国社会の生存競争は日本の比ではなく、その厳しさは、彼らを徹底した利己主義に追い込むことが多いということであろう。

 中国人が約束を守らないと言われるのは、契約という概念を成立させる安定的社会がないからで、約束はごく身内の仲間以外では、時と場合によっては守らなくても構わないものである。例えば市場で買い物をする場合、買い手は売り主の値段を信用しない。そこで激烈な値引き合戦が始まる。その労力は、そこで値引きされる費用を遙かに上回るものであり、経済を非効率化させていて、これでは欧米型のデパートやスーパーマーケットは成立しない。都市型商店では値札という約束によって売買が成立する。最近では中国では値札が信用されるようになってきたが、まだまだ行き渡っているわけではない。

 その中国と比較すると、日本の社会の何と穏やかなことか。運賃を払って乗るバスの乗客が運転手にお礼を言うこの文化の、何とほほえましいことか。現代の私ですら、中国から日本に戻ってホッとすることがあるのである。いや中国人ですら日本に長年住むともう中国に帰れないという。日本の社会が余りに無防備で穏やかすぎて、中国での厳しさについていけなくなるというのである。

 むろん、中国に日本のような文化がないわけではない。例えば雲南省の少数民族文化は日本のような穏やかさがある。漢族でも地方にはまだ残っていると思われる。が、現在の急激な資本主義化とグローバリズムの動きは、中国人の利己主義をある意味で徹底化している。おそらく中国人は今世界で一番タフな競争主義者であるかも知れない。日本人が適うわけがない。

 だが、中国人の不幸は、資本主義発展のおいしい成果はすでに欧米や日本に先に摘まれてしまって、後は残りカスのようなもので、一方で環境汚染などの問題が発展の恩恵を享受する前にのしかかってきていることだろう。その意味では、中国の人々も、いずれは、利己的ではない生き方の重要さに気づき、少数民族や田舎の穏やかな文化の貴重さに気づくであろうと思う。そうなったとき、今のような日中間の落差はかなり解消されているのではないか。これは願望だがそう願わずにはいられない。

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