「桐島、部活やめるってよ」を観る2013/03/10 00:57

 三月に入りようやく暖かくなってきた。卒業判定も終わり、いよいよ卒業式を迎えるまでになった。あとは、入試のB日程がある。学生集めに苦戦中だが、どのくらい来てくれるか。

 「桐島、部活やめるってよ」を観る。評判通りなかなかおもしろかった。映画の表現手法も凝っていて感心させられたが、高校生の不安定な日常がリアルに描かれていた。桐島というヒーローが突然いなくなることが巻き起こす心理劇風ドラマだが、物語といった物語がない。むしろ浮かび上がるのは、学校にはこんな風にみんな性格が違って、もてる奴もてない奴がいて、勝ち組負け組がいて、そういう小さな世界が確かにあったということである。その描き方がうまい。この映画が評判だったのは、日本人なら誰でも、この映画に描かれた高校生の誰かの位置に自分を当て嵌めることが出来たからだろう。

 大澤真幸・水野和夫『資本主義という謎』で大澤がこの映画について触れている。大澤はこの映画は資本主義の隠喩であると言う。残酷なほどに勝ち組、負け組が固定されて、しかも、勝ち組の象徴である宏樹は、最後に自分が抱えている空しさに涙ぐむ。桐島という希望に依存した幸福はいつ崩壊してもおかしくはない。それが、資本主義的世界なのだという。

 ただ、この映画に物語らしさを注入したのは前田という映画部の「おたく」であろう。桐島の不在のなかで、動揺せず、マイペースでゾンビ映画を撮り続ける彼こそ、桐島に対抗するこの映画のもう一人の主役である。彼はもてない負け組だが、夢中になっている虚構世界への揺るぎない確信が、結果的に勝ち組の宏樹に涙ぐませるほどの存在感を与えている。日本の資本主義が、「おたく」たちによるクールジャパン産業に救われたことの隠喩とも言えよう。

 この映画での部活は、社会に対する存在証明のような意味合いを持つ。大学生は就活の面談で必ず学校で何をやってきたかを問われるが、そのもっとも良い答えが部活で他の仲間と協調して頑張った体験を語ることである。だから、大学でも出来ればサークルに入った方が良いと指導しているのだ。そのように、部活は、けっこう大きな意味を持っているのだが、逆にそうであるから、部活拒否組が出る。この映画では帰宅部と呼ばれているが、その代表が宏樹で、万能選手でもてるが部活はやらない。このひねくれ方は悪くはないが、ただ、日々生きるモチベーションが下がる。日常が退屈になるだけだ。部活などの努力なしにもっとかっこよく存在証明できるものを捜す(例えばあのホリエモンみたいに)というのも、資本主義的な生き方であろう。が、モチベーションの維持は難しいということだ。

 桐島はたぶん何処にでもいる優等生タイプの頼れる同級生だったうろ。が、不在になることで、突然周囲の秩序が崩れ始める。大澤は、現代は閉塞感のある世界だから、桐島のような優等生の中の優等生がいることで周囲はその存在に頼り安心感を感じる事が出来るのだという。それは例えば日本にとってのアメリカだという。だから、この映画は「アメリカ、同盟やめるってよ」というシチュエーションに譬えられるのだという。確かに、アメリカがいなくなったら、日本の狼狽ぶりはこの映画の高校生の比ではない。

 確かにこの映画いろんな比喩に満ちていて面白い。私が個人的に好きなのは、好きな相手への自分の思いを表現出来ない女子(ブラスバンドの部長)で、私は男だが若いときこういうタイプだった。

バスの運転手にお礼を言う文化2013/03/10 14:46

 最近授業がないこともあって読書三昧というところだ。渡辺京二『逝きし世の面影』(平凡社ライブラリー)はなかなか読ませた。幕末から明治にかけて日本に来た外国人達の手紙や日記、紀行文を丹念に読み、そこにもすでに失われた近代以前の日本の面影を発見していくという内容である。多くの外国人はほとんど異口同音に日本人の素直な心、礼儀正しさ、人の好さ、楽天性、笑い声、無邪気な子ども、清潔さを褒め称え、至福の国と形容する。これらの褒め言葉は、短期間の来日者ばかりでなく、数年暮らしている外国人にも共通しているという。むろん、マイナス面、例えば公衆の面前で男女とも裸体をさらすことや、性的放縦等ないことはないがそれを差し引いても日本は至福の国に見えたのである。外国人の国籍は多岐にわたるが、共通するのは当然だが欧米系であるということだ。

 それらの賛辞がある色眼鏡を通したものであることを著者は否定はしないが、おそらくそれは産業革命以降の欧米社会の社会のマイナス面が比較されているだろうと言う。つまり、日本に来た彼らは、日本に近代以前の失われてしまった自分たちの社会の面影を見出して懐かしんでいるかも知れないということだ。そして、彼らが描いた日本もまた近代になって失われてしまったのだと、著者は語るのである。

 むろん、非キリスト教国の江戸時代の日本に、野蛮さとはほど遠い文化の高さを見出した驚きもまたあるだろう。彼らが驚くのは日本人の礼儀正しさが教育を受けたり宗教上の教義に従うものでもないことだ。来日した外国人であるエドウィンアーノルドはそれは日本人が自分たちの社会を住みやすくするための社会的合意なのだと述べていると著者は紹介している。つまり、日本人は共同体の内部で気持ちよくすごすためのルール(規範)を長年にわたって自分たちで作り上げていて、それが行動規範として生活の一挙手一投足に刷り込まれている、ということだ。むろん、そのルールが現在の日本人の気質を作ったわけだが、それが、外部の人たちにとって穏やかで心安らぐものに見えるのは、小さな共同体の中で自足し得る人間関係を維持し続け、その関係が長い間外部による脅威にさらされなかったという事情もあるだろう。明治の近代化によって外部が入り込み、もしくは日本が外部へと拡大しようとしたとき、地域の小共同体はたちまちに崩壊し始め、これらの性質はあっというまに「逝きし世の面影」になってしまったということだ。

 私は調布の外れ世田谷の際に住んでいるのだが、近くにバスの発着所があり、そこからつつじヶ丘までバスを利用することがある。この路線の乗客数は少なく老人が多い。この路線のバスに乗って気づいたのだが、乗客は降りるときに運転手に「ありがとうございました」と声をかけるのである。むろん全員ではないが、お年寄りは割合声をかける。路線バスだろう、なんでいちいち礼を言うのだと最初とまどったが、これも誰かが教育したということではなく、自ずと広がったこの地域での習慣であろう(他でもあるかも知れない)。

 このバスの運転手へのお礼の言葉も、明治に来日した外国人が驚いた日本人の礼儀正しさの名残であろうと思う。むろん、細かに見れば、ほとんどが老人無料パスでバスに乗っていて、赤字路線だとおもうが、この路線がなくなれば老人は足を奪われてしまう。そういう事情もこのお礼の言葉には含まれていようが、それでも、私は日本の気遣い文化の一端を見る思いがする。この路線では老人ばかりでなく、子どももお礼を言う。近代にどっぷりつかった私などは黙って降車するのみである。乗り合いバスの運転手と一般の乗客の関係なのに、そこまで気を遣うのか、面倒だということもあるが、よく東京にそういう気遣い文化が残ってくれたと安堵する気持ちもある。こういう文化はまだ地方ではたくさん残っているだろう。最近では「おもてなし文化」として観光誘致に利用されるが、私たちが気分良く生きる知恵として再認識されることはいいことだろう。

 幕末から明治に来日した外国人が日本を褒める一つの理由に中国との比較がある。特に香港経由で日本に来るケースが多く、そこで見聞したアジア観が日本に来て良い意味で裏切られるのである。中国の悪口を言い日本を持ち上げるのだが、ただ、彼らが見る中国もかなりの偏見に満ちているとは思う。だが、その落差の認識についてはよく分かる気がする。私も中国に何度も訪れていることもあり、中国文化と日本との違いを分かっているつもりだからだ。

 この中国についてけっこうわかりやすく解き明かしてくれるのが、橋爪大三郎・大澤真幸・宮台真司『おどろきの中国』(講談社現代新書)である。中国論をリードするのは橋爪だが、内容は多岐にわたるので紹介は難しい。結局、中国の支配構造は、古代から現代にいたるまでそう変わってはいないというのが一つの結論だ。例えば毛沢東は「世俗化された皇帝」だと言う。つまり、皇帝という絶対的支配権力があって、その権力を効率的に機能させる官僚制度がある。そのシステムそのものは変化していないということである。さらに、「易姓革命」があって、皇帝であっても統治能力が無ければ交替させられる。それは現代の共産党も同じで、従って中国の序列のトップに立つものは高い能力を要求されるという。

 中国の民衆はある意味で個人主義的である。それは個人が確立しているのではなく、生き延びるために個々が利己的に振る舞わなければならない社会だからであるという。その利己的振る舞いは時に家族の絆より強い。例えば、毛沢東は文化大革命の時に紅衛兵に自分の家族を糾弾させている。文化大革命は毛沢東が政治的に生き延びるために仕掛けた運動とも言われているが、そのためには家族を犠牲にすることも厭わなかった。むろんこれが中国人の行動様式と言うわけにはいかない。義を重んじ家族の絆を大事にすることにおいて中国が他の国に劣るということはないはずだ。ただ、中国社会の生存競争は日本の比ではなく、その厳しさは、彼らを徹底した利己主義に追い込むことが多いということであろう。

 中国人が約束を守らないと言われるのは、契約という概念を成立させる安定的社会がないからで、約束はごく身内の仲間以外では、時と場合によっては守らなくても構わないものである。例えば市場で買い物をする場合、買い手は売り主の値段を信用しない。そこで激烈な値引き合戦が始まる。その労力は、そこで値引きされる費用を遙かに上回るものであり、経済を非効率化させていて、これでは欧米型のデパートやスーパーマーケットは成立しない。都市型商店では値札という約束によって売買が成立する。最近では中国では値札が信用されるようになってきたが、まだまだ行き渡っているわけではない。

 その中国と比較すると、日本の社会の何と穏やかなことか。運賃を払って乗るバスの乗客が運転手にお礼を言うこの文化の、何とほほえましいことか。現代の私ですら、中国から日本に戻ってホッとすることがあるのである。いや中国人ですら日本に長年住むともう中国に帰れないという。日本の社会が余りに無防備で穏やかすぎて、中国での厳しさについていけなくなるというのである。

 むろん、中国に日本のような文化がないわけではない。例えば雲南省の少数民族文化は日本のような穏やかさがある。漢族でも地方にはまだ残っていると思われる。が、現在の急激な資本主義化とグローバリズムの動きは、中国人の利己主義をある意味で徹底化している。おそらく中国人は今世界で一番タフな競争主義者であるかも知れない。日本人が適うわけがない。

 だが、中国人の不幸は、資本主義発展のおいしい成果はすでに欧米や日本に先に摘まれてしまって、後は残りカスのようなもので、一方で環境汚染などの問題が発展の恩恵を享受する前にのしかかってきていることだろう。その意味では、中国の人々も、いずれは、利己的ではない生き方の重要さに気づき、少数民族や田舎の穏やかな文化の貴重さに気づくであろうと思う。そうなったとき、今のような日中間の落差はかなり解消されているのではないか。これは願望だがそう願わずにはいられない。

卒業式で考えること2013/03/16 11:35

 健康には気を遣ってきたつもりだが、最後の最後になって風邪を引き、最悪に気管支炎になった。体力はあったつもりで、授業や研究で眠れない日々が続いたわけでもなく、何故突然風邪を引いたのか今でも分からない。歯医者に行ったとき歯医者が鼻をグスグスさせていたので、そこでうつされたのか?などと思っている。

 最後の教授会、卒業式、卒業パーティ、送別会がつづくのに私は休むわけにはいかない。気管支炎なので一度咳が出るとなかなか止まらない。特に夜寝ると咳が出るので寝られない。医者に行って薬をもらい何とか抑えてはいる。それにしても、授業が終わると風邪を引くのは昔からで、上手く出来ているものだが、ただ、立場上学校行事を休むわけにもいかずつらいところである。気管支炎はすぐに治らない。かつては一ヶ月以上咳き込んでいたことがある。今回はなるべく早く治したい。

 15日は卒業式。少し寒かったが天気が良くてよかった。こういう儀式をやはり社会も(われわれもだが)必要としているのだとつくづく思う。つまり晴れの儀礼である。ある意味お祭りみたいなものだ。お祭りなら神の降臨がある。卒業式には何の降臨があるのか。私は様式化された時間という神だと思っている。別れの儀式だから、これは人が時間には逆らえない、同じ所にとどまれないということの受容の儀式ということだろう。ここが入学式と違うところだ。涙が流れるそれが理由だろう。

 看護学科の学生の謝辞がよかった。最後にお世話になった教員や学校の職員に感謝の言葉を述べていくのだが、最後に警備員や清掃の人たちにもお礼の言葉をきちっと付け加えた。今までここまで丁寧に気を遣った謝辞は聞いたことがない。決まり切った言葉の中にさりげなく入れた気遣いの言葉、壇上で聞いていて感動してしまった。気遣いの文化、悪くはない。

 私は担任なので、卒業式後に卒業証書を学生に授与したのだが、何とか卒業させるために多少成績を甘くした学生とか(私は本人の教育のためにより厳しくしたほうがいいという発想はとらないが、むろん、甘くするには限度というものがある)、オールAなのに経済的理由で学費がなかなか払えずやきもきさせた学生とか、もうちょっと厳しくした方がよかったと思う学生とか、いろいろな学生がいて、やはり、こういう学生達との別れの儀式はジーンとくるものがある。一方で、これもまた更新の儀礼である。四月には新しい学生が入学してくる。過ぎ去るものと新しくやって来るもの、その繰り返しの中に生きている、ということか。式年遷宮みたいなものだ。

 それにしても彼女たちがこれから出て行く社会はどういうことになっていくのか、それが心配で、卒業式に私自身がなかなか晴れやかになれないでいる。水野和夫『世界経済の大潮流』(太田出版)を読んだが、水野は、成長戦略を前提にした資本主義はもう終わったと説く。この本の面白さは、それを欧米における覇権国の盛衰の歴史と重ねながら論じることで、けっこう説得力がある。

 ただ、今すぐ終わるとは言っていない。中国の台頭もあり、あと20年程度、つまり、中国やインドの成長戦略が破綻するまではこの勢いはつづくだろうが、それ以降は、新しい社会のモデルを作らなければならないという。現在の先進国の強みはそのモデルを考える必要性と時間的余裕があるということで、日本がそのモデルを一番考えなきゃ行けない立場にあるという。が、アベノミクスはその真逆を行っているわけで、この本によれば、アベノミクスはすぐに限界になる、ということである。

 インフレが全てを治すという近代のテーゼは終わったと明確に述べている本である。これからは否が応でもデフレ社会になる。何故ならインフレを許容する成長そのものが、実体としてはすでに不可能な時代だということだからだ。不可能だからバーチャル的な情報空間上で金融操作を行い架空の成長を実現させたが、それもリーマンショックで破綻した。インフレ期待は、投資もしくは設備投資をしてそのリターンがあるだろうということで実現する。リターンを期待する投資先はすでにこの地球上にはないという。ない以上、デフレにならざるを得ないということだ。

 とするとどういう社会になるのか。デフレでもみんなが快適に生きて行ける社会をどう作るかかだということになる。内山節は朝日新聞で「制御不能のマネーリフレへの期待は共同幻想に過ぎぬ」と語っている(2013.3.13)。内山は、今、日本の若者達はデフレを前提にして低い給料でどうやったら安定した快適な生活が送れるかいろいろと試みている。その試みをインフレ期待はすべて台無しにする怖れがある、と警鐘をならしている。グローバリズムは、安い労働力を世界中に捜すことが可能である。そのため、日本の企業が成長しても、一部の正社員は給与が上がるが、大多数の労働者は世界の低賃金の労働者と同水準になる可能性がある。つまり、グローバリズムでは、成長戦略をとっても格差が拡大するばかりで、消費を支える中間階層が育たない。だから、結局はデフレになるしかない、というのだ。これらの論理はなかなか説得力がある。

 内山は、交換価値ではなく使用価値を大事にする社会を作るべきという持論を展開している。水野は、二億年かかって蓄積した化石燃料をわずか二〇〇年で使い果たしてしまうような成長戦略ではない、自然再生エネルギー等の持続可能なエネルギーを前提にした、新しい社会モデルを作るべきという。

 私は考え方としては、水野や内山に賛成である。ただ、問題なのは、そのプロセスをどう構築するかであろう。例えばこれををイデオロギーとしてすすめれば、これも近代の繰り返しということになる。これらの理想の実現が数十年先のことであるとすれば、現在の経済弱者は救われないことになる。少なくとも、成長戦略を唱えるアベノミクスは、現在の弱者を税金のバラマキという方法ではでないやり方で何とかしようという意図があり、それはそれで否定は出来ない。

 学生達が生きていくこれからの社会はどうなるのか。私は、水野や内山の考える社会にゆるやかに移行していくのが良いと思っている。が、それは簡単ではないだろう。現実的には、成長戦略を全く否定は出来ない。学生達に、夢を持て、夢をあきらめるな、と説くとき、その夢はだいたい成長戦略を前提にしている。それなら、どう説くべきなのか。その説き方からして難しいだろう。少なくとも、努力すれば実現できる、というものではないといわざるを得ないからだ。私が卒業式に臨むとき晴れやかになれないこれが理由である。

桜とヤンキー文化2013/03/26 10:57

 昨日からガイダンスが始まる。もう来年度の仕事が始まる。早いものである。日曜に山小屋からもどってきた。気管支炎はほぼ完治。薬のおかげである。一週間ぶりの東京だが、桜が満開である。今年は早い。

 出かける前(一週間前)にマンションの花見を4月6、7日のどちらにしようかとコミュニティボードに書いてあって、うちはどちらでもと記入しておいたが、どちらにしてももう桜は散ってしまってるだろう。帰ってきて、ボードを見たら4月7日になっていて、花見ではなく今年は新緑会と名前が変更になっていた。葉桜の下での宴会というところか。

 実は、勤め先の大学に建築学科があって、そこの先生と知り合う機会があり、ゼミの学生がコーポラティブハウスのことを調査しているのだという。そこで、うちのマンションの話しをしたら、是非学生を連れてうかがいたいという。それで、住人から話しを聞く機会にと花見に誘ったのだが、満開の桜を見せてあげられないのが残念である。ちなみに、私が6年ほど前から住むことになったこのマンションは、日本のコーポラティブハウスのたぶん最初の頃(30数年前)のもので、建てた当時は建築雑誌に何度か紹介されていたらしい。

 山小屋では、春の学会発表の資料作りをしていたが、さすがにはかどらない。そんななかで読んだ本は斎藤環『世界が土曜の夜の夢なら ヤンキーと精神分析』(角川書店)である。書評で取り上げられていたので買った本だがけっこう面白い。

 この本、日本人論あるいは文化論としてなかなか教えられるところが多い。斎藤は日本人がキャラ性を極めていくと必然的にヤンキー化するという。一つの例として坂本龍馬をあげているが、日本人は坂本龍馬をヤンキーとして描いてきたという。言われればそうだ。ヤンキーの特徴は内省性がないということだが、その行動パターンはステレオタイプでもある。

 ヤンキーは始め秩序破壊的に振る舞うがやがて改心し大きな秩序の擁護者になる。例えばヤンキー先生は最初教育秩序に抵抗するがやがて教育秩序の擁護者として経験をいかして奮闘する、というように。言わばその流動的な生き方がキャラクターとして際立つ、それが典型的なヤンキー像である。従って、ヤンキーはその内面や業績はあまり問題にはならない。日本の最初のヤンキーはスサノオであるという。確かにそうだ。

 アメリカとの関係とか、ヤンキーは父性的ではなく母性性であるとか、なかなか面白いのだが、ヤンキー文化は「換喩性」であるという指摘、これに感心した。隠喩が本質に近づこうとする喩なら換喩はただの隣接表現である。ヤンキーと学ランは何の関係もないが、そのように譬えられるとそこに記号的な意味が自ずと生成される。その換喩表現の、自在さと、センス(バッドセンス)の妙。カブキもののヤンキーな伝統を持つ日本文化のバッドセンス的な美意識は、ヤンキー文化においていかんなく発揮される。

 換喩がパロディであるとすれば、ヤンキーの表象はほとんどがパロディである。ヤンキー系のロックバンドがほとんど本気ではなくパロディとして受け入れられたことがそのことを表しているという。矢沢永吉はパロディを本気で演じているという意味でのヤンキーである。つまり、日本のヤンキーとはほとんどが矢沢永吉的であるのだ。本気のヤンキーは、観客に人生訓を説かない、薬に溺れて若死にしていきそうだ。が、日本のヤンキーは、人生訓を垂れ長生きしそうだ。内田裕也みたいに。それもいいかなという気がする。

               ひとの世の有象無象やさくら咲く
               苦も楽も生も死もみな花の下