選挙も近そうだ2012/11/13 01:05

 「大学の数は多いのか?」と書いたら地方に就職した教え子から早速コメント。地方の事情が少しわかった。インターネットで関連の記事を読んでいたら、内田樹がやはり同じような内容でブログを書いている。ただし、内田樹の方が、わたしより深読みである。

 内田は、大学の数と教育の質の低下は関係ないという。その通りである。さらに、大学の数を減らしたいのなら、高卒の給料を上げれば解決する、という。つまり、現在、高卒では就職口もないし給料も安い、だから大学に行かざるを得ない。企業が高卒の給料を上げれば大学に行く数は大幅に減るから、大学だって少なくなる。設置認可を厳しくするより、その方が効果的だというのだ。これもなるほどである。

 さらに、大学の質がどうであろうと、高校を卒業しさらに四年間教育を受ければ、知識も学力も高まるに決まっている。よりよいところに就職するためには進学率を上げた方がいいのに決まっている。それなのに何故企業や政治家はそろって大学の数が多いというのか? 実は、これは、企業の側の深謀遠慮があるというのである。つまり、日本の労働者の給料を、中国や東南アジアの労働者並みに下げたいと考えているのだという。日本の人件費を月数万円くらいの給料に下げれば、何も人件費の安いアジアに工場を移転する必要はないからだ。大学は一部のエリートを作り出すだけにして、他の大多数の高卒は大学にいかず低賃金労働者であれば、企業にとっては都合がいい。だから、大学の数を増やせとは言わないのだ、というのである。

 この指摘には私もうなった。ここまで読むか。つまり、日本の企業は徹底した格差社会を望んでいるということになる。ほんとうかなと思うが、なるほどと思うところはある。日本が徹底して高度資本主義化し、情報社会や技術革新による新技術によって儲ける社会になれば、進学率を一〇〇パーセントに上げなければならないだろう。が、現実はそうではない。アジアの低賃金労働形態とそう大差ない労働者も大勢いる。労働市場に国境がないグローバル経済では、総中流と呼ばれた日本であっても、低賃金労働と高度な技術力を持つ高給労働との格差が出てくる。現在のワーキングプアの出現はこの格差のあらわれである。

 つまり、進学率をあげて日本人全身を高度な技術社会に適応させようというのはあきらめて(韓国はその戦略で進学率は七〇パーセントを超えるという。だが大学卒でも就職口はない。大手企業の数が圧倒的に少ないから)、進学率を下げてもっと低賃金労働者を増やして、日本の企業の競争力を上げる、というのは、一つの経済合理性なのか、という気がしないでもない。今の日本の社会を見ているとそういうようにすすんでいる気がする。その意味では、内田の深読みは当たっているのかも知れない。

 しかし、そうすると、日本の消費力は落ち込み、韓国のように、一部の巨大なグローバル企業だけが生き残り、あとはほとんどかつかつの自営業のような零細企業しかいなくなる。それこそ、発展途上型の国になる。が、そうなれば日本のGDPは半分になり、社会保障そのものが崩壊するに違いない。おそらくそのようにはならないというのが私の考えだ。

 法的に最低賃金制度があり、それが無くなると、日本の企業は果たしてアジアの労働者並みに日本の労働者を扱うのか。中にはそういう企業もでてくるだろうが、大多数はそこまで思い切らないだろう。企業も日本社会の共同体の一つである。共同体である限りは、日本の社会が暗黙に合意しているその成員に対する慣習的なあるいは経済的な規範を遵守せざるを得ない。これは、法的な規制とはまた別の問題である。甘いかも知れないが、大多数の企業は日本の社会に対してそういう倫理性を持っている、と思うのだ。

 それから、アジアの中では最も自由にものが言える日本の民主主義もまたそのような発展途上型への移行を防いでいる。現在の日本の民主主義は、何も決められないポピュリズム型民主主義と悪口を言われているが、ある意味では、その民主主義が徹底した格差社会を防いでいるのだ。というのは、低賃金労働者が増えれば、当然、彼らの意見を代表する政治家が増え、格差社会の是正を訴える、ということになるからだ。これが現在の民主党で、むろん、財政基盤を考えずに票欲しさに主張したから破綻したが、日本の政治システムは、格差社会を是正するように働く仕組みに一応はなっているのである。ただ、そのことが、財政悪化を招くなどの批判にさらされ、格差を是認する意見を持つ国民もいて、結局政治は何も決められないジレンマを抱え込んでいる、というわけだ。

 佐藤優『人間の叡知』(文春新書)は、もう日本の民主主義はだめだ。これからは、政治システムとして新帝国主義やファシズムも選択肢に入れた方がいい、そしてエリートを教育して、もっと独裁的な方向に行ったほうがいいと、直接的にではないが、だいたいそういう方向で論じている。今の「維新の会」や石原慎太郎などの保守の動きもだいたい同じ方向である。

 確かに、何も決められない現在の民主主義にはうんざりするが、しかし、決められないのは、低賃金層や、年金への不安を持つ人たちを代表しようとすると、財政基盤がないので結局は何も決められなくなる、からである。それは必ずしも悪いことではない。決める政治というのは、独裁的な権限を政治に与え、自由競争社会、格差社会を是認して、弱者を切り捨てていく、ということになりかねないからだ。

 極端な格差社会を作らないか、あるいは低賃金であっても社会保障を充実させられるような社会にするか、同時に財政を立て直し、経済もそこそこ持続するようにする、なんてうまい話はないかもしれないが、しかし、そのバランスをどうとるのか、にしか、日本の、いや世界の資本主義の選択肢はないのである。

 佐藤優の言うように、これらのジレンマを経済成長で問題を解決しようとすれば、今の中国のように、軍事力を背景に、経済権益を確保するため資源や消費市場を確保するための覇権主義をとらざるを得なくなる。佐藤は今や中国だけではなく各国がそのような帝国主義をとらざるをえない時代なのだという。が、それは、新しい戦争を生むだけだろう。二度の世界大戦を経験した世界はそこまで愚かではない。

 これを日本の教育の問題に引き寄せれば、内田樹が言うように、高卒でも就職があってそこそこの賃金がもらえる社会になれるかどうか、でなければ、みんな大学に行って、高度技術社会に適応して就職できるかどうかである。事情があって教育を受けらず就職出来なくても、社会保障によって生活は出来る、であればまた問題はない。

 このように主張することをポピュリズムとして排除するのではなく、可能性としてどのような方法があるのか、そのためには何が必要で何をがまんしなければならないのか、といったことを、空想的にではなく現実的に説くことが求められているのではないか。選挙も近そうだが、それが政治家を選ぶ基準であろうと私は思う。

政治の話しなどするか秋の虫