問答にこだわる2012/05/28 23:47

 しばらくブログを書いていなかった。理由は、忙しかったこと。ただそれだけだが、かつては忙しくてもブログはかかさず書いていたが、今は、どうもそんな元気がない。五月は、連休から土曜日は全部校務や出校で潰れ、まして、学会の発表あり、市民講座もありで、早く寝ることだけを心がけて過ごした。だから、夜遅くブログをかくような労力をなるべく避けた。ブログを休んだのはそれが理由である。

 先日、奥歯が痛くてうまくかめなくなった。ただ歯が痛いのではなく、かみ合わせの部分が痛む。大事でなければいいがと医者に行ったら、筋肉痛だという。つまり、噛む筋肉にストレスがかかりすぎて筋肉痛になっているのだという。夜寝ているときに歯ぎしりしたり奥歯を強く噛んでいないかと聞かれ、特にそんなことはないと答えたが、たぶん、原因はそれだろうと医者は言う。人は、ストレスが強いと眠っているあいだ歯を強く噛むのだという。そんなこと意識していなかったが、ストレスがないわけではないので、医者の言うとおりなのかも知れない。それで、マウスピースを嵌めて寝ることをすすめられた。ということで、今マウスピースを嵌めて寝ているのだが、どうも慣れてないのでおかしな感じだ。それにしてもストレスがこんなところに作用するのだと、改めて認識した次第だ。

 相変わらず忙しさは続く。6月もほとんど土曜日は潰れており、山小屋にも行けないし、ブログを書く余裕も当分無いかも知れない。

 7月の古代文学会のシンポジウムに発表することになっていて、今それについていろいろと考えている最中である。2週間前に歌謡学会で発表したばかりで、古代の方は引き受けるんじゃなかったと反省している。たぶん、折口信夫の問答論についてということになるだろう。折口の歌垣論はどうもしっくりこない。折口の歌垣論を踏まえたこれまでの研究者は、神と人との問答が男女の問答へとどうしてすっと移行するのか、その説明を誰もしてくれない。神がやってきて神の立場で人と問答するのと、男女が恋愛を目的に歌の問答するのは同じではないだろう。それなのに、何故同じように論じるのか、だれも説明していない。というより出来ないのか。そこを私なりに説明しよようというのが、今度の発表になろうか。

 説明できるかどうか、これから考えるということで、とりあえず方向だけは決まったが、説明できなければごめんなさいと謝るだけだ。

 最近問答にこだわっている。考えてみれば、私の最初の論文らしい論文は「戸をめぐる表現(問答)」について論じたものだった。戸を挟んで問答するという場面がけっこう記紀の物語や歌謡にある。それをいろいろ考えて見たのだが、結局、最初の関心に戻ったということなのだろうか。現在の問答への関心は、中国少数民族のフィールドワークから発したものだが、でも、問題の立て方は、無意識下にずっとあった若い時の発想に戻る、ということなのかも知れない。

 そういえば金環食は見る事が出来なかったが、マンションの壁に映る木漏れ日が日食の形だった。それを見たとき、金環食フィーバーに少し参加した気分になった。ただ、それだけである。