連休の花見2012/05/12 00:09

 連休があけて、とたんに忙しくなった。市民講座と学会と授業に校務にと、気ぜわしい。学生には、忙しいときほど合理的に時間を使おうとするから勉強ができる、といっているのだが、この歳になると合理的に時間を使おうとする気力がない。やはり、身体がついていかないので、これ以上無理して倒れたら迷惑かかるだろうなあとつい思ってしまう。もうそんなに忙しくないほうがいいということだ。

 連休は長野のほうで過ごす。といっても土曜には学会のために戻ってきたので実質三日間くらいの休暇だったろうか。一日だけ、山小屋の近所の人たちと花見に行ったのが休暇らしい一日だった。長野は場所によっては桜が咲いている。近くの村の川沿いに小彼岸桜が植えられていてそれが今見頃なので、弁当を持って花見に行った。田植えの時期で、田には水が入り始め、新緑の山の際には白い花の樹が植えてある。五月の爽快な日光のもとで、桃源郷のような風景である。

 学校が始まって一ヶ月が経つ。わが学科は今のところ何の問題もなく時が過ぎているが、これからどうなるか、である。これから、学生との個人面談が始まり、学生の状況調査の結果も出てくる。学校に来なくなった離脱者がどのくらいいるか。今年は学科長なのでこの数が心配になる。わが校は、今、カードリーダーで出欠を取っているので、学生全員の出欠状況が学校側によって全部把握できる。つまり、一月経って欠席がちの学生の名前がすぐにわかるのである。

 一週間後には歌謡学会での発表がある。その準備などで歌垣関係の本を再読している。準備といっても、最近書いた論文に少し新しいことを付け足すだけの発表なので、そんなに大変というわけではない。発表といっても、講演であって質疑応答があるわけではない。ただ、みっともない講演は出来ないので、それなりの準備はいる。

 今こだわっているのは、歌垣の問答の起源である。折口信夫の起源論が未だに幅をきかせているが、それに対して、どう違った論理で説明出来るかね考えて居るる折口の論理が間違っていると思っているわけではないが、中国少数民族の歌の掛け合い事例などがたくさん出てきていて、折口の起源論ではなかなか説明できなくなっているのは確かなのである。

 三弥生書店から出した『歌垣の起源を探る』という本で、手塚恵子が面白いことを書いている。折口は神と人との問答を想定した。それを垂直の掛け合いだという。手塚が調査している壮族には、霊と歌の掛け合いをすることがあると報告している。シャーマンが神懸かって霊を呼ぶ。その霊と村人が歌の掛け合いをするのだという。これを水平の掛け合いだという。つまり、神や霊というあの世の存在と人との問答には、垂直と水平があるというのだが、実は、これは私がずっと考えていたことであって、この論理を使って発表するつもりである。ちなみに、小川学夫は、奄美でも幽霊と掛け合いをするという話があると書いていて面白い。

 問答の関係は原則として垂直ではない。折口のわかりにくさは、起源における神と人との関係はどうみても垂直なのに、それがいつのまにか水平になってしまうところだ。この問題結構面白いと思っている。