AKB482012/01/26 23:59

 ブログも久しぶりである。書かない期間が長いときは旅行しているか、忙しいとき。とにかく忙しかった。授業もあるが、雑誌に古事記関係の文章を書いていたのと、校務である。相変わらず改組案についてあれこれ検討していて、その雑務に追われている。

 今年は古事記誕生1300年ということもあって、あちこちで特集をやっている。私にも古事記の書名というタイトルで書いてくれという依頼があった。古事記の書名についてあまり関心はなかったが、勉強だと思い引き受けた。こういう仕事は、今まであまり調べなかった事柄を調べる機会となるので面白い。短い文章なので、調べたことをまとめるだけだが、古事記という書名は、その存在についてもその訓み(コジキなのかフルコトブミなのか)についても確かな根拠がないということが改めて確認出来た。偽書説をとるなら書名は最初から偽物になるが、偽書説をとらなくても、書名だけ後世附加された可能性は否定できない。

 一般名詞であろうという説もある。つまり、古事記は固有名詞っぽくないのだ。ただの古い言い伝え的な名前である。天皇に献上された書物ならもう少し固有名詞っぽく名前を付けてもいいのでは、と確かに思いたくなる。逆に、本居宣長は、そこを評価している。日本書紀のように国号をつけなかったのは、イニシエの素直なこころを反映しているからだと評価するのである。

 授業もほとんど終わりに近づいて、後はレポートやテストを残すのみである。民俗学の授業をやっていて、最後は女性論になる。というのも、柳田国男の「妹の力」の講義のなかで、巫女としての女性論の流れで日本社会において女性がどのように幻想されてきたか、ということを述べ、現代の消費資本主義では、女性が消費欲望をかき立てる巫女的な役割を与えられている面がある、と持っていくのである。むろ、比喩的な言い回しだが、消費資本主義では、女性は性的な刺激を社会に与えて社会を非日常化しなくてはならない存在でもある。そうすることで、消費が拡大し経済が上向くからである。

 特にバブリーな時期の女性はまさに祭りにおける巫女的役割を負って、フェロモンをまき散らして人々を消費に誘い込んだといっていいだろう。

 ただ、どうも最近は違ってきた、ということも付け加えた。その例として取り上げたのがAKB48である。AKB48のセンターに何故地味な前田敦子がいつも選ばれるのか、それがずっと不思議だったが、消費資本主義の衰退という考え方をとるとうまく説明出来る。消費資本主義が華やかな頃だったら、前田敦子は絶対にセンターに選ばれないだろう。フェロモンがないからである。だが、現代は、人々を非日常化して消費欲望をかき立てるわかりやすい戦略が成り立たなくなった。震災の問題もあるが、経済の低迷によって、日常の維持そのものが大変きついことになっていることに気づき始めたからである。つまり、今ある世界そのものがすでに非日常化していて、むしろ、日常的な確かな世界への手触りの方を、今求め始めたということである。

 それはアイドルへの志向についても言えるだろう。前田敦子がセンターなのは、地味で努力家で、どこか安定した日常感を感じさせる身近なアイドルだからである。考えてみれば、AKBそのものが、そういうアイドルとして作られた。最初のキャッチフレーズいつでも会いに行けるアイドルだった。つまり、前田はAKB48を代表する象徴的な存在なのである。だから、総選挙でセンターに選ばれるのである。その意味では、非日常へのあこがれではなく、日常への共感によって支えられているアイドルグループだと言える。

 AKBが受ける理由もそこにあるが、経済が上向き、女性性が消費欲望の象徴として復活してくれば、AKBの時代は終わると思うが、たぶん、経済は簡単に上向かないので、しばらくはAKBの時代が続きそうだ。ちなみに、私は前田敦子が好きである。最初はなんでセンターなんだろうと疑問だったが、テレビでみているうちに、その良さが分かってきた、秋元康の戦略に見事にはまってしまったようである。

                       アイドルを見ながら妻と小豆粥