巫者ジョバンニ2012/01/11 00:52

 ようやく年明けの授業が始まる。といってもまだ演習の一コマだけで、この演習では学生と宮沢賢治を読んでいる。「銀河鉄道の夜」を読み終わった。初期形と文庫になっている最終形とを読み比べている。

 初期形では、最後、ジョバンニは、カンパネルラが消えてしまってから元の現実の世界に戻らない。得たいの知れない博士が現れて、ジョバンニに、ほんとうの幸せを探さなくてはいけないと諭す。ジョバンニは本当の幸せをさがすのだと決意して物語は終わる。最終形は、現実の世界に戻り、銀河鉄道の夢を見ていた丘から街へ降りて行く。街では人だかりが出来ていて、行って見るとカンパネルラが友達を助けようとして溺れ死んだということがわかる。

 初期形の終わり方は、あのコッポラ監督の映画「地獄の黙示録」の終わり方を思わせる。最後は哲学的な会話に終始するのである。最終形はきちんと物語的につじつまが合うように書かれている。ただ、最終形では解き明かされないのが、ジョバンニが持っていた切符である。天上だけではない何処にでも行ける切符だと乗り合わせた鳥獲りに言われるのだが、この他の誰とも違うジョバンニだけが持っていた切符が何を意味するのか、解き明かされないままに終わるのだが、初期形では、博士がどうもこの切符をジョバンニにわたしたらしいことがわかる。この切符は本当の幸せをさがすための切符らしい。

 以前「銀河鉄道の夜」について論文を書いたことがある。そのとき、この切符について解釈したのだが、これは、ジョバンニがシャーマンになるための証明書ではないかと書いた。突飛な発想だが根拠がないわけではない。生きてるジョバンニが死者達が乗る列車で一緒に旅し、そしてこの世に戻った来られたのは、ジョバンニはシャーマンであると考えれば、納得がいく。シャーマンは、死者をあの世に導き、そして戻ってくる能力を持っているのである。つまり、ジョバンニの銀河鉄道の夜の旅は、ジョバンニの成巫体験の旅なのである。無意識にだろうが巫者になるための修行の旅だったのだ。それをより前面にだしたストーリーか初期形なのである。

 得たいの知れない博士は、ジョバンニに、ほんとうの幸せをさかすために勉強しろという。私には、この勉強が神秘的な世界を体験するための勉強に思えてならない。本当の幸せとは、自分のための幸せではなく、他者の幸せである。他者の幸せのために生きる、という諭しを博士はジョバンニに与えたのだ。それが初期形の終わり方ではないか。切符とは、シャーマンの証明書である。何処へ行くことも出来るというのはシャーマンだからである。死者の行くあの世に行き、神とあって帰ってこれるのがシャーマンである。しかし、見方を変えれば、それは何処にも行けないということである。カンパネルラが行く世界にジョバンニは付き添えるが、一緒に行ける訳ではない。それが、シャーマンの悲しみである。ジョバンニはその悲しみを体験する。そして、その体験の後に本当の幸せを探す、つまり、シャーマンになることを決意する。

 シャーマンという言い方を、例えば、神秘的な方法で他者のために尽くす人、という程度に理解すればより受け取りやすいだろう。宗教者で夢想家でシャーマン的資質を持った宮沢賢治はそのように人に尽くしたのだと思われる。

 最終形ではそのジョバンニのシャーマン的な決意が消えてしまった。結局、ジョバンニにとってあの旅は何だったのだろうという謎だけが残る。物語としてはこっちの方が面白いが、私は、初期形の方が好きである。最終形のジョバンニはけなげな子供に戻るが、初期形では、ジョバンニは、他人にために尽くす事の意味を考える大人へと成長しかかっているからである。

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