タブレットを買った私2011/10/27 01:21

 学会のシンポジウムの準備が一段落。経典の翻訳もとりあえず終わった。後は、資料等の整理と、泥縄式だが当日の発表内容を詰めなくては。ただ、授業の準備、雑務が入って、なかなか時間がとれないのがつらいところ。

 ノートパソコンの修理をヤマダ電機に出したのだが、もうメーカーで部品がないと返品されてきたので、取りに行った。ついでに、いろいろとタブレットなどを見ていたのだが、やはり欲しくなった。別に何に使うというわけてはないのだが、電車の中でタブレットを使ってみるのを見ると、つい自分もやってみたくなる。

 それで、ついにタブレットを購入。東芝のレグザである。最新版で片手で持てるくらいの大きさが気に入った。無線ラン対応だが、試しに電子書籍を購入。今電車の中で読んでいる。これが以外と疲れる。下を向くので特に首の頸椎が痛くなる。私はこれが持病なので、やや不安だ。電子書籍の読書は度が過ぎないようにしなくてはならないようだ。ただ、ワードとパワーポイントが使えるのはなかなかいい。論文など入れておけばいつでも読めるし、メモ程度の文章なら打ち込めるので使いようでは重宝である。

 『思想としての3.11』(河出書房新社)をつつじヶ丘の「書原」で買う。吉本隆明へのインタビューが載っていたので、さすがに気になって買い求めた。インタビュアーは知り合いの編集者だ。吉本は、原発の事故は、素粒子や放射能といった人間の細胞を透過してしまうような物質を作りだしてしまったことの問題で、この技術を安全なものにしていくように突き詰めていくしか仕方がないというような言い方をしている。

 このことは人間が終わりに近づいたくらい悲観的な事態だが、この道を行くしかないと言っている。ただ希望があるとすれば、平均寿命が確実に延びていることで、将来百歳くらいになるのではないか、そう考えれば宇宙と同じ現象を人間も味わえるようになる(宮沢賢治みたいに)。それが希望と言えば希望と言う。

 反核や反原発に批判的だった吉本らしい発言で、さすがにぼけてないなと感心。他の知識人はみな同じスタンス。つまり、反原発もしくは文明批判である。ただ、哲学者のものいいはとても晦渋で、この問題に何もいうつもりはないといいながら、反原発のニュアンスはきちっと保持する。さすがに、吉本のように、原発反対の国民が全部でないのは良いことだなどというようなことは絶対に言わない。私だって、そう思ったって言えないだろう。

 今言えることは、原発はこれからも事故は起きるということ。今の国家官僚や東電は原発を安全に管理運用する能力がないということ。まずは、このことを前提にしてここから現実的な対応を考えて行くしかないだろう。

 原発は国民の一部にとって生活の一部である。そのように国家がしたという面はあるが、巨大な産業である以上、その経済効果によって生活の一部にならざるを得ない。リスク覚悟で生活を選んだという人々に対して、文明批判といった抽象的な理屈で批判しても彼らを説得は出来ない。この説得は難しいと思う。何故なら、理屈で批判する知識人の多くは生活問題を抱えていないからだ。

 この本で得た知識だが、蒸気機関の発明は、実は無数の職人達が、必要上あちこちで作っていたものであり、最初に蒸気機関の理論があったわけではないという。つまり、職人があちこちで作りあげた機械を、後に総合して一つの理論が出来上がったというわけである。技術の発展というのはそういうものである。つまり、誰かが理論として発明して技術が発展していくというより、技術者の無数の試行錯誤がくり返されて、その結果、技術が進歩し理論が整えられる。

 ある技術が、人間にとって悪になり得るとしたとき、その技術を抑えられるか、という問題になったとき、その社会が独裁国家でない限り無理ということになる。つまり、北朝鮮のように技術を国家が独占して、国民に自由に技術を委ねない国家でない限り技術者は、言わば業のように技術の進歩に身を費やすものである。それが言わば自由ということであり、生活の上に技術があるということでもある。

 それならその悪になりかねない技術をどうするのか。たぶんこれは永遠の課題なのだろうと思う。われわれは、火星に行く技術、人工細胞を作り出す技術を手に入れた。この技術だって悪になりかねない。原発も同じである。技術者のだれかを抑えても他の誰かが同じ技術を作ってしまう。そういうものである。自由な社会というのはそういう社会なのだ。

 この地球に70億の人間がいる。もし、地球にやさしいエコな生活を地球上の人々が営み始めたら、30億に人間は格差社会の中で餓死するしかないだろう。エコな生活と叫んでる人たちは、貧乏には死ね、と言っていることと同じであるといういことも知らなければならないだろう。この70億を死なせないためには、経済のある程度の発展は宿命である。

 が、現在の経済発展は技術の進歩によって支えられている。しかし、その経済発展のためにどこまでリスクを覚悟しなければならないのか。飢えに瀕していればかなりのリスクを引き受ける。が、豊かであれば少しのリスクも嫌である。この問題は難しいのだ。私にも答えはない。

 タブレットを買った私は、いったいどういう立場なのだろうか。

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