折口はやっぱり難解2011/09/30 00:53

 なんとか紀要の論を書き終え、一息ついた。正直ブログを書く暇もないくらい大変だった。学校では雑務で忙しく、今日などは会議が3時から五つ連続してあり、さすがにへとへとである。

 学園祭も近づき、読書室委員のイベントの準備にも入った。恒例の古本市をやるのだが、古本が集まるか心配である。売り上げはユニセフに寄付をして世界の貧しい子供達のために少しでも役にたてればと思っている。もう読まない本、不要になった本、提供していただけるとありがたい。

11月初旬の、学会シンポジウムの準備もすぐに始めなければならない。自然と人間の関係がテーマだが、大きすぎるテーマなので、できるかどうか心配である。ナシ族の経典の翻訳も中断していたので、再開しなくてはならない。

 今日の会議の一つが広報委員会というやつで、ホームページに動画を載せようという企画をたてている。もう動画の時代である。学校や学科の紹介も、動画の方がアピール出来る。授業風景や学生の声など、動画にして、ホームページに載せる。学校の事務方に、専門の職員がいて、撮影から編集までただでやってくれる。これは助かる。

 紀要の論は、「問答」についての考察である。中国の少数民族の神話が問答でうたわれている、ということから、何故問答なのか、という考察である。まず、折口信夫の文学発生論を読み、そこでの問答についての論理を抜き出した。ところが、これが大変だった。とにかく難解なのである。難解なのは、論理が一つの流れになっていないからで、また、飛躍もあるからである。かなり慣れたつもりでも、あらためて丁寧に読むと、なかなかやっかいである。

 でも、だからこそ面白い。結局、折口の論を使って少数民族の神話や歌の問答を分析するのは無理がある、ということになったが、いろいろと発見もあり、その意味では充実した作業だったが、そのことと論の出来とは別の問題である。

 まだ授業ははじまったばかりで、授業としては今が一番乗っているときである。これからこういうように教えようとか、こんな風にサービスしようとか、いろいろ考える余裕がある。だが、しばらくすると、その余裕がなくなり、もう今年は、学生の満足度を回復するのは無理そうだな、というムードになって、落ち込みながら授業をする、ということになる。なるべく、そうならないようにしたいのだが、なかなか思うようにはいかないものである。人生というものはすべからくそうだ。

                 谷津を抜く爽やかな風犬走る