諸行無常2011/09/19 23:02

 京都での研究会から帰宅。いつもの遠野物語研究会である。近々研究会の活動のまとめとして本を出す予定。当然、私も書くことになる。午後Mさんと一緒に新幹線で帰るが、連休の最後とあって禁煙席がとれない、しかたがないので、喫煙席で京都から東京へ。東京に近くなったときは体中にタバコのにおいが染みつき、頭が痛くなった。喫煙車には本当にタバコを吸う奴が集まるので車内が煙でもやっている状態。喫煙者には気の毒だが、新幹線もそろそろ全車両禁煙にできないものか。中央線の特急はすでに全車禁煙である。Mさんとも久しぶりで、話が弾む。

 京都へは昨日出かける。それまで、ナシ族の経典の翻訳で忙しかった。一巻をやっと終える。翻訳と言っても大ざっぱな訳はすでに声で張先生が録音しているので、私はそれを細かに見ていきながら活字に直していくという作業。私が最初から訳すと数倍時間がかかる。ただ、それでも、意味の通らないところがいくつも出てくる。また、神の名前はほとんど音仮名。張先生の発音では正確な音がとれない。そこで、辞書を引きながら漢字の発音を確かめながらの作業になる。意味の通らない所もいちいち辞書を引きながら意味を確認する。けっこう大変なのである。

 経典の翻訳は11月5日のアジア民族文化学会シンポジウムに資料として出す予定である。あと二巻ほど翻訳する予定なのだが、間に合うかどうか。明日から学校が始まり、授業の準備もしなくてはならない。相変わらずだが、何とかなるだろう精神でいくしかない。そういえば今週の22日は紀要原稿の締め切り、まだ一行も書いていない。一週間締め切りを延ばしてもらうしかないだろう。これもなんとかなるだろうである。

 わが家の近くに、始発のバス停がある。ここからつつじが丘駅行きのバスが出る。最近よくこのバスを使う。つつじヶ丘駅は急行が止まるので仙川より便利である。また始発なので、時間が正確ということもある。ただ、一時間に二本しかない。でも、時刻が分かっていれば便利である。

 そこで最近つつじヶ丘駅で買い物をしたりするのだが、この駅前にある「書原」という本屋は、最近では珍しいこだわった本揃えをしていて、なかなか気に入っている。つつじが丘駅まで乗って来たときは、バスの時間までこの本屋で時間を潰すようにしている。

 宇野常寛『リトルピープルの時代』と内田樹の『最終講義』をこの本屋で買う。レジの前に吉村昭『三陸海岸大津波』の文庫が平積みになっていたので、おもわずそれも買い求める。ついでに、となりにやはり平積みになっていた『関東大震災』も買った。奥さんは、ここで、最近話題になっている大学院生が書いたという『フクシマ論』を買った。

 レジ前に吉村昭の文庫を並べているということで普通の本屋でないことがわかるだろう。そんなに大きな本屋ではないが、読みたいと思う本がけっこう並んでいる。こういう本屋がまだ生き残っていたことに何となくほっとした気持ちである。

 内田樹の本と吉村昭の『三陸海岸大津波』は新幹線の中で読了。吉村昭の本を読み、人はどんなひどい災害にあってもそのことをすぐに忘れてしまうものだと実感。明治以降、明治二九年、昭和初期、戦後のチリ自身の津波と、三回ひどい目に遭い、それに今度である。津波にあった人の聞き書きに、「大丈夫だよ」といった言葉に何の根拠もなく安心してしまうといった事が語られている。どの津波の時にもそういう語りがある。つまり、われわれは最悪を想像したがらない存在なのだ。根拠がなくても、「だいじょうぶだ」という言葉を誰かが発すればそれにすがってしまう。そして逃げ遅れるのだ。そういう人間の心理がよくわかる本である。

 いつも最悪を想定して振る舞ったら疲れてしまう。が、いざというとき、最悪を想定してふるまえるようにするにはどうしたらいいのか。いろいろ考えさせる本である。それにしても、死者というものを実に淡々と描いている。『方丈記』を思い出す。災害のとき、この世は諸行無常なのだ。そのように読めてしまう本である。『関東大震災』も半分ほど読んだが、こっちはもっと諸行無常である。辛くて途中で読むのを止めた。

震災忌諸行無常の本を閉づ

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