宿命的二項対立2011/08/30 01:19

 中国からかえって、忙しい日が続く。ブログを書く暇もない。主に勤め先の雑務だが、これがいくつもの案件があって、休むどころではない。9月の後半に研究会があって、その準備もあり、紀要の原稿も書かなくてはならない。

 少しは涼しくはなったがまだ暑い日が続く。のんびり過ごす夏休みというのを最近味わったことがないのは、この身の宿命なのかなどとため息がでるばかりである。

 世界陸上の100メートル決勝をたまたま見ていたが、ボルトがフライングしたのには驚いた。だれが見てもフライングである。かなりナーバスになっていたようだ。世界一で当たり前というプレッシャーなのだろう。会見の仕草や、準備の仕草、マスコミに見せるパフォーマンス。今から思えば、余裕たっぷりのように見えて実はあせりの裏返しのようにも見える。不安を悟られまいとする強者が見せる態度だ。

 民主等の代表が決まる。妥当なところなのだろう。これも、海江田のパフォーマンスの失敗のように見える。小沢と会ってから急に路線を小沢寄りに鮮明にした。これも自分に自信のないことの現れ。増税路線でぶれなかった野田に適わなかった。ただ、野田は、松下政経塾出身で前原と同じタカ派。A級戦犯は戦争犯罪人ではないというのが持論。アジアとの関係うまくいくかどうか。ぶれないのはいいが、意固地になるとみんなが迷惑する場合もある。小泉首相の靖国参拝にはみんなが迷惑した。そうならなければいいが。

 秋の学会テーマが、環境と神、あるいはそこに身体の問題をいれようかと思ってもいる。自然と文明、人間と自然あるいは環境というテーマは、どうしても二項対立的になる。むろん。論理としての二項対立はだめだとは簡単に言えないが、この対立、人間(文明)が自然を破壊している、という文脈の上に設定されている、という事情がある。つまりだ、自然を人間にとって他者とする、というようにこの二項対立は設定され、その他者との関係を、どう描くのかが問われるというわけだ。むろん、この他者は、排除すべきでなく大事にすべきという前提をあらかじめ与えられている。

 この対立をつきつめると、どうしても、それじゃ人間が地球から退場すれば解決じゃん、と言いたくなってしまう。これは禁じ手なのだが、この論理の誘惑は強い。何故なら、他者である神が人間を排除することはあり得ないが、人間が自分自身を排除することは十分にあり得るからだ。自然よごめんなさい、わたしたちがいなくなります、と言ってはならない根拠とは何なのか。自然は人間のものだからか。

 そう言えない根拠は、実は、他者は人間自身だから、ということだ。つまり、他者を排除は出来ないししてはいけない。それが、人間が作り上げてきた大事なルールだ。ややこしいが、自然は自分でもある、という視点があってもいいということ。実は身体こそが、そう言い得る一つの根拠になる。身体は人間にとって自然であり、その身体は身体を取り巻く外界の環境の一部である。

 つまり、そうである以上、人間は自然から退場するというわけにはいかないのだ。地球から逃げ出しても、逃げ出した先でまた、自然対人間という二項対立に悩むことになる。身体を持つ限りそうなる。是は宿命的な枠組みの問いなのだと考えた方が良い。

 たぶん、このことをすでに自明のことであったのに、それをややこしくしているのが、自然対文明などという二項対立を作ってどう共生したらいいか悩んでいる我々なのかもしれない。

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