髪留めの意味2011/07/13 09:42

 『千と千尋の神隠し』の最後は、異界を抜け出した千尋一家が、アウディで山道を戻っていく場面で終わる。ところが、英語版では、ここに父と千尋の会話が付け加えられているという。
   父「新しい学校、ちょっと怖いね」
   千尋「ううん、わたしは大丈夫よ」

  私は英語版を実際に見ていないのだが、どうもこのような追加が行われているのだという。つまり、日本の原作の終わり方では、英語版を作ったディズニーの側が納得しなかったのだろう。そこでこのような会話を追加すればある程度、物語上のつじつまがあうと判断したようだ。そのつじつまとは、千尋は異界で成長したはずなのに、千尋が異界から出てきたとたんその記憶を失い、元に戻ってまったかのように見えるからだ。これでは、異界で必死に努力して成長した千尋のがんばりが報われないと、アメリカでは判断され、成長した証しとしても千尋の「私は大丈夫よ」という台詞を加えたようである。異界に入る前、千尋は車の中でだだをこねるいかにも子供らしい子供だった。それが異界体験で変わった。この台詞はその変化をうまく語っている。

 それじゃ、宮崎駿は何故、このような台詞を加えずに、元の千尋に戻してしまったのか。「期待の地平」を裏切るのは、物語の出口にひとひねり加えるいつものやり口ではあるが、私は授業で、成長するとは、大人になることであると同時に、子供であることを失っていくこと、なのだと説明している。つまり、どちらにウエイトを置くかだが、日本の『千と千尋』では、子供であることを失っていくことににウェイトを置いたのだと思われる。アメリカ版は逆である。

 確かに千尋は成長したに違いない。がそれらしく描いてはつまらない。むしろ、異界の体験などは忘れてしまう方が、物語の神秘性は確保されよう。そのことによって、異界体験ができるのは子供だけなのだ、というメッセージが残せる。そして、この映画を観た誰もが、ひょっとして自分もこのような異界体験をしたのかも知れない、ただ、忘れてしまっているだけだ、と思わせる余韻を残して映画が終わる。誰もか子供であることを失って成長した。それを何処かで寂しく感じている。宮崎駿はその誰もが抱える琴線を最後の場面で揺さぶったのである。成長したかどうかの確認より、こっちの終わり方の方が面白いと宮崎駿は判断したということだろう。

 そう考えると、最後の場面、髪留めが光る理由も納得がいく。異界を忘れてしまった千尋だが、実は、異界に行った証拠が残されている、それが髪留めである。この髪留めは、千尋が異界体験をした唯一の証拠なのである。異界体験は千尋の中に封印されてしまった。が、その封印を解く鍵は、この髪留めにある。将来、その封印は解かれるかも知れない、そういう期待を抱かせてこの物語は終わる。アメリカ版のように成長した千尋をそれらしく見せてしまうとこういった余韻は生まれない。

 やはり、宮崎駿の終わり方のほうが面白いと思う。