サツキとメイの距離2011/07/01 00:48

 何とか昨日「海ゆかば」の書評を仕上げ、送る。実は、もう一本、短歌の時評があるが、これを今週中に書かなくてはならない。相変わらずである。

 今週のアニメの授業は「となりのトトロ」であった。このアニメで感心したのは、やはりサツキとメイという二人の主人公に設定したことだろう。最初少女一人の物語で構想したという。バス停でトトロと一緒に傘をさしている女の子のポスターがあるが、映画ではサツキがメイを負ぶって女の子は二人いるのに、ポスターでは一人の女の子である。これは、当初の設定でポスターを作ってしまったからだという。

 二人にしたのは意味がある。お化けと会えるのはメイである。まだ成長していないからだ。ところがサツキはお化けと会えるか会えないかぎりぎりの子供である。つまり、成長しかかっている少女なのだ。この姉妹の配置は実に巧みだと思う。成長したらトトロには会えない。成長する前の子供の物語と、成長途上にある少女の物語が重ねられているのだ。この二人の違いが際立ってしまう場面がある。お母さんが入院している病院から電報が届いたときだ。

 サツキは、とにかく父に電話しなくちゃと電話のある家に急ぎ走る。このときのサツキはすでに大人である。自分が何をしなければならないのかその役割を弁え、村の人に相談して目的を達しようと努力している。もう子供ではない。だが、メイは何も出来ない。ただ、サツキのあとを追いかけるばかりである。サツキはメイのことをかまっている余裕はない。この時、メイは足手まといになる妹なのである。ここでこの姉妹に溝ができる。成長した者としないものとの溝である。大人と子供の溝といってもいい。それが原因となって、メイは、道もわからずただお母さんのところへ行くんだと歩き始めるのである。

 メイがいなくなったとき、サツキは、自分がメイをつめたくあしらったことに自責の念を感じた。だから、トトロにメイを探してくれるように必死に頼み込む。このとき、トトロは、メイのために頼みを聞いたのである。大人になったサツキは本当はトトロに会えないのだ。無邪気でない大人の側の要求に本来お化けは反応しない。が、トトロは姿をあらわし、要求を聞いてくれた。「となりのトトロ」の物語の奇跡はここにある。

 もし一人の少女に設定すれば、その少女の年齢設定は難しかったろう。メイに近すぎれば、トトロと出会うことに違和感はない。が、物語として面白くなくなる。猫バスに乗ってお母さんの所に行って帰ってきたというだけの話になる。サツキに近すぎると、今度は、トトロと出会うことが難しくなる。自在に会うためには超自然的な力が備わってないといけないということになる。ナウシカのようにである。サツキがトトロに会えたのはメイがいたからなのである。

 少女の成長物語を描いてきた宮崎駿は、「となりのトトロ」で、成長する前の女の子と成長しつつある女の子とのあいだの微妙な距離感を、異界との関わりを通して描いたといってもいいのかもしれない。観客はほとんどサツキの視線でこのアニメを観たろう。だから、メイがいなくなつたとき、みんなサツキと同じように自責の念を感じた。それは、かつての体験だったかも知れないし、子供時代の自分への自責の念であったかも知れない。が、会えるはずのないトトロが、その自責の念を解消してくれた。みんな救われたのである。このアニメの人気は、そんなところにあると思うのだ。

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