ナウシカの矛盾と葛藤2011/06/13 00:34

 昨日今日と「問答論」の原稿書き。なとんか25枚ほど書き進む。少数民族の神話についての論だが、長編神話が問答で歌われている、という問題を、折口の文学起源論からどう解釈出来るか、論じようとしている。折口は、一人称語りの神話叙事がまずあり、そのエッセンスを「呪言」として掛け合うようになったのだという趣旨のことを述べている。だが、少数民族は、エッセンスではなく、神話そのものが丸ごと問答形式で歌われるのである。これは、折口の理論の及ばない問題なのか、それとも補強することなのか、それを論じている。

 結論としては、折口の論理を、修正しながらも補強するものだということである。少なくとも、長編叙事と掛け合いという表現形態をつなごうとした折口の意識は尊重すべきだ。大まかにとらえれば適応可能であると思っている。この夏、この論を、中国のシンポジウムで発表しようと思っているのだが、折口の文学起源論を中国の研究者に紹介する、という試みになる。折口の理論が何処まで、中国の研究者に受け入れられるのか、不安はあるが楽しみでもある。

 明日から、勤め先では「授業参観」の行事が一週間行われる。父母や教職員が、自由に授業を参観できるというものである。明日の私の「アニメの物語学」も当然参観される。共、その資料作りをしていたのだが、いよいよ明日から「風の谷のナウシカ」である。授業参観を別に意識したわけではないが、資料はかなり量が多くなってしまった。たぶん、ナウシカは明日の授業では終わらないだろうと思う。

 なにやら原発問題と重なってしまって、論じにくいのか論じやすいのか。文明の暴走によって地球が破壊されたあとの物語であるが、暴走した文明のテクノロジーは核らしいことはわかる。そう考えればアニメ版『風の谷のナウシカ』は、反原発ということになろうか。ナウシカは、核を生んだ人間の罪を一身に負って、王蟲に供物として差し出される。つまり死ぬ。が、王蟲の力によって生き返る。

 この結末はある意味で中途半端だ。ナウシカが本当の意味で犠牲になれば、残された人間は自分たちの罪を悔いるだろう。ナウシカが生き返ったのは悲惨な結末の回避であったと思うが、一方で、この結末は反原発の印象を弱くしている。王蟲が放射能だとすれば、王蟲つまり放射能は、王蟲の側の配慮で去ってくれたのである。現実はそんなに甘くはないだろう。「風の谷」全滅というのが現実の方のシナリオだ。そこまで描けばわかりやすい反原発のアニメになった。

 マンガ版では、ナウシカは、原発のような文明の業であってもそれを抱え込んで自然と何とか共生していくしかない、という矛盾と葛藤の立場を選択して終わっている。このマンガ版の連載が終わったのが、「もののけ姫」が公開される1年半前である。つまり、このマンガ版の終わり方は、そのまま「もののけ姫」で、自然と文明との単純な対立ではない、矛盾と葛藤を抱えこんだ共生として継承されたのである。宮崎駿が原発をどう考えているのかはわからないが(たぶん反対だろう)、「もののけ姫」では、タタラ場(製鉄所)は原発みたいなものである。その文明の象徴は決して一方的に否定はされていない。そう考えれば宮崎アニメはどうも単純ではない。と言うより宮崎駿自身が単純ではない。

 私が宮崎駿を授業で論じるのにそれほどの徒労を感じていないのは、この単純でないところにあるのは確かである。

    夏の水際矛盾と葛藤が寄せ来る