宮崎駿の外傷2011/06/05 23:26

 先週の金曜は大学院の方が休講なので(ひとりだけの受講生が教育実習で休みなため)、例年やっている、内視鏡による大腸検査を行う。半日以上の時間を費やし、夕方茅野に向かう。山小屋に先に奥さんが行っているのである。

 私は何ヶ月ぶりだろう。久しく行っていないので、仕事がけっこうある。車はまだ冬用のスタッドレスなので、まずタイヤ交換を行わなくてはならない。それから、風で薪小屋が倒れてしまったということなので、起こして修理しなくてはならない。土曜は学会があったのだが、この週を外すと行く日がないので、やむなく出かけた。

 そんなわけで土曜は一日労働であった。大腸検査時の血液検査で中性脂肪が高いと出た。運動不足であるということである。食べた分のカロリーを消費していないのである。毎日けっこう疲れているのに、脂肪はたまる。困ったものである。そういう意味で、この日は少しはカロリー消費に役立ったろうか。

 山は新緑がきれいである。久しぶりに新緑を堪能した。この新緑だけは東京にはない。チビも気のせいか元気そうである。今日(日曜)は中央高速は大渋滞。千円割引がなくなるということもあって、みんな車で遠出をしたということらしい。

 かえって明日の授業の準備。「アニメの物語学」は明日から宮崎駿だが、まず第一作目の「ルパン三世カリオストロの城」をやる。それで、何度か見た作品だが、また見直してみた。考えてみれば、この作品、物語の王道を行っている。

 ルパンを「行って帰る」(大塚英志)男の子の主人公とすれば、クラリスは囚われのお姫様。援助者に次元、五右衛門、時には不二子や銭形も援助者になる。敵はカリオストロ伯爵。舞台は城。主人公は姫を助け、そして結婚、というようになるところが、ルパンは泥棒だからそうはいかない。が、恋愛は成立する。物語の常道なら、ルパンを成長する男の子にすればよい。が、宮崎駿は、以後、ルパンを自立する女の子に換えた。自立する男の子の物語は『天空の城ラピュタ』ぐらいだが、『もののけ姫』も少しはそれに入るか。

 何故、宮崎駿は、女の子の自立の物語、つまり、クラリスの自立の物語に以後転換していったのか。斎藤環は、それを宮崎駿の心的外傷だと言っている(『戦闘美少女の精神分析』)。宮崎駿は17歳の時アニメ『白蛇伝』を見て主人公に恋をしてしまったと述べている。作品としては駄作なのにアニメの主人公に恋をするというのは、虚構の対象に囚われた体験であり、それが外傷だという。虚構を性的欲望の対象にするのは青年期の代用行為だが、おたくから距離をとる宮崎はそれを否定する。が、実は、否定出来ない、という心の分裂を抱えているのだという。その外傷が、彼の作品のセクシュアルな面を持つ美少女にあらわれ、それを繰り返さざるを得ないのだという。これにはなるほどと納得した。

 美少女、城、そして廃墟、「行って帰る」主人公、魔法のアイテムとしての「指輪」、このアニメには、物語の基本的な要素が全部そろっているのである。

    夏の日や「行って帰る」夢を見る

基礎ゼミはつらい2011/06/09 23:37

 基礎ゼミの授業に例年苦労している。この授業工夫しないとなかなか学生がついてこない。何せ、授業の受け方とか、ノートの取り方とか、レポートの書き方とか、基本中の基本、あえて学ばなくてもいいようなことを学ぶ授業だから、学生の方も退屈になる。

 授業と言うよりは講習ととらえているのだが、欠席が多くなると工夫が足りないのかなといささか落ち込む。先週と今週と、レポートの書き方を教えた。まずグループ毎に別れて、「日本に原発は必要か」というテーマで、グループ毎に討論して一定の結論を出すように指示した。資料も配った。そして各自、その結論に従って、序論、本論、結論という三つの構成に従って、簡単に要旨を書くように指示した。

 今週は、各自が提出した要旨に従って、原稿用紙に4段落から5段落構成で、原稿用紙の書き方に従って小論形式で文章を書くように指示をした。ただし、今度はグルーブで出した結論に従うのではなく、各自の考える結論で書くように言った。展開の仕方としては、まず「日本の原発は必要か」という問いに対する自分の意見を最初に書く。次に本論として、何故そう言えるのかを書く。その場合、反対の側の意見に配慮しながら書くこと。そして、最後に、本論を承けて自分の意見をまとめること、という指示をする。

 やはり原稿用紙のマス目に書かせるとそれなりにきちんと書く。とにかく、内容ではなく、形式としてまずは整った書き方を身につけさせるのが目的。そして、論理的に展開するとはどういうことなのか、それを意識させること。「原発問題」は賛成・反対・その中間、という立場がはっきりしていて、論じやすいのでテーマとした。

 学生はよく書いていた。最初に自分の意見を書け、と指示したのに書いていないのがいた。授業の最初に居眠りしていた学生である。指示通り書かないというのも、基本ができていないことと同じ。短期留学の単位認定の条件として、研修報告レポートを課しているのだが、その条件として、レポートの書き方はもちろんだが(例えば一字下げるとか、改行するとか基本的なことを含めて)、四つの項目を指示し、見出しを立てるように指示した。

 ところがだ、4名ほど見出しがない。2名ほど改行のない文章を書いている。ワープロで書くので、こういうブログの文章と同じような感覚で書いているらしい。厳格なら単位は認めないが、教育であるから、当然書き直しを命じた。あれだけ、書き方を指示していても守らない。授業で守らなくてもべつにと思っているかも知れないが、社会に出てその癖は必ず出る。それがきっかけで自分の人生がおおきく変わってしまうかも知れない。後悔しても遅いのだ。

 基礎ゼミとはそういうミスを防ぐための訓練である。完璧の璧を壁と書いてしまう学生が2~3割はいる。誰でもこういうことはある。そう思い込んでいるのである。私にだって時々間違って思い込んでいたことがわかって恥をかくことがいくらでもある。ただ、私の場合、もうそれで人生を狂わすことははないだろうが、これから社会人になる学生は違う。常識的にみんなが出来ることはとりあえずこなす、という基礎は身につけなければならない。だが、そういう訓練はつまらない。ワクワクできないからだ。だから教える方もつらい。

 ところで、「日本に原発は必要か」を書いてもらつたが、3~4割くらいは必要という意見であった。これは意外であった。今時の女子学生、案外現実的である。もっともこの傾向、世論調査とそう変わらない。ある意味で、常識的な反応なのかも知れない。ただ、どういう情報や資料を用いるかで、その意見もまた左右されるとしても、みんなそれなりに良く考えている。中には、かなり主観的な書き方もあったが、総じてレポートらしい書き方になっていた。少しほっとしたというところである。

ナウシカの矛盾と葛藤2011/06/13 00:34

 昨日今日と「問答論」の原稿書き。なとんか25枚ほど書き進む。少数民族の神話についての論だが、長編神話が問答で歌われている、という問題を、折口の文学起源論からどう解釈出来るか、論じようとしている。折口は、一人称語りの神話叙事がまずあり、そのエッセンスを「呪言」として掛け合うようになったのだという趣旨のことを述べている。だが、少数民族は、エッセンスではなく、神話そのものが丸ごと問答形式で歌われるのである。これは、折口の理論の及ばない問題なのか、それとも補強することなのか、それを論じている。

 結論としては、折口の論理を、修正しながらも補強するものだということである。少なくとも、長編叙事と掛け合いという表現形態をつなごうとした折口の意識は尊重すべきだ。大まかにとらえれば適応可能であると思っている。この夏、この論を、中国のシンポジウムで発表しようと思っているのだが、折口の文学起源論を中国の研究者に紹介する、という試みになる。折口の理論が何処まで、中国の研究者に受け入れられるのか、不安はあるが楽しみでもある。

 明日から、勤め先では「授業参観」の行事が一週間行われる。父母や教職員が、自由に授業を参観できるというものである。明日の私の「アニメの物語学」も当然参観される。共、その資料作りをしていたのだが、いよいよ明日から「風の谷のナウシカ」である。授業参観を別に意識したわけではないが、資料はかなり量が多くなってしまった。たぶん、ナウシカは明日の授業では終わらないだろうと思う。

 なにやら原発問題と重なってしまって、論じにくいのか論じやすいのか。文明の暴走によって地球が破壊されたあとの物語であるが、暴走した文明のテクノロジーは核らしいことはわかる。そう考えればアニメ版『風の谷のナウシカ』は、反原発ということになろうか。ナウシカは、核を生んだ人間の罪を一身に負って、王蟲に供物として差し出される。つまり死ぬ。が、王蟲の力によって生き返る。

 この結末はある意味で中途半端だ。ナウシカが本当の意味で犠牲になれば、残された人間は自分たちの罪を悔いるだろう。ナウシカが生き返ったのは悲惨な結末の回避であったと思うが、一方で、この結末は反原発の印象を弱くしている。王蟲が放射能だとすれば、王蟲つまり放射能は、王蟲の側の配慮で去ってくれたのである。現実はそんなに甘くはないだろう。「風の谷」全滅というのが現実の方のシナリオだ。そこまで描けばわかりやすい反原発のアニメになった。

 マンガ版では、ナウシカは、原発のような文明の業であってもそれを抱え込んで自然と何とか共生していくしかない、という矛盾と葛藤の立場を選択して終わっている。このマンガ版の連載が終わったのが、「もののけ姫」が公開される1年半前である。つまり、このマンガ版の終わり方は、そのまま「もののけ姫」で、自然と文明との単純な対立ではない、矛盾と葛藤を抱えこんだ共生として継承されたのである。宮崎駿が原発をどう考えているのかはわからないが(たぶん反対だろう)、「もののけ姫」では、タタラ場(製鉄所)は原発みたいなものである。その文明の象徴は決して一方的に否定はされていない。そう考えれば宮崎アニメはどうも単純ではない。と言うより宮崎駿自身が単純ではない。

 私が宮崎駿を授業で論じるのにそれほどの徒労を感じていないのは、この単純でないところにあるのは確かである。

    夏の水際矛盾と葛藤が寄せ来る

海ゆかば2011/06/15 23:13

 昨日(火曜)の夜は、代々木上原で室内楽のコンサートを鑑賞。マンションの隣の住人で音楽家の夫婦が、去年近所の一戸建てへ引っ越したのだが、コンサートの案内を送ってくれたので行くことにしたのである。さすがにプロの演奏家の室内楽で、しかも、スタジオ風の室内楽専用の会場。迫力があり、堪能した。「二人の天才」ということで、モーツァルトとメンデルスゾーンの曲が演奏された。両方とも三〇代で亡くなっている。最後に演奏したメンデルスゾーンの「弦楽八重奏曲変ホ短調Op.20」は16歳の時の作品だそうだ。解説でも言っていたが、確かに16歳でこれほどの曲を作ってしまったら長生きはできないと思う。

 音楽とあまり縁のない生活を送っているが、たまにクラシックのコンサートへ行くと、癒やされる。こういう余裕ももたなきゃと思った次第だ。

 いつもながらいろんなことが重なって、ぎりぎりの日々である。よく体が持つと思うが、我ながらたいしたものである。研究室の内側の扉に、チビの写真のコラージュが貼ってある。助手さんが私のブログから集めたチビの写真を、一枚にコラージュしたものだ。ストレスに負けずに何とか生きながらえているが、チビの貢献も大きい。

 北海道のM君から著作『海ゆかば』を送ってきた。以前から連載していたのをいよいよ本にしたのである。自費出版本だが、なかなか良い本である。どこか出版社で出して欲しい本だ。大伴家持の歌にある「海行かば水漬く屍~」のフレーズは、明治以降『海ゆかば』の歌として、作曲され、「君が代」に並ぶ国家の歌として、様々な国家儀礼に歌われた。明治のものは雅楽調だが、昭和に入り、西洋音階を取り入れて荘重な楽曲となる。

 当初は戦意高揚歌として歌われたが、次第に鎮魂歌として歌われ始める。Mはその辺りを豊富な資料を使って丁寧に追いかけていく。資料が戦争体験のものなので、読んでいて辛いときもあるが、古代の万葉集の歌が、近代になって復活していく理由について、Mならずとも興味が湧く。

 Tさんから書評してくれないかという連絡があり、引き受けた。自費出版本の書評は珍しいが、それだけ注目されたということだろう。ということで、また忙しくなったのである。 
      
                          海ゆかば古代の夏の白き雲

ラピュタの力2011/06/19 00:25

今日は研究会で出校。結局月曜から土曜まで出校となった。今週は、授業見学会の週で、私は委員なので他の教員の授業をいくつか見なくてはならない。ということで、昨日は、休みだったのだが、授業見学で出校。FD委員会でその報告をしなければならないのである。みんな熱心に授業している。他の授業を覗くのは勉強になる。

 たぶんどこの大学の教員も今が一番疲れているのではないか。結構蒸し暑いし、冷房も制限されている。五月の連休ナシの大学も多い。あと一ヶ月ちょっとの辛抱だが、梅雨明けになって猛暑になったとき、どうなるか。学校では、授業中、学生に飲み物を飲んでいいと通達を出した。暑さ対策である。暑さで学生の気分が悪くなったら授業を中止していいという通達も出た。そんな通達を出すなら授業そのものをやめるべきではないか、と批判する教員もいる。確かに、7月の第一週で休暇に入る大学もある。その批判わからないではない。

 研究会をやっていても確かに暑苦しい。これがほんとうは普通であって、わたしたちは快適な環境に慣れすぎているのかも知れないが、一度快適さになじんでしまうと、元に戻すのはとても難しい。先週、原稿用紙にきちんと「原発は必要か」というテーマで書くように言ったが、やはり半数近くが「必要」という意見である。彼女たちは快適さを失うこへの抵抗感が強いと見られる。

 ジブリのスタジオが原発の電気は使わないというメッセージを建物に掲げたそうである。原発問題を、宮崎駿は「文明論」として考えないと言っているらしい。今、『天空の城ラピュタ』の資料作りをしているのだが、最後の場面、ラピュタ城の姫であるシータに同じ一族であるムスカが迫る。シータが次のように言う。「いまラピュタがなぜ滅びたのか、わたしよくわかる。ゴンドアの谷の歌にあるもの。土に根をおろし、風とともにいきよう。種とともに冬を越え、鳥とともに春をうたおう…。どんなに恐ろしい武器をもっても、たくさんのかわいそうなロボットをあやつっても、土からは離れて生きられないのよ」それに対して、ムスカは次のように言う。「ラピュタは滅びぬ。何度でもよみがえるさ。ラピュタの力こそ、人類の夢だからだ」。

 ラピュタを「原発」に置き換えると、この両者の台詞、ほとんど今起きている問題を語っているとも言える。

 が、これは物語だ。シータは生き残り「ラピュタ(原発)の力は人類の夢だ」と言い放つムスカは死ぬが、実際ムスカはそう簡単には死なないだろう。宮崎駿は『もののけ姫』で、女達に「たたら場」を運営させる。ある意味ではこの「たたら場」はラピュタの力であり、人類の夢である。つまり、宮崎駿は、原発を女達に管理させたということだ。男に任せたらムスカが生き返るからである。女たちなら何とか許せるということだろうか。

 「ラピュタは滅びぬ」という言葉は重い。大変リスクのある言葉だ。現実では、土から離れて生きられぬものたちが、ラピュタの力を夢見、ラピュタの力を手に入れた者達が、「土から離れては生きられない」と反省するのである。「土から離れては生きられない」ものが「土から離れては生きられない」と語ったら、それは選択肢のない自分の宿命を仕方なく受け入れた言い方になる。現実とはこういうパラドックスに満ちているのだ。

 そう考えると、『天空の城ラピュタ』を夢中になって見ていた少女達が、少し大人になって、原発がないと困ると書くことは、物語と現実との区別をわきまえ、このパラドックスをしたたかに生きているのだ、という気がするのである。むろん、それは、彼女たちが、放射能による避難区域に住んでいない、ということでもある。

シータの覚醒2011/06/23 01:09

 いやあ暑い。さすがに今日は暑かった。教室の学生もだるそうだった。この最悪の環境の中で、授業をやるのも大変である。昔、私が学生だった頃、クーラーのない教室で授業していたが、あの時はそういうものだと思っていたが、今は心地よい環境が用意されていて、ただ、人為的な原発事故でその快適さが奪われている。この不幸を、原発不要に持っていくのか、原発必要に持っていくか、学生の反応が半々だったことはすでに書いた。

 どっちにしろ、論理的に説明出来るかどうかか大事だというのが教育ではあるが、私などもそうだが、やはり情報によって論理が左右されるということがある。そのことの指摘もまた大事なことである。

 『天空の城ラピュタ』の授業は反応が良かった。特にシータが最後にムスカに向かって、「あなたは私と死ぬのよ」とか「土を離れては生きられない」と叫ぶ場面、私は「シータの覚醒」と呼んだ。ここで少女シータは少女でなくなる。あえて言えばナウシカになる。実際声もここで変わる。突然大人の声になるのである。シータは、パズーによって助け出されるお姫様ではなく、人類を救う救世主になるのである。シータは最後に圧倒的な存在感を示し、パズーの冒険物語だったこの映画を、少女が世界を救う物語に変えてしまったのである。ここからパズーはシータの影に隠れてしまう。

 この場面を見せたが、「鳥肌が立った」と感想を述べた学生が何人かいた。あらかじめ情報を与えて見せたので、学生は期待通りに反応したということである。結局、宮崎駿は、少年の成長譚を最後まで描けないのだ。最後の最後に女の子に成長の証しを取られてしまう。そして、宮崎駿が、女性に圧倒的な人気なのもここに理由があろう。『ハウルの動く城』はさんざんな評価だったが、それは男の評価だったという。男は、ハウルに感情移入出来ず、何を描こうとした物語なのかわからない、と反応した。ところが、女性はこの作品を圧倒的に支持した。いきなり老人になってそして若くなり、ハウルを救う女主人公ソフィーに感情移入したからである。この男女の反応の違いは日本でも世界でも共通していたと解説に書いてあった。

 結局、宮崎駿の描くアニメは、多かれ少なかれ、少女が覚醒していく物語なのだ。男はその覚醒のきっかけになるかあるいはそれを助ける役割なのである。『紅の豚』は中年男が主人公だが、ここでもやはり、フィオという美少女が登場、主人公ポルコはフィオの成長を助ける役回りになる。

 宮崎駿はロリコンなのですか、と書いた学生がいたが、そうではないだろう(そうかも知れないが)、要するに、女性への性的願望を抑圧しすぎる真面目なタイプなのである。マザーコンプレックスがある、と言ってもいいかも知れない。斎藤環は『白蛇伝』のヒロインに恋したと宮崎が語っているのに注目し、ここに彼の心的外傷がよく現れていると述べている。二次元の女性への恋は、現実へ関われないことの回避行為であり、その意味では「オタク的資質」を持つ(といってもこの程度なら私だって持っている)が、その誘惑に対して出した答えが、少女の覚醒を描くことなのである。つまり、これはかつての少年宮崎が果たせなかった通過儀礼の、代理行為でもある。その意味ではセカイ系の心性とも近い。宮崎もまたオタクやセカイ系の心性と伴走していたということである。

                      たくさんの少女まだ覚醒せず夏